説    教      イザヤ書4545節   フィリピ書22530

              「協力者エパフロディト」  藤枝教会にて

               2019・06・23(説教19251808)

 

 ひとつの場所に教会が建てられて数十年、あるいは百数十年もの歳月を経て、その教会が「キリストの真の御身体なる教会」に成長したと判定する確かな基準を、私たちはいったいどこに持ちうるのでしょうか?。これは意外に難しい問題です。ただ単に礼拝出席者の数とか、受洗者の数といった、数字にあらわれた「教勢」の面だけでは判定できないことだからです。数字に表れた事だけが教会の成長ではないからです。しかし、ここに敢えて「キリストの真の御身体なる教会」の判定基準を設けるとするならば、それはその教会が過去また現在において、どれだけ多くの真実なキリストの僕を生み出してきたか。言い換えるなら、その教会がどれほど多くの「主の真の弟子たち」を生み出してきたか、ということにあるのではないでしょうか。

 

 そのような意味で、フィリピの教会は、まだ誕生して間もない本当に若い教会、英語で言うならヤンガーチャーチ“Younger Church”でありましたけれども、既に「主の真の弟子たち」を生み出すことにおいて、神の救いの御業の歴史に力強い一歩を踏み出していた教会であったことが、特に今朝の225節以下からわかるのです。当時のフィリピ教会はギリシヤ文明の渦中にあって、いわばヘレニズムの大海に浮かぶ離れ小島のような、数の上では本当に小さな教会でした。しかしそこで養われ、育てられ、各地の伝道の場に遣わされた主の働き人たちは、目覚ましい働きをなしつつありました。まさにフィリピの教会こそは「真の主の弟子たち」を輩出することにおいて「キリストの真の御身体なる教会」であることを世に証した群れでした。

 

 まさにその、フィリピ教会の信仰の交わりの中で育てられ、使徒パウロを助けて伝道の戦いに遣わされた人に「エパフロディト」という青年がいました。エパフロディトとはギリシヤ語で「魅力あふれる人」という意味です。この名前から、彼はいわゆるクリスチャンホームの出身でなかったことが伺えるのですけれども、しかしエパフロディトは事実「主にありて魅力あふれる人」でした。わけても彼の最大の魅力は、主の御業に仕えるために自分の生命をさえ惜しまなかった、伝道者としての志と生きかたにありました。エパフロディトは「最高最善のものを惜しまず主にお献げする」志をもって、真の伝道者の生涯を生き抜いた人でした。

 

 さて、このエパフロディトという人について、新約聖書は今朝のフィリピ書225節と418節の僅か2箇所に名を記しているだけです。特に今朝の225節以下を見るとこのようにあります。「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、 しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです」。ここからわかることは次の3つのことです。@使徒パウロはローマの獄中から取り急ぎ、エパフロディトにこの手紙を(つまりフィリピの信徒への手紙を)持たせて、フィリピの教会に遣わそうとしている。Aこのエパフロディトは自分の出身教会であるフィリピの教会の人たちに「しきりに会いたがっている」。Bしかしエパフロディトは「自分の病気」のことがフィリピの教会の人たちに心配をかけたことを「心苦しく思っている」。

 

 特に、このBの理由について、パウロは続く27節にこう記しています。「実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」。もともとエパフロディトはローマの獄中に囚われの身になっている使徒パウロの伝道のわざを助けるために、フィリピの教会から祈りをもって遣わされた青年でした。しかし長旅の疲れも原因してか、エパフロディトはローマで重い病気に罹ってしまいました。パウロの手助けをするために遣わされたのに、逆にパウロに看病される身になってしまった。これは若く純真なエパフロディトにとって耐え難いことでした。「せっかくフィリピの教会の人たちの祈りによってローマに遣わされたのに、自分はパウロ先生の伝道を助けるどころか、逆にパウロ先生の重荷になってしまった」そうした思いが若く純真なエパフロディトの心を苦しめたのです。そしてエパフロディトは「もう自分は恥ずかしくてフィリピの教会の人たちに顔向けができない」と思い悩んでしまったのでした。

 

 もともと、フィリピの教会からエパフロディトがパウロのもとに遣わされたのは、それこそもうひとつの418節に記されていることですが「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」とあるように、エパフロディトによって獄中のパウロのもとに援助物資や献金を届けて、パウロの伝道のわざの物質的な必要を支えるためでした。しかしパウロはもちろん、その支援や献金には心からの感謝を献げつつ、しかし最高最大の支援は、それはエパフロディト自身がはるばるローマに来てくれたことにあると語っているわけです。そして25節と28節の2度にわたって「彼を送り返す」と語っています。そこで、ここで語られている「送り返す」という言葉は元々のギリシヤ語で「尊い贈物に対して返礼をする」という意味の言葉なのです。

 

つまりパウロはこう言っているのです。「愛するフィリピの教会の人たちよ。あなたがたが獄中にある私を支えてくれるために送って下さった最も尊い最大の贈物、それはエパフロディト自身である。しかし彼は自分が重い病気になってしまったことを気に病んでいる。このエパフロディトを、私はあなたがたへの最高の返礼として『送り返す』。だからどうかエパフロディトを主にあって喜び迎えてほしい。彼こそは私からの最高の返礼なのだから」と語っているのです。今朝の28節から30節までを改めて心に留めましょう。「そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」。

 

 このような青年エパフロデトであるからこそ、使徒パウロは今朝の25節において「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者」であると呼んでいるのです。キリストの僕たる私たちにとって、これは最高最大の名誉ある称号ではないでしょうか。以下、この順番に心を留めましょう。

 

まず第一に私たちは、主の変わらぬ恵みによって「主にある兄弟姉妹」たちとされています。キリスト者どうしのこの呼びかたを知らないかたから「教会に来ている人たちって、みんな兄弟姉妹たちなんですか?」と訊かれたことがありました。私は改めて「ああ、そのように聞こえるのか」と改めて感動したことでした。私たちはまさに「主にありて」(主に堅く結ばれて)「兄弟姉妹」とされた群れです。言い換えるなら、神を父とし、教会を母とする「神の家族」それが私たちの教会なのです。

 

 第二に「協力者」とは、どういう意味でしょうか?。これは元々のギリシヤ語では「スズコス」という言葉ですが、その本来の意味は「ともにひとつの軛に繋がれた者」です。「くびき」とは鋤(プラウ)で畑を耕すとき、牛や馬に取り付ける木製の器具のことです。これで繋がれるということは、まさしくどのような重荷や苦労も共に担う「協力者」“coworker”になることを意味します。自分の意志ではこの「くびき」は外せないのと同じように、私たちが「真の主の弟子たち」とされるのは、ただ主なる神の恵みの選びによるのです。

 

 最後に「戦友」という言葉ですが、これは文字どおり「共に戦う友」という意味の言葉です。これについてカール・バルトが軍艦の譬えを語っています。軍艦の中にはたくさんの乗組員がいて、みなそれぞれ人間としては違った経歴を持ち、異なる考えを持ち、異なる価値観を持っていて、そこに対立や争いも生じます。しかしひとたび戦闘警報が鳴り響けば、皆が一致団結して全力で敵に立ち向かいます。教会もそれと同じだとバルトは言うのです。教会が立ち向かうのは人間を真の神から引き離して滅ぼそうとする罪の支配です。その罪の支配に対して、私たちは一致団結して全力で立ち向かう、そのような「戦友」たちの群れをここに建ててゆかねばなりません。

 

 私は葉山教会に遣わされて今年で25年目になります。いわゆる「四半世紀」が経ったことを思い、支え導いて下さった神への感謝は尽きません。そこで、私がはじめて葉山教会に参りましたとき、25年前の春ですが、とても驚いたことがありました。それは教会の此処彼処に「教会の奉仕は元気な人でなければ務まりません」という暗黙の雰囲気があったことです。私は「それは違う」と思いました。病気になった人はどうなのでしょうか?。寝たきりになってしまった教会員はどうなのでしょうか?。元気のない人、元気の出ない人はどうなのでしょうか?。そうした人たちは「教会の奉仕」が「務まらない」人たちなのでしょうか?。そうではないのです。見事な答えが今朝のピリピ書225節以下に記されているのです。特に今朝の230節「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」。この30節について、英国のC.H.ドッドという神学者がこのように語っています。「これは、神がついに全ての人間を、そのあるがままの姿で、今そうなっている境遇のままで受け入れ、御業のために用いて下さる恵みの、生きた証にほかならない」。

 

 たとえ元気がなくても、病気になっても、寝たきりになっても、私たちはエパフロディトと同じように「真の主の弟子」になることができる。主の御身体なる教会のために奉仕する僕になることができるのです。それは何ですか?。それこそ祈りの生活です。礼拝者の生活です。礼拝を大切にし、祈りを熱くして主に仕える生活です。主の御業のため、教会のため、そして牧師のため、主にある兄弟姉妹のため、祝福と導きと支えを祈る祈りの生活こそ、私たち全ての者の「御言三昧・只管礼拝」の生活の幸いなのではないでしょうか。まさにその「礼拝と祈りの生活」においてこそ、私たちは今朝のエパフロディトと共に、同じ神の豊かな祝福と幸いに与かる「真の主の弟子たち」とされています。それこそ「これは、神がついに全ての人間を、そのあるがままの姿で、今そうなっている境遇のままで受け入れ、御業のために用いて下さる恵みの、生きた証にほかならない」のです。このことを思い、この恵みを心に留めつつ、私たちもまたパウロと共に、エパフロディトと共に、いよいよ祈りを熱くして、主の御業に忠実にお仕えし、御栄をあらわす僕たちであり続けたいと思います。祈りましょう。