説    教        箴言2121節   ピリピ書31719

               「主に従う歩み」 ピリピ書講解(27

               2019・07・28(説教19301813)

 

 私たちキリスト者にとって「主に従うこと」「キリストに従う生涯を歩むこと」こそ、本当の幸いではないでしょうか。しかし同時に、これを信仰生活の理想とする私たちにとって、これほど困難な「言うは易く、行うは難し」という道もないのです。そこで、今朝の御言葉・ピリピ書317節以下において、使徒パウロはどのように語っているのでしょうか?。ここに、実に驚くべき言葉が出てくるのです。

 

 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい」。なんとパウロはここで、愛するピリピの教会の兄弟姉妹たちに「どうか、わたしにならう者となってほしい」と書き送っているのです。これは大変な言葉です。試みに私たち自身のことを顧みればわかるのではないでしょうか。私たちの内のいったい誰が、他の誰かに向かって「どうか、わたしにならう者となってほしい」と言えるでしょうか。

 

 昔から、いわゆる「キリスト者の理想像」とされてきた人たちの存在があります。皆さんも名前をお聞きになったことがあるでしょう。私たちの教会で申しますなら、たとえば植村正久牧師などは、ひとつの理想的キリスト者のイメージとして記憶されてきました。歴史上の人物をあげるなら綺羅星の如くであります。アタナシウス、アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、コメニウス、パスカル、ジョン・ウェズレイ、カール・バルト、ボンヘッファー、シュヴァイツァー、最近ではマザー・テレサの名前がすぐに挙げられることでしょう。

 

 このような歴史上のいわゆる“信仰の偉人”と称せられる人物について、私たちが「彼らに倣う歩みをしたい」と願うのは決して不自然ではなく、むしろ当然のことです。しかし目を自分自身に転じて、私たちが他の誰かに向かって「どうか、わたしにならう者となってほしい」と語る場面を想像できるでしょうか?。「いやいやとんでもない」「そんな不遜なことはできません」と真顔で否定せざるを得ない私たちではないでしょうか。特に私たち日本人の感覚から言えばそれは当然のことです。「あの人に倣う者になりなさい」と言うことはできても「この私に倣う者になりなさい」とはとても言えない、言えたとしたら傲慢なことだ。そのように感じる私たちなのではないかと思うのです。

 

 それならば、今朝のピリピ書317節において、そのことも一切合切承知の上で、使徒パウロは敢えて「どうか、わたしにならう者となってほしい」と語っているのです。それは、なぜなのでしょうか。パウロは傲岸不遜な人だったからでしょうか?。そうではありません。パウロが書いた手紙を読めばすぐわかることですが、パウロという人はとても謙虚な人です。謙虚こそパウロの性格の特質であったと言って良いほどです。そのパウロがなぜ、敢えてここに「どうか、わたしにならう者となってほしい」と語っているのでしょうか?。そればかりではありません、さらに続いてパウロは「また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい」とまで語っています。ここには「模範」という言葉さえ出てきます。つまりパウロは自分のキリスト者としての歩みをさして、それは「あなたがたの模範」であるとまで語っているのです。これは一体どのようなことなのでしょうか。

 

 これを読み解くために続く1819節に改めて心を留めましょう。「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」。パウロはここで、当時のピリピの教会を混乱させていたグノーシス主義者たちのことを念頭に置きつつ「彼らの最後は滅びである」と語っています。それは「彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のこと」だからです。グノーシス主義者たちはピリピの教会の説教壇を独占するようなことをしていましたが、彼らが語る説教は要するに「自分たちの栄光」を現し「自分たちの偉さ」を語るのみでした。

 

 もともとグノーシスとはギリシヤ語で「知識」という意味です。つまりグノーシス主義者とは「ある特定の優れた知識に到達した人だけが救われる」とする考えかたです。イエス・キリストの福音ではなく、人間が生み出した哲学的思想です。つまりグノーシス主義者たちはピリピの教会の人々に「我々のような哲学的思想に到達せよ。そうすれば救われる」と宣べ伝えていたわけです。救いはキリストにあるのではなく、グノーシス思想にあるのだと宣伝していた人々です。だからこそパウロは非常に厳しく「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」と言わざるをえませんでした。このことをパウロは「今また涙を流して語る」とあるように、悔改めへの促しと共に語っています。つまり、ピリピの教会の人々に語るのと同様に、グノーシス主義者たちに対しても「どうか、わたしにならう者となってほしい」と語っているのです。

 

 そこで、パウロの切なる願いは18節にあるように「キリストの十字架に敵対して歩いている者」たちがキリストに立ち帰ること(悔改めて救いを得ること)にありました。この「十字架に敵対して歩く」とは、イエス・キリストが神の御子・救主であられることを否定することです。だとすれば、そのような「キリストの十字架に敵対」する誤った教えがピリピの教会の説教壇から宣べ伝えられていたわけです。そして誕生してまだ間もないピリピの教会は動揺し、混乱しまして、分裂の危機にさらされていたのです。こうした深刻な教会の危機的状況に直面して、使徒パウロはローマの獄中から熱烈なる祈りをもって、愛するすべての人々に、そしてグノーシス主義者たちに対して「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい」と語りかけているわけです。

 

そういたしますと、ここでパウロが語っている「わたしに倣う者になりなさい」とは、パウロという人間個人に倣うということではなく、パウロの信仰に(信仰生活に)倣う者になりなさいという意味だということがわかるのではないでしょうか。さらに申しますなら、パウロという一個の人間に倣いなさいと言うのではなく、パウロが信じ、告白し、拠り頼んでいる主イエス・キリストを、パウロと同じように信じ、告白し、拠り頼む人になりなさい、という勧めであることがわかるのです。つまりこの「わたしに倣う者になりなさい」とは、あなたも私のように「ただ主イエス・キリストを信じて歩む者になりなさい」という勧めなのです。

 

 今日の御言葉において、パウロははっきりと語っています。マザー・テレサに倣いなさいでもなく、カルヴァンに倣いなさいでもない、あなたは一人のキリスト者として、誰に対してでも「この私に倣う者になってほしい」と明確に語ることができる、そのようなキリスト信仰に生きているだろうか?。そのようにパウロは、今ここに集う私たち一人びとりに宣べ伝えているのです。自分を誇示するのではありません。その逆です。救いは十字架の主イエス・キリストにのみあるのです。その十字架の主イエス・キリストのみに拠り頼む「私に倣う者になりなさい」という勧めですから、それはただ十字架の主イエス・キリストのみをさし示しているわけです。私たちはいま、そのような証を立てるキリスト者となっているでしょうか?。

 

 使徒行伝の31節以下に、エルサレムの「美しの門」の傍らで起こった、ある救いの出来事が記されています。「美しの門」の傍らに物乞いをしていた男がいました。この男にペテロとヨハネが出会いました。その時ペテロが彼に「わたしたちを見なさい」と言いました。男はじっとペテロとヨハネを凝視しました。するとペテロはこう言ったのです。「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。そう言って彼の手を取って起こしてやりますと、いままで立ち上がれなかったこの人が、立ち上がって歩む者に変えられたのでした。そしてペテロとヨハネと共に神の御名を讃美しつつ、初代エルサレム教会の一員として喜びと希望の人生を歩む人になったのです。

 

 このとき、ペテロは何とこの人に言いましたか?。「わたしたちを見なさい」です。誰か他の人を示したのではありません。まさに「いま、この、わたしたちを見なさい」と言ったのです。それはいま「十字架の主イエス・キリストによって救われた者として歩んでいる」この私を見なさい、そして「十字架の主イエス・キリストによって救われた私に倣う者になりなさい」という勧めにほかなりません。この生命の言葉、この救いの出来事、この証の幸いは、いまこに連なる私たち一人びとりにも、同じように与えられているのではないでしょうか。

 

 それは、この証こそは聖霊の賜物だからです。他の誰かを見なさいではなく、いま、キリストによって贖われ、救われている、この「わたしに倣う者になりなさい」という証の言葉こそは、聖霊なる神が私たち全ての者に与えていて下さる伝道の言葉、祝福の言葉なのです。これを豊かに戴いている私たちとして、新しい一週間の旅路をも、心を高く上げて歩んで参りたいと思います。祈りましょう。