説    教      レビ記1912節   ピリピ書31516

               「至れる所に随いて」 ピリピ書講解(26

               2019・07・21(説教19291812)

 

 「だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである」。これが今朝、私たちに与えられたピリピ書31516節の御言葉です。ここで使徒パウロは「だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである」と語っています。この「全き人たち」というのは誰のことでしょうか?。幾つかの解釈が成り立ちますが、今までお読みして参りましたピリピ書全体の文脈から推測いたしますに、この「全き人たち」とは、パウロが去った後のピリピの教会に入りこみ、勝手な説教をして信徒たちを惑わせていた「グノーシス主義者」たちのことをさしているものと思われるのです。

 

 グノーシスとはギリシヤ語で「知識」という意味です。その名のごとく彼らは「人間が救われるためにはある特定の知識が必要である」さらに申しますなら「人間が救われるのは主イエス・キリストによってではなく、特定の知識によってである」と主張していた人たちでした。そしてその「特定の知識」を持っていると認定した人たちに「全き人」という称号を授与したわけです。つまり、今朝の15節にある「全き人たち」とは、「主イエス・キリストによってではなく、知識(グノーシス)によって救わるのだ」と主張していた「グノーシス主義者」たちのことをさしているのです。

 

 そういたしますと、使徒パウロとピリピの教会にとって、この「全き人たち」というのは困った存在、むしろ教会を攪乱し分裂させる悪しき人々であったということがわかります。事実、彼らグノーシス主義者たちは主日ごとに説教壇を独占し、教会員たちに勝手な誤った教えを宣べ伝えていました。まさにその悪しき「教会攪乱者」であったグノーシス主義者たちに、使徒パウロははっきりと語るのです。「あなたがたが自分たちのことを“全き人たち”と自称するなら、どうか私のように歩む人になって欲しい。自分の虚しい“知識”を誇るのではなく、私のように“キリストにある真の救いを捕らえんとて追い求める者”になってほしい」。それが今朝の15節の御言葉の意味です。

 

 そして、それと同時にパウロは同じ15節に「しかし」とも語り継いでいます。「しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう」。パウロはこう言うのです。もし私の勧告にもかかわらず、あなたがた「グノーシス主義者」たちが自説を曲げず頑なに自らの「知識」に寄り頼むなら、つまり「違った考えを持っているなら」それが間違っていることを神ご自身が示して下さるであろう。更に言うなら、パウロはこのように語っているわけです。「真の救いは人間の知識の中にあるのではなく、ただ十字架の主イエス・キリストにあるのだ。だから、あなたがたが自分たちを“全き人たち”と自称するならば、私のようにひたすらキリストを信ずる人になってほしい。キリストの中にこそ本当の完全があるからである。しかし、あなたがたが頑なに自説を曲げないならば、神は必ずそれが間違いであることを示して下さるであろう」。

 

 いわば、パウロはここで「全き=完全」という言葉を逆手にとって、グノーシス主義者たちの間違いを指摘しているのです。人間の中にどうして「完全」がありうるだろうか。「救い」がありうるだろうか。「完全」と「救い」はただ神にのみあるのだ。十字架の主イエス・キリストのみが唯一の救い主でありたもうのだ。だから自分たちのことを「全き人たち」と自称するあなたがたグノーシス主義者たちは、必然的に主イエス・キリストを信ずる者にならねばならない。そのようにパウロは語っているわけです。見事な三段論法がここには描かれています。すなわち、@グノーシス主義者たちは自分たちを「完全な人々」だと主張する。Aしかし完全は人間の中にではなくただ神にのみある。Bだからグノーシス主義者たちは神にのみ寄り頼む者にならねばならない。

 

 この見事な「救いの三段論法」を描きかつ示しつつ、グノーシス主義者たちに悔改めを促して、今朝の16節において使徒パウロはさらに、今度は愛するピリピの教会員全てに対してこのように語っています。「ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである」。パウロは語るのです「愛するピリピの教会の兄弟姉妹たちよ、グノーシス主義者たちの間違った教えに惑わされてはならない。そうではなく、主イエス・キリストのみを救い主と信じ告白する正しい信仰に堅く立つ者でありなさい。まさにこの「主イエス・キリストのみを救い主と信じ告白する正しい信仰」のことをパウロは「達し得たところ」と呼んでいます。ですから気を付けて戴きたいのですが、この「達し得たところ」とは人間の努力精進の結果を言うのではなく、キリストを信ずる信仰のことをさしています。

 

 愛するピリピの教会の兄弟姉妹たちよ、既にあなたがたの内に十字架におかかりになった主イエス・キリストの御姿が、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会が、確立したではないか。あなたがたの救いが確立したではないか。その正しい教会の信仰告白に堅く立って揺るぐことのない教会員になりなさい。そのようにパウロは強く勧めているわけです。それが「ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである」という16節の御言葉の意味です。正しい信仰の道を歩み続ける群れであり続けなさい。十字架と復活の主イエス・キリストの福音から離れることのない群れであり続けなさい。そのようにパウロは全ての人々に説き勧めているのです。

 

 これとほぼ同じことを、パウロはガラテヤの教会でも経験しました。ただガラテヤの教会では教会を攪乱したグループが律法主義者であったという違いがあるだけです。ガラテヤ書312節をお読みしましょう。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか」。ここではパウロはとても厳しい言葉を用いています。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか」。

 

大切なことは、ここに「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに」とあることです。これは訳し直しますなら「あなたがたは十字架のキリストにお会いしたのに」という意味です。「十字架のキリストにお会いした」「十字架のキリストがあなたがたに出会って下さった」それほど大きな恵みを与えられたあなたがたを、いったい誰が惑わしたというのか?。いったい誰があなたがたを、十字架のキリストから引き離してしまったのかと問うているのです。

 

 東京は神田神保町の一角に友愛書房というキリスト教書専門の古書店があります。昔から値段のつけかたが雑な古書店で、安いはずの本が高く売られている半面、逆に高いはずの本が安く売られていたりする、いわゆる「掘出しモノ」がある古書店です。ずいぶん前のことですが、この友愛書房で亡くなられた富士教会の福田雅太郎先生にお会いしたことがあります。当時、私はまだ東京の千歳教会にいる頃でした。おりしも書棚の上のほうにエーミル・ブルンナーの“Wahrheit als Begegnung”(唯一の出会いとしての真理)があるのを、福田先生と私がほぼ同時に発見しました。値段を見ると驚くほど安かった。そこで、どういう経緯か忘れましたけれども、私はその本を福田先生に「先生どうぞお買いになって下さい」とお譲りしたのです。今から20年前、福田先生が天に召された時、先生の蔵書を東海連合長老会の牧師たちが戴けることになりまして、私は他の牧師たちから一週間ほど遅れて富士教会に参りました。他の牧師たちはどうも日本語の本ばかりを持っていったようで、私が欲しかったドイツ語の本は全く手つかずのまま残っていました。福田先生の形見として戴いて参りましたそのドイツ語の本の中に、まさしくあの日の「唯一の出会いとしての真理」がありました。そのような次第にて今はその本は私の手元にあるわけです。

 

 前振りが長くなりましたが、この本の中でエーミル・ブルンナーが強調していることは、この世が「真理」と名づけるものには2つの種類があるのだ。第一の真理は哲学者が「知識」として追い求めるもので、それは私たち人間が全身全霊で追い求め、そしてごく少数の、まさに今朝の御言葉で言う「全き人たち」だけが捕えることができる、そのような真理である。ブルンナーによればこの世界における「真理」と呼ばれるものの99.99パーセントが「そのような、人間が追い求める真理である」と言うのです。しかし、ブルンナーは続けて申します。そのような「人間が追い求める真理」とは全く違う、私たちを救い、真の自由を与える、唯一の真理がある。それは真理みずからが私たちを訪ね求め、私たちに出会う、そのような「唯一の出会いとしての真理」である。そしてその「唯一の出会いとしての真理」こそ十字架と復活の主イエス・キリストにほかならないとブルンナーは言うのです。つまり、十字架と復活の主イエス・キリストは、まさにその限りない恵みをもって、私たち罪人を追い求め、訪ね求めて、私たちに出会って下さり、そのようにして私たちを救い、永遠の生命を与えて下さるのです。

 

 私たちはいま、主イエス・キリストの御身体なる教会により、この「唯一の出会いとしての真理」そのものにていましたもう十字架と復活の主イエス・キリストと出会っている者たちなのです。教会に連なるということは「唯一の出会いとしての真理」なるキリストに堅く結ばれて生涯を歩む幸いです。その私たちは、今朝の御言葉において使徒パウロが語り告げているように、ただ「達し得たところに従って進むべき」なのではないでしょうか。なぜなら、ここでパウロが語る「達し得たところ」こそ、私たちを追い求め、訪ね求め、出会って、救って下さった十字架と復活の主イエス・キリストの御業にほかならないからです。このキリストの「唯一の出会いとしての真理」に堅く根差して揺るぐことのないあなたがたであり続けなさい。いつもどこででも、出会って下さる主イエス・キリストのみを見つめて歩み続けるあなたであり続けなさい。そのように一意専心パウロは、聖書は、私たち全ての者たちに宣べ伝えつつ、熱き祈りと共に感謝と讃美を献げているのです。祈りましょう。