説    教      サムエル記上21節   ピリピ書31

              「主にありて喜べ」 ピリピ書講解(22

              2019・06・16(説教19241807)

 

 「最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここに繰り返すが、それは、わたしには煩わしいことではなく、あなたがたには安全なことになる」。これが今朝、私たちに与えられた福音の御言葉です。ここに「最後に、わたしの兄弟たちよ」とございまして、そしてすぐに句読点が打たれています。つまり「わたしの兄弟たちよ」でひとつの文章、ひとつの呼びかけの言葉が、締めくくられているわけです。まず私たちはこのことに注目をせねばなりません。

 

 私たち人間にとって、なにが不自然かと言いましても「喜びなさい」というように、「喜び」が命令形で語られることほど、不自然かつ違和感を抱くことはないのではないでしょうか。私たち人間にとって「喜び」とは自発的な感情であって、それを他から強制されることに不審や戸惑いの念を抱くのは当然のことだからです。それで、ごく普通に考えますならば、使徒パウロは「わたしの兄弟たちよ」という挨拶の言葉で、その不自然さを打ち消そうとしている。社交辞令を加えて不自然さを和らげようとしている。私たちはそのように今朝の31節を読むことが多いのです。

 

 そのような私たちの姑息な読みかたを根本的に打ち崩すものが、先ほど申しました「わたしの兄弟たちよ」のすぐ後に続く句読点です。「わたしの兄弟たちよ」との呼びかけ、これは使徒パウロがローマの獄中において、愛するピリピの教会の全ての人々を覚えて書き送っている挨拶の言葉なのですけれども、この挨拶の言葉はここで完結しているのです。つまり、お世辞や社交辞令で語られた言葉などではないのです。有っても無くてもどうでも良い言葉などではないのです。そうではなく、まさに「わたしの兄弟たちよ」というこの挨拶の中に、続く御言葉の喜びと幸いに呼応する福音の中心が現れているのです。だから句読点が打たれているのです。ここで完結しているのです。

 

 そのようにして続く喜びと幸いの言葉とは何でしょうか?。それこそ「主にあって喜びなさい」という命令形です。驚くべきことです。パウロはここに命令形で「喜び」を宣べ伝えているのです。前代未聞のことです。たとえば、何か大きな喜びに沸き立つ人々の群れがあって、そこに「喜びなさい」と命令形が語られるならば、それほど違和感のあることではありません。おめでたい席で「おめでとう。喜ぼうではないか」と言うのなら、それは不自然なことではないでしょう。

 

しかしピリピの教会の人々は、現実には様々な苦しみや、悩みや、悲しみの中にいたのです。何よりも、教会を取り巻く迫害の影がありました。キリスト者であることが、様々な苦しみを受ける原因になっていたのです。そして内側には、似て非なる福音を宣べ伝えて人々を惑わせるグノーシス主義者や律法主義者たちの暗躍がありました。まさに「内憂外患」という言葉こそ、この当時のピリピの教会に相応しい言葉でした。そのような、いわば「喜び」からは遠い状況に置かれていたピリピの人々に、使徒パウロは敢えて「主にあって喜びなさい」と告げているのです。この手紙をエパフロデトから受け取ったピリピの教会の人々の反応はどうだったでしょうか。いくらパウロ先生でも「喜びの命令形」はおかしい、そのような反応だったのでしょうか?。

 

 私は、そうではなかったと思います。この手紙をエパフロデトを通して受け取ったピリピの教会の人々は、そこで感謝感激の涙を流したことでしょう。この手紙は説教として礼拝の中で読まれました。その礼拝に出席していたピリピの人々は、まさにその説教を「神の言葉」として聴いたのです。そして「主にあって喜びなさい」とのメッセージに奮い立ったのではないでしょうか。なによりも大切なことは、そこに「主にあって」と記されていることです。これも社交辞令などではありません。まさに福音の中核がここに宣べ伝えられているのです。

 

 パウロは、ローマの獄中にあって、愛するピリピの全ての人々に、様々な苦しみや、困難や、悲しみの中に置かれていた人々に、はっきりと宣べ伝えます。「主にあって喜びなさい」と!。この「主にあって」とは元々のギリシヤ語では「エンキュリオー」という言葉です。これを直訳するなら「主イエス・キリストの贖いの恵みの中に生かされて」という意味になります。「主イエス・キリストの贖いの恵みの中に生かされて」こそ、私たちは「喜ぼう」ではないか。まさにその十字架の主の満ち溢れる恵みの中に生かされてこそ、ただその満ち溢れる恵みの中に生かされてのみ、命令形で語られる「喜び」が私たちの人生のただ中で生命の言葉となるのです。

 

 そもそも今朝の御言葉の最初に、パウロは「最後に、わたしの兄弟たちよ」と呼びかけていました。この「最後に」という言葉は、このピリピ書の最後に、という意味である以上に、殉教の死を目前にしたパウロの心境を示しているのではないでしょうか。古の人は「人のまさに死なんとするやその言や善し」と申しました。パウロは伝道者としての人生をローマの獄中で終える覚悟を持ちまして、ここに最も大切な善き言葉を遺しているわけです。いわばこれこそ使徒パウロの遺言といえるものです。そこで、大切なことはこの命令形の主体はどなたであるかということです。それは十字架と復活の主イエス・キリストご自身であることが、この31節には明確に示されているのです。それこそが最初に申しました「わたしの兄弟たちよ」との呼びかけです。

 

この呼びかけには、実は使徒パウロ自身も含まれています。パウロはこう語っているのです。私たちはみな「主にある兄弟姉妹たち」である。その私たち、主にある兄弟姉妹とされた全ての者たちに、十字架と復活の主イエス・キリストは告げておいでになる。「喜びなさい」と!。なぜなら、このかたのみが、主イエス・キリストのみが、私たちの罪を贖い、救いと生命を与えて下さるために、ご自身の全てを献げぬいて下さった救い主(キリスト)であられるからだ。それならば「喜びなさい」と私たちにお命じになっておられる主イエスご自身が、私たちの変わらぬ「喜び」の保証となって下さるかたである。私たちはあてどなき不確かな喜びの旅路に無責任に追いやられているのではない。そうではなく、ご自身の全てを献げて私たちの贖いとなって下さった主イエス・キリストご自身が、唯一永遠の変わらぬ「喜び」の保証となって下さったのだ。だからこそ、いま私たちは「喜ぼう」ではないか。変わらぬ「喜び」の内に「主イエス・キリストの贖いの恵みの中に生かされて」ゆく私たちであり続けようではないか。そのようにパウロは宣べ伝えているのです。

 

 この31節にはちょっと不思議な続きがあります。それは「さきに書いたのと同じことをここに繰り返すが、それは、わたしには煩わしいことではなく、あなたがたには安全なことになる」という言葉です。ここにパウロは、この「主にあって喜びなさい」という言葉が、既に同じピリピ書の125節、218節などに「繰り返された」言葉であることを示しています。そしてそのように「主にあって喜びなさい」を「繰り返す」ことは、自分にとって少しも「煩わしいことではなく」そして同時に「あなたがたには安全なことになる」と告げています。特にこの「あなたがたには安全なことになる」の「安全」という言葉は文語訳聖書では「安然」と訳されています。これは「泰然自若」という意味の言葉で、単なるセーフティという意味ではありません。動じず、慌てず、落着いている、という意味です。

 

つまり「主イエス・キリストの贖いの恵みの中に生かされて」「主にあって喜ぶ」私たち全ての者の祝福と幸いは、あらゆる苦しみ、困難、悲しみの出来事のただ中にあって、なお「動じず、慌てず、落着いている」キリスト者の生活をあらわす恵みであるとパウロは言うのです。それは、私たち自身が強いからではありません。その逆です。私たちは本当に弱く、脆く、頼りない存在に過ぎませんけれども、その私たちに与えられている「主イエス・キリストの贖いの恵みの中に生かされて」ゆく幸いは神の恵みです。神からの賜物です。だからこそ、それは私たちから失われることはない。奪われることはない。揺るぐことはないのです。だからこそ「主にあって喜ぶ」私たち全ての者たちに「安然」(慌てず、動じず、落着いている)幸いの生活が与えられている。それは時代が変わり、世の中が変化し、人々が変わりましょうとも、決して変わることなく私たちを根底から支え続けてやまない主の祝福である。

 

 その祝福に、「主にあって喜ぶ」者たちの幸いに、いま新たに生きる僕たちとなろうではないか。そのようにしてこそ、私たちは世に在って主の弟子、神の僕であることを現す喜びに生きうる。そのような者たちとされていることを、使徒パウロは全ての主の僕たちと共に喜び感謝し、ここに改めて語り告げているわけであります。「最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここに繰り返すが、それは、わたしには煩わしいことではなく、あなたがたには安全なことになる」。祈りましょう。