説    教      イザヤ書156節   ピリピ書31012

               「主イエスに捕えらる」 ピリピ書講解(24

               2019・07・07(説教19271810)

 

 今朝のピリピ書310節から12節の御言葉を、もういちど口語訳でお読みいたしましょう。「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」。:

 

 そこで今朝、私たちに与えられたこの御言葉は、たいへん印象ぶかいと同時に、私たちの心に突き刺さってくるような、とても激しい御言葉であると思います。特に12節の御言が大切です。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」。

 

 なぜパウロは、このようなことを語らねばならなかったのでしょうか?。ひとつの理由として、当時のピリピの教会の信徒の中に、キリスト中心の信仰生活が次第に失われつつあった現実がありました。先週もお話しましたように、いわゆる「偽教師」と呼ばれる人々が、パウロが去った後のピリピの教会に巧に入りこんできて、説教壇から人間中心の間違った福音を語り、人々を正しい信仰から逸脱させていたのです。すなわち「分陰的律法主義者」たちと「グノーシス主義者」たちは、両者ともに「救いはキリストにではなく、人間の努力精進にあるのだ」と宣べ伝えていた人々でした。

 

 実は、私たちは、こうした人間中心主義に弱いのではないでしょうか。教会に集まってくる人たちはある意味で社会的にたいへん真面目な、有能な、そして教養豊かな人たちが多いのです。それが良いか悪いかではなく、特に日本のキリスト教は旧武士階級に浸透してゆきました。ですから最初から人間中心主義の危険を教会の中に持っていたと言えるのです。救いを決定する決め手は、結局は人間自身の努力精進によるのだという考えかたです。それと同じことがピリピの教会の中にもあったのです。「キリストは救い主である。それはわかる。しかし救いの決め手となるものは、実は人間自身の功績・努力精進によるのである」という考えかたです。

 

これは要するに「キリストは救い主ではなく、ただ救いの方向をさし示してくれるかたでにすぎない」という考えかたになります。道に譬えて申しますなら、キリストは救いへの方向をさし示して下さるかたにすぎない。その方向に実際に歩んでゆくのは人それぞれなのであるから、要するに救いの決め手となる者は人間の努力精進である。そのような結論になるのです。こうした功績主義的キリスト教がピリピの教会の中に蔓延していました。そして多くの信徒たちがキリストという中心を見失った結果、信仰生活の喜びと平安を失い、自分に絶望し、他者を審く、誤った律法主義的な生きかたへと逆行していったのでした。

 

 このようなピリピの教会の憂うべき現実に対して、ローマの獄中から使徒パウロは今朝の310節から12節を書き送り、これを弟子エパフロデトの手に託してピリピの教会の安息日の礼拝説教で朗読させ、改めて愛する教会員すべてに、@ただキリストのみが唯一の救い主でありたもうこと、A私たちの努力精進には如何なる救いの力も無いこと、Bキリストに捕らえられることそのものが「救い」であること、以上の3点を明らかにして、鋭く激しく福音を宣べ伝えているのです。

 

 そこで以下、この3点について順を追って学んで参りましょう。まず@「ただキリストのみが唯一の救い主でありたもうこと」です。これは宗教改革においてルターやカルヴァンが繰返し明らかにした、私たちの信仰生活にとって最も大切な事柄です。ルターに焦点を当てて考えてみましょう。ルターはこの「キリストのみ」の「のみ」という言葉に私たちの注意を促しています。ラテン語では“solus”という単語で「キリストのみ」は“sola Christus”という言葉になります。そこでルターは申します。この「ソラ」にこそ私たちの救いの一切の根拠がある。逆に言うなら、私たちの信仰生活において「キリストのみ」の「のみ」が失われるとき、私たちの信仰生活は喜びと慰めの無い空虚なものにならざるをえないのです。

 

 第二にA「私たちの努力精進にはいかなる救いの力も無いこと」がいつも明らかでなければなりません。コマがよく回転するのは中心がただ一つしかない時だけです。もしコマの中心が複数あるなら、そのコマは回転するどころか、揺れて倒れてしまほかはないでしょう。それと同じように、私たちの信仰生活にはただ一つの中心であられるキリストのみが大切なのです。キリストのみが唯一の「主」でありたもう時にのみ、私たちはどのような時にも安心して、落着いて、感謝と喜びをもって信仰生活を続けてゆくことができるからです。

 

 最後にB「キリストに捕らえられることそのものが救いであること」が、いつも明白な私たちであらねばなりません。使徒パウロには「福音的律法主義者」たちが「肉の頼み」すなわち救いの根拠として主張するより遥かに多くの「肉の頼み」がありました。そのことをパウロは同じ3章の5節以下に次のように語っています。「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」。「しかし」とパウロは言うのです。7節と8節です。「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」。

 

 まさに今朝の御言葉は、この喜びの「しかし」に続くものです。改めて今朝の1011節に心を留めましょう。「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」。ここでパウロは「(キリストの)その死のさまとひとしく」なりたいと切に願っていると語っています。これは不思議な言葉です。誰が「死のさまとひとしく」なりたいなどと願うでしょうか。しかし大切なことは、その「死のさま」とはキリストのものだという事実です。それは、私たちの測り知れぬ罪のために十字架におかかりになり、私たちの贖いとなって下さった十字架の主イエス・キリストの「死のさま」にほかなりません。

 

 それならば、その「死のさま」というのは、十字架の主イエス・キリストの恵みのことです。それならば、その「十字架の主イエス・キリストの恵み」と「ひとしく」なるとは、まさに聖霊なる神が与えて下さる信仰によって、キリストを「わが主・救い主」と信じ告白し、キリストの御身体なる教会に結ばれて歩む、キリスト者の新しい生活を意味しているのです。それは礼拝者の生活です。それこそが「キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなる」ことなのです。とても具体的なことです。このようなことを知識の次元で考えてはいけません。これは具体的にキリストを信じて洗礼を受け、主の御身体なる教会の枝となり、キリスト者として、礼拝者として生きることです。

 

 そのとき、私たちには驚くべき恵みがさらに与えられているのです。それは11節に「なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」とあるように「死人のよみがえり、永遠の生命」の幸いを、私たちが受け継ぐ僕とされていることです。パウロがこの11節を書いたとき、パウロの心の中には、やがて主イエス・キリストが再び来たりたもう日の喜びと幸いが描かれていたことでした。そのとき再臨の主は、全世界の真の教会をご自身のみもとに招き寄せ、全世界に救いの御業を完成したまい、全て主にありて眠れる者たちを復活の永遠の生命に目覚めさせて下さるのです。

 

 だからパウロは続く12節に「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」と語っています。その復活の永遠の生命は、いま信ずる全ての人の内にたしかに与えられている主の恵みであると同時に、それは来たるべきキリストの来臨の日に完成し、全ての人の目に明らかになるものなのです。だから今はまだ私たちは「すでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言う」ことはできません。

 

しかし、譬えて言うなら、東の空が明るんできた時には朝がたしかに訪れたことを知るのと同じように、今はまだ完成してはいないけれども、復活の日そのものではないけれども、既にキリストに結ばれ、キリストの十字架の恵みと「ひとしく」されている私たちには、その復活の永遠の生命の喜びは、いま歴史の中で先取りされているものなのです。保証されているのです。約束されているのです。だから私たちは喜んで、ただ主イエス・キリストのみを唯一の「主」と崇め、礼拝者として生き続けてゆこうではないか。異なる教えに惑わされることなく、キリストの恵みに堅く根差した信仰生活を続けてゆこうではないか。パウロが愛するピリピの教会の全ての人々に語り告げているのはそのことです。

 

 そして、パウロは最後にこう語りました。「そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」と!。私はいまだ救いの完成の中にはいないかもしれない。いまだ復活の生命の輝きの中にはいないかもしれない。しかし大切なこと、確かなことはただ一つなのだ。それは「キリスト・イエスによって捕えられている」という一事のみが大切なのだ。そのようにパウロは語りつつ、愛するピリピの教会の人々に、ただ十字架の主イエス・キリストの恵みの中に堅く留まっていなさいと力強く教え勧めているのです。この「捕えられている」という字は「今も、後も、いつまでも、主は私を捕えていて下さる」という意味のギリシヤ語です。同じように、今ここに集う私たち全ての者を、主は「今も、後も、永遠までも、捕えていて下さる」のです。

 

その恵みを覚え、その恵みを讃美し、その恵みに感謝しつつ、どうか私たちは、新しい一週間も、ただキリストに捕らえられた者として、心を高く上げて、信仰の歩みを続けて参りたいと思います。やがて主は再び来たりたまい、全世界に救いの御業を完成して下さるのです。祈りましょう。