説    教      イザヤ書4545節   ピリピ書22530

              「同労者エパフロデト」 ピリピ書講解(21

              2019・06・02(説教19221805)

 

 ひとつの場所に教会が建てられて数十年、あるいは百数十年もの歳月を経て、その教会が「キリストの真の御身体なる教会」であると判定する基準を、私たちはいったいどこに持ちうるのでしょうか?。これは意外に難しい問題です。ただ単に礼拝出席者の数とか、受洗者の数といったような、数字にあらわれた「教勢」の面だけでは判定できないことだからです。数字に表れる事だけが教会の成長ではないからです。しかし、ここに敢えて「キリストの真の御身体なる教会」のひとつの判定基準を設けるとするならば、それはその教会が過去または現在において、どれだけ多くの真実なるキリストの僕を生み出してきたか。言い換えるなら、その教会がどれほど多くの「主の真の弟子たち」を生み出してきたか、ということにあるのではないでしょうか。

 

 そのような意味で、ピリピの教会は、まだ誕生して間もない本当に若い教会、英語で言うところのヤンガーチャーチ“Younger Church”でありましたけれども、既に「主の真の弟子たち」を生み出すことにおいて、神の救いの御業の歴史に力強い一歩を踏み出していた教会であったことが、特に今朝の御言葉225節以下から窺い知れるのです。当時のピリピ教会はギリシヤ文明の渦中にあって、いわばヘレニズムの大海の中に浮かぶ離れ小島のような、数の上では取るに足らぬ教会であったわけですが、そこで養われ、育てられ、各地の伝道へと遣わされた主の働き人たちは、目覚ましい働きをなしつつありました。つまりピリピの教会は「真の主の弟子たち」を輩出することにおいて「キリストの真の御身体なる教会」であることを世に証した群れでした。

 

 まさにその、ピリピ教会の信仰の交わりの中で育てられ、パウロを助けて伝道の戦いへと遣わされた人に「エパフロデト」という青年がいました。エパフロデトとはギリシヤ語で「魅力あふれる人」という意味です。この名前から、彼はいわゆるクリスチャンホームの出身でないことがわかるのですけれども、しかしエパフロデトは事実この名のとおり「魅力あふれる人」でした。わけても彼の最大の魅力は、主の御業に仕えるために自分の生命をさえ惜しまなかった、その伝道者としての志と生きかたにありました。エパフロデトは「最高最善のものを惜しまず主にお献げする」志をもって、真の伝道者の生涯を生き抜いた人でした。

 

 さて、このエパフロデトという人の名前については、新約聖書全体でも今朝のピリピ書225節と418節の僅か2箇所に記されているだけなのです。特に今朝の225節以下を見ますと、このように記されています。「しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている」。ここからわかることは次の3つのことです。@使徒パウロはローマの獄中から「さしあたり」つまり取り急ぎ、エパフロデトにこの手紙を(つまりピリピ人への手紙を)持たせて、ピリピの教会に遣わそうとしている。Aこのエパフロデトは自分の出身教会であるピリピの教会の人たちに「しきりに会いたがっている」。Bしかしエパフロデトは「自分の病気のこと」でピリピの教会の人たちに心配をかけたことを「心苦しく思っている」。

 

 特に、このBの理由について、パウロは続く27節にこのように記しています。「彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである」。エパフロデトはローマの獄中に囚われの身になっている使徒パウロの伝道のわざを助けるために、ピリピの教会から祈りをもって遣わされたのです。しかし長旅の影響もあってか、エパフロデトはローマで重い病気に罹ってしまいました。パウロの手助けをするために遣わされたのに、逆にパウロに看病される身になってしまった。これは若く純真なエパフロデトにとって耐え難いことでした。「せっかくピリピの教会の人たちの祈りによってローマに遣わされたのに、自分はパウロ先生の伝道を助けるどころか、逆にパウロ先生の重荷になってしまった」そうした思いが若いエパフロデトの心を苦しめたのです。そして純真なエパフロデトは「もう自分は恥ずかしくてピリピの教会の人たちに顔向けができない」と思い悩んでしまったのでした。

 

 もともと、ピリピの教会からエパフロデトがパウロのもとに遣わされたのは、それこそもうひとつの418節に記されていることですが「エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である」とあるように、エパフロデトによって獄中にあるパウロのもとに援助物資や献金を届けて、パウロの伝道のわざの物質的な必要を支えるためでありました。しかしパウロは、もちろんその支援や献金には心からの感謝を献げつつ、しかし最高最大の支援は、それはエパフロデト自身がはるばるローマに来てくれたことにあると語っているわけです。そして25節と28節の2度にわたって「彼を送り返す」と語っています。そこで、ここで語られている「送り返す」とは元々のギリシヤ語では「尊い贈物に対して返礼をする」という意味の言葉です。

 

つまりパウロはこう言っているのです。「愛するピリピの教会の人たちよ。あなたがたが獄中にある私を支えてくれるために送って下さった最も尊い最大の贈物、それはエパフロデト自身である。しかし彼は自分が重い病気になってしまったことを気に病んでいる。このエパフロデトを、私はあなたがたへの最高の返礼として『送り返す』。だからどうかエパフロデトを主にあって喜び迎えてほしい。彼こそは私からの最高の返礼なのだから」と語っているのです。今朝の28節から30節までを改めて心に留めましょう。「そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである」。

 

 このような青年エパフロデトのことを、使徒パウロは今朝の25節において「わたしの同労者で戦友である兄弟」と呼んでいます。キリストの僕たる私たちにとって、これは最高の名誉ある称号ではないでしょうか。ギリシヤ語の原文では「わたしの兄弟、同労者、そして戦友であるエパフロデト」となっています。以下この順番に学びましょう。

 

まず第一に私たちは、変わらぬ恵みによって「主にある兄弟姉妹」たちとされています。キリスト者どうしのこの呼びかたを知らないかたから「教会に来ている人たちって、みんな兄弟姉妹たちなんですか?」と訊かれたことがありました。私は改めて「ああ、そのように聞こえるのか」と感動したことでした。私たちはまさに「主にありて」(主に堅く結ばれて)「兄弟姉妹」とされた群れです。言い換えるなら、神を父とし、教会を母とする「神の家族」それが私たちの教会なのです。

 

 第二に「同労者」とは、どういう意味でしょうか?。これは元々のギリシヤ語では「スズコス」という言葉ですが、その本来の意味は「ともにひとつの軛に繋がれた者」です。「くびき」とは鋤(プラウ)で畑を耕すとき、牛や馬に取り付ける木製の器具のことです。これで繋がれるということは、まさしくどのような重荷や苦労も共に担う「同労者」“coworker”になることを意味します。自分の意志ではこの「くびき」は外せないのと同じように、私たちが「真の主の弟子たち」とされるのは、ただ主なる神の恵みの選びによるのです。

 

 最後に「戦友」という言葉ですが、これは文字通り「共に戦う友」という意味の言葉です。これについてカール・バルトが軍艦の譬えを語っています。軍艦の中にはたくさんの乗組員がいて、みなそれぞれ人間としては違った経歴を持ち、異なる考えを持ち、異なる価値観を持っています。そこに対立や争いも生じます。しかしひとたび戦闘警報が鳴り響けば、皆が一致団結して全力で敵に立ち向かいます。教会もそれと同じだとバルトは言うのです。教会が立ち向かうのは人間を真の神から引き離して滅ぼそうとする罪の支配です。その罪の支配に対して、私たちは一致団結して全力で立ち向かう、そのような「戦友」たちの群れをここに建ててゆかねばなりません。

 

 私はこの葉山教会に遣わされて今年で25年目になります。来週はペンテコステ礼拝ですが、皆さんと共に25回目のペンテコステを迎えるわけです。いわゆる「四半世紀」が経ったことを思い、支え導いて下さった神への感謝は尽きません。そこで、私がはじめて葉山教会に参りましたとき、25年前の春ですが、かなり驚いたことがありました。それは教会の此処彼処に「教会の奉仕は、元気な人でなければ務まりませんよ」という雰囲気があったことです。私は「それは違う」と思いました。病気になった人はどうなのでしょうか?。寝たきりになってしまった教会員はどうなのでしょうか?。元気のない人、元気の出ない人はどうなのでしょうか?。そのような人たちは「教会の奉仕」が「務まらない」人たちなのでしょうか?。そうではないのです。見事な答えが今朝のピリピ書225節以下には記されているのです。特に今朝の230節「彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである」について、ある神学者がこのように語っています。「これは、神がついに全ての人間を、そのあるがままの姿で、今そうなっている境遇のままで、受け入れて下さる恩寵の、生ける証にほかならない」。

 

 たとえ元気がなくても、病気になっても、寝たきりになっても、私たちはエパフロデトと同じように「真の主の弟子」となることができるのです。主の御身体なる教会のために奉仕する僕になることができるのです。それは何ですか?。それこそ祈りの生活です。「御言三昧・只管礼拝」の生活です。祈りを熱くして主に仕える生活です。主の御業のため、教会のため、そして牧師のため、主にある兄弟姉妹のため、祝福と支えを祈る祈りの生活こそ、私たち全ての者の「御言三昧・只管礼拝」の生活の幸いなのではないでしょうか。まさにその「祈りの生活」においてこそ、私たちは今朝のエパフロデトと共に、同じ神の豊かな祝福と幸いに与かる「真の主の弟子」とされています。それこそ「これは、神がついに全ての人間を、そのあるがままの姿で、今そうなっている境遇のままで、受け入れて下さる恩寵の、生ける証にほかならない」のです。このことを思い、この恵みを心に留めつつ、私たちもまた、パウロと共に、エパフロデトと共に、主の御業に仕える僕たちであり続けたいと思います。祈りましょう。