説    教      イザヤ書3215節   使徒行伝24247

              「聖霊降臨の恵み」 ペンテコステ主日礼拝

              2019・06・09(説教19231806)

 

 世界最初の教会はペンテコステ(聖霊降臨)の出来事によって、まずエルサレムに誕生しました。場所は弟子マルコの家の二階座敷でした。そこは主イエスによって最後の晩餐が行われた場所でもありました。イスカリオテのユダの裏切りもそこで起こりました。主の教会は私たちの罪の渦巻く世界のただ中に建てられたのです。聖霊降臨の恵みの出来事は、罪の世界の中にある全ての人を救う恵みとして現れたのです。それがキリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会の建設です。

 

 主イエス・キリストみずから「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が降るとき、それはわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15:26)と弟子たちに約束なさったように、弟子たちは聖霊なる神の導きによって「イエスは主なり」とのキリスト告白へと導かれ、罪の支配から聖霊と御言葉による新たな御支配へと移され、そこにキリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会が誕生したのです。

 

 そして同時に、主は私たちにこのようにも約束して下さいました。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべきことをあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ16:13)。聖霊は自分自身を「主」とはなさらないのです。そうではなく、神について、神の御子イエス・キリストについて「あらゆる真理に」私たちを導いて下さるかたこそが聖霊なのです。だから聖霊は「自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべきことをあなたがたに知らせる」かたなのです。この「その聞くところ」とは「主なる神が語りたもう御言葉」という意味です。

 

 カール・バルトというスイス改革派教会の神学者が「教会教義学」という本の中でこのように語りました。教会が神の御前に犯した最大の間違いは何であったか、それは「僕は聴く、主よ、語りたまえ」(サムエル上3:10)とのサムエルの祈りの姿勢を忘れて、逆に「僕は語る、主よ、聞きたまえ」としてしまったことにある。それが説教にもあらわれていたとバルトは言うのです。どういうことかと言いますと、教会の説教壇の上から中世以来19世紀までの1000年以上にもわたって「人間の言葉でいかに神をさし示すか」が宣べ伝えられてきた。しかしそれは逆だとバルトは言うのです。「神の言葉でいかに人間をさし示すか」が宣べ伝えられなければならない。それが教会の説教なのです。だから大切なことは「神語りたもう」というただひとつの事実のみなのです。

 

 この最も大切なこと「僕は聴く、主よ、語りたまえ」を、いつも私たちに教え示して導いて下さるかたこそ、聖霊なる神にほかなりません。西暦381年のニカイア信条の中で聖霊は「造り主なる聖霊」と告白されています。この「造り主なる聖霊」とは、聖霊なる神はすなわち「私たちの創造主」であられるという意味と同時に「私たちの信仰の造り主」であられるという意味です。もっと言うならば、私たちの信仰生活は聖霊なる神の賜物なのです。だから主イエスは「からし種ひと粒ほどの信仰」であっても、それが私たちを救いへと導く全ての力であると言われました。愚かにも私たちの目には聖霊なる神の御業は「からし種ひと粒」ほどのものにしか見えないかもしれない。しかしその「からし種ひと粒」が成長して大きな木になるのと同じように、実はこの世界と私たちを救いへと導くかた、この世界と私たちに真の祝福と幸いを与えて下さるかたは、それは聖霊である。そのように主イエスは語っておられるのです。

 

 もう30年近く前のことになりますが、ソビエト連邦の崩壊と、それに伴う東ヨーロッパ諸国の分離独立という大きな歴史の変化がありました。東西ドイツを分断していたベルリンの壁が取り去られたのも199111月の出来事です。あの歴史と国際社会の激動の中で、70年間続いた社会主義・共産主義体制から解放された諸国、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、ポーランドと言った東ヨーロッパ諸国、そしてエストニア、ラトビア、リトアニアなどのバルト諸国は、もちろん最初は大きな混乱を経験しましたけれども、10年もたたない内に見事に落着きを取り戻し、民主主義・自由主義国家としての歩みを力強く進めています。

 

 当時、わが国の複数の政治家が「日本は民主主義の先輩国なのだから、東ヨーロッパ諸国の民主主義化を支援してあげなくてはならない」と発言しました。私はそれを聞いて「やれやれ」と思いました。何もわかっていないこうした人たちが日本の政治家であることのほうがよほど問題だと思いました。70年間も社会主義という桎梏を嵌められていたそれらの東ヨーロッパ諸国は、実は元をただせば、数百年間に及ぶ自由主義の伝統を持っていた国々なのです。そしてその伝統の基盤となっていたものこそキリスト教会でした。だから70年間の社会主義体制が一夜にして崩壊しても、これらの国々の人々は人間の生活を根底から支える教会という基盤を失わずに済んだのです。キリスト教に基づく自由主義国家に戻るのに何の抵抗もなかったのです。

 

 顧みて、私たちのこの日本はどうなのでしょうか?。日本にはまだキリスト教会という伝統の基盤が非常に弱いです。ですから仮に今の政治形態が崩壊したとき、戻れるものが何も無いのではないかと危惧するのです。いわば日本の民主主義というものは砂上の楼閣の如きものであって、いつでも功利主義、物質至上主義、封建主義、実利主義へと逆行し、変化してしまう危険を持っているのではないでしょうか。かつて1968年に起こったチェコ動乱のとき「人間の顔を持った社会主義」というスローガンが謳われましたけれども、それとは逆に私たちの日本社会はいつでも「人間の顔を持たない民主主義」となってしまう危険を孕んでいるのではないでしょうか。

 

 まさに、そこでこそ主イエスは私たちに、はっきりと教えて下さいました。「からし種ひと粒ほどの信仰であっても」と!。「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」(マタイ13:31,32)。聖霊なる神の御業は、愚かにも私たち人間の目には、価値観には「一粒のからし種」のような小さなものにしか見えないかもしれない。しかしそこに、私たちの、私たちの国の、そして全世界の「救い」の出来事があるのです。主が約束して下さっているのです。それこそ聖霊なる神の御業です。ペンテコステの出来事です。聖霊降臨の恵みです。

 

 そこでこそ、聖霊降臨の恵みの中でこそ私たちは、カール・バルトも語っているように「神語りたもう」という唯一の救いの出来事を大胆果敢に宣べ伝え続ける群れとして、健やかに立ち続けて参らねばなりません。主なる神はなにを私たちに語っておられるのでしょうか。なにをこの世界に語っておられるのでしょうか?。今朝与えられたイザヤ書3215節の御言葉を改めて心に留めましょう。「しかし、ついには霊が上から、われわれの上にそそがれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる」。ここで預言者イザヤが語っている「上から、われわれの上にそそがれ」る「霊」こそ聖霊にほかなりません。聖霊が私たちに「そそがれる」ごとくに豊かに与えられるそのとき「荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる」とイザヤは言うのです。この「荒野」とは水一滴さえ無い岩石砂漠です。そこが「良き畑」に変えられることなどありえない。そのありえないこと、不可能なこと、常識では考えられない「救いの御業」がこの世界に聖霊によって豊かに与えられる。

 

 その結果として、更にこうありました。「良き畑は林のごとく見られるようになる」と。岩石砂漠が「良き畑」になるばかりではない。その「良き畑」はさらに「林のごとく見られるようになる」つまり「良き畑」はさらに進んで「森」になると告げられているのです。1872年(明治5年)310日に植村正久、井深梶之介、押川正義、小川義桉ら13名の青年がジェームス・バラ宣教師から洗礼を受け、そこに日本最初の教会として「横浜基督公会」が誕生します。私たち葉山教会のルーツになっている教会です。現在の横浜海岸教会ですが、そこの中庭に横浜バンド設立の記念碑がありまして、その碑文として刻まれているのがこのイザヤ書3215節なのです。

 

 まことに聖霊降臨の恵みによって、ここ葉山のピスガ台にも、キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会が建てられました。そして私たちはただ聖霊降臨の恵みによって、この主の御身体なる教会に連なる者たちとならせて戴き、キリスト者として日々生かしめされ世に遣わされていることを覚えますとき、より祈りを深く熱くして、主の御業にお仕えしてゆく志を奮起せしめ、神の御栄のみを現す真の教会を、ここに形成して参りたいと思います。今日の聖霊降臨日主日は、私たちがその、主にある信仰の志を新たにする日として与えられているのです。祈りましょう。