説    教      申命記3227節   ピリピ書329

               「絶大なる価値ゆえに」 ピリピ書講解(23

               2019・06・30(説教19261809)

 

 「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である」。使徒パウロは今朝のピリピ書323節において、まずこのような厳しい言葉をピリピ教会の人々に投げかけています。ここで「あの犬どもを警戒しなさい」の「あの犬ども」とは、具体的に誰のことを語っているのでしょうか?。

 

 ピリピという街は伝道者パウロの人生にとって、とりわけ伝道に数多くの困難試練が伴ったという点において特別な意味のある街でした。よくピリピ書は「喜びの手紙」と呼ばれますけれども、実際にはピリピの教会には、そのようなピリピの街に建てられた教会として少なからぬ困難な問題があったのです。その中でも特にパウロが、またピリピ教会の長老会が苦慮した事柄は、いわゆる「偽教師」たちの問題でした。しかもその「偽教師」たちには二つの系統がありました。

 

第一に、ユダヤ教的な律法主義の伝統と規則をピリピの教会の中に持ちこもうとする「福音的律法主義者」たちの暗躍がありました。この「福音的律法主義者」たちは、人間が救われるのはイエス・キリストの恵みによってではなく、ユダヤ教の律法を守ることによるのだと主張していた人々です。要するに、人間の救いは神の恵みによるのではなく、人間の努力精進によるのだと主張していた人々です。この立場の人々がパウロが去った後のピリピ教会に入りこみ、信徒たちを惑わし、教会を混乱と分裂の危機に陥れていたのでした。

 

 第二の「偽教師」たちとして「グノーシス主義者」と呼ばれる人々がいました。これは「福音的律法主義者」たちとは違って、ユダヤ教の律法などはどうでも良い、というよりもむしろ無いほうが良い、と考えていた人たちです。それに代わって「グノーシス主義者」たちが救いの根拠として主張したのはギリシヤ的な「知恵」でした。人間は自分の中にある「知恵=グノーシス」によって真理に到達することができる。その知恵こそが救いの根拠である。要するに人間が救われるのは神の恵みによってではなく「知恵」によるのだと主張していた人々です。

 

 それで、この二つのグループ「福音的律法主義者」たちと「グノーシス主義者」たちには共通点がありました。それは「人間の救いはイエス・キリストにあるのではなく、人間の努力精進にあるのだ」とする主張です。その人間自身の「努力精進」の中身が「福音的律法主義者」たちにとっては「律法」であり、そして「グノーシス主義者」たちにとっては「知恵」であったという違いがあるだけです。この二つのグループが、パウロが去った後のピリピ教会の中に巧みに入りこみ、自説を主張して教会を混乱と分裂の危機に陥れていたわけです。

 

 まさにこの二つの「偽教師」たちのことを、パウロは今朝の32節で「あの犬どもを警戒しなさい」というまことに厳しい言葉で、ピリピ教会の人々に注意を呼びかけているわけです。聖書で「犬ども」と呼ぶとき、それは飼犬ではなく野犬(=狼)のことです。徒党をなして街の周囲をうろつき、喰らうべき餌に襲いかかる隙を狙っている、そのような野犬(=狼)の浅ましい姿を「偽教師」たちの姿になぞらえているわけです。

 

ですからパウロはすぐ続いて「悪い働き人たちを警戒しなさい」と語っています。たとえ見かけはどんなに熱心であっても、悪い意図から、つまりキリストではなく自分の意志を教会の中に押し通そうとする、神中心(Theozentrisch)ではなく、自己中心(Anthropozentlisch)な意図から出た行いに「警戒しなさい」と呼びかけているのです。

 

 「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である」とパウロは語ります。ここでパウロが言う「割礼の者」とは「救いの約束を受け継ぐ人々」という意味です。旧約聖書の言葉です。それは「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしない」人々のことである。ここで言われている事柄はとても具体的で単純なことです。つまり、主イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、教会員になった人たちのことを言っているのです。

 

逆に言うなら、こういうことになります。「主イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、教会員になった人たち」のみが「割礼の者=救いの約束を受け継ぐ人々」なのだ!。「福音的律法主義者」たちはユダヤ教の律法を喧しく主張しているかもしれない。「グノーシス主義者」たちは「知恵」こそ人間の救いの根拠だと喧しく主張しているかもしれない。しかし「主イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、教会員になった人たち」のみが「割礼の者」すなわち「救いの約束を受け継ぐ人々」なのだ。パウロがローマの獄中から言葉を尽くしてピリピの信徒たちに訴えているのはそのことです。

 

それは言葉を要約するなら「私たちの救いはただ主イエス・キリストのみにある」ということです。人間の中には救いは無いのです。十字架と復活の主イエス・キリストのみが唯一永遠の真の救い主にいましたもうのです。だから、私たちの人間としての力や知恵は、努力精進は、どんなに弱くても良いのです。ただ十字架と復活の主イエス・キリストのみが唯一の救い主にいましたもうからです。

 

 そこでパウロは、この大切な福音の本質をさらに明らかに弁明するために、今朝の34節以下でこのように語っています。「もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている」。これは何を語っているかと申しますと「十字架と復活の主イエス・キリストのみが唯一永遠の真の救い主にいましたもう」という事実を自分の信仰経歴にあてはめて生きた証をしているわけです。かつての自分には、パリサイ人サウロであった頃の自分には、あの「福音的律法主義者」たちや「グノーシス主義者」たち以上に大きな「肉の頼み」があったと言っているのです。そして続く5節と6節にはその「肉の頼み」をパウロは具体的に箇条書きにしています。

 

「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」。特に私たちが注目したいのは最後の「律法の義については落ち度のない者」という言葉です。これは元々のギリシヤ語では一つの単語なのですけれども、これは当時の「福音的律法主義者」たちが完全な「救いの徴」として主張していた最高の称号(タイトル)なのです。

 

 事実として、かつてパリサイ人であった頃のパウロ、律法主義者サウロは、何千項目もある複雑煩瑣な律法の条文を一つ残らずクリアしていた、完璧に守り切っていた、そのような卓越したパリサイ人として「律法の義については落ち度のない者」という名誉あるタイトルを獲得していたのです。これは嘘でも誇張でもない、事実としてパウロが語っていることです。もし「福音的律法主義者」たちや「グノーシス主義者」たちが言うように「人間の努力精進」が救いの根拠だとするならば、私(パウロ)は必要条件を十二分に満たしているだろうと言うのです。そのようにして、喜びの結論として続く7節以下が語られているのです。

 

 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。

 

 パウロは愛するピリピの教会の全ての人々に、そして「あの犬ども」と語っている「偽教師」たちにも、同じように呼びかけています。「私に倣う者になりなさい」と!。かつて自分にとって「益であった」「肉の頼み」のいっさいを、私は今や「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに」「損と思い」また「ふん土のように思っている」と言うのです。「ふん土」というのは文字どおり排泄物のことです。新共同訳では「塵芥」と訳されています。それはなぜかと言いますと、人間の努力精進は、それが律法であれ知恵であれ、少しも私たちを救う力は無いからです。むしろそれらは虚しい「誇」となって、悪魔の用いる道具となって、私たちを神から引離し、滅びに引込もうとするのです。だから、そのようなものは「損」であり「塵芥」にすぎないとパウロは言うのです。

 

 それは「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに」である。譬えて言うなら、輝く朝日が昇った時には、月はもはや光を放ちえないのと似ています。いまや全世界を御言葉と聖霊によって照らし、信ずる全ての人を救いに至らせて下さる主イエス・キリストの恵みが輝き現れたのです。それならば旧き「律法」と「知恵=グノーシス」はもはや力を持ちえないのです。そこに逆行することほど愚かなことはないのです。

 

 そこで最後にパウロは、今朝の38節の後半から、このように宣べ伝えています。「それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。元々のギリシヤ語の文章を見るなら、この部分はとても回りくどい文章です。洗練されていない、野暮ったい文章です。しかしパウロは敢えてそのような野暮ったい文章で、いちばん大切なことを愛するピリピの教会の全ての人に訴えているのです。「それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。

 

 言い変えるなら、パウロはここで主語を明確にしているのです。夏目漱石流に言うなら、主客合一を敢えて否定しているのです。「我は罪人なり主は神なり」と言い切っているのです。だから野暮ったい文章に感じられるのです。救い主はイエス・キリストであられる。イエス・キリスト以外に私たちの救い主はおられない。だから「律法による自分の義」などはどうでも良い。大切な唯一のことは「キリストを信じる信仰による義」だ。「信仰に基く神からの義」だ。そして「キリストのうちに自分を見いだすようになる」ことだ。

 

キリストに贖われている自分、キリストの御手に捕らえられている自分、キリストの恵みの中にキリストと共にある自分、そのような自分を「見いだすこと」こそ私たちの真の幸いと自由と喜びである。そのようにパウロは一意専心、野暮ったい文章で熱く語りつつ、愛するピリピの教会の全ての人たちに対して、改めて「救いはただ主イエス・キリストにのみある」ことを宣べ伝えている。そして救い主なるキリストの御名を讃美しているのです。祈りましょう。