説     教     ヨブ記1925節    ピリピ書216

              「無益ならざる人生」 ピリピ書講解(18

              2019・05・12(説教19191802)

 

 私たちが生きる限り、そして恐らくは、自らの「死」という事実に直面してなおさら、切実かつ真剣に問わねば済まない大切な問いがあります。それは「自分のこの人生に、はたして意味があったのであろうか」という問いです。自分がこれまで生きてきたこの人生に、はたして意味があったのであろうか。もしかしたら、自分は無益な人生を歩んでしまったのではないだろうか。実はこの問いこそ、私たちの存在にまつわる最も根源的な問いであると言わねばなりません。

 

 先日、ある新聞の紙面で一人の心理学者が語っていました。死に直面した人の心を最も苦しめるものは、やはりこの問いであると言うのです。この問いに答えが与えられないとき、私たちは例外なく「死んでも死にきれない」という後悔の念に苛まれざるをえないのです。だからこそ「生きがい」は同時に「死にがい」であると、この心理学者は語るのです。つまり「死にがい」のある人生であったか否かが、私たちの人生の意味を決定する大切な基準となるのです。

 

 そこで、私たちは自分の力で、なんとかしてこの問いに答えを見出そうと孤軍奮闘するわけです。そして心の不安を打ち消す答えを、目に見えるもので満たそうとします。たとえばある人にとっては、多くの財産、富を築いたということが「死にがい」のある人生の基準になるかもしれません。また他の人にとっては、立派な仕事や業績を遺せたということがその基準かもしれません。またある人にとっては、幸福な家庭を築くことができた、子供たちも立派に成長し、多くの孫たちに囲まれて余生を送ることができる、ということが「死にがい」のある人生の基準となるのかもしれません。

 

 しかし、そこでこそ、私たちはこの問いの本質に立ち戻らされるのです。それでは、そのような「目に見える」ものが何ひとつ作れなかった人の人生は「死にがい」のない「無益な人生」なのでしょうか?。富も財産もなく、立派な業績も残せず、家庭にも恵まれなかった、そのような人の人生は「無益な人生」なのでしょうか?。そしてさらに根本的な問題は、たとえそのような目に見えるものを全て手に入れた人の人生と言えども、死を前にしては何の力にも解決にもならないという事実です。更に言うなら、目に見える財産や功績や人間関係は、主なる神の前に「あなたの救いの根拠」とはなりえないという事実です。

 

エジプトのクフ王のピラミッドの中に財宝の間があります。そこに納められていたであろう財宝は、今日の金額に換算するなら何と100兆円以上であったと推定されます。しかしその莫大な富といえどもクフ王一人を救うこともできませんでした。現代で申しますなら、数百億円の巨万の富を築いた日産のゴーン元会長は、その巨万の富によって救いを受けず、むしろ恥と処罰を受ける結果になりました。「死にがい」であったはずの富によって「無益な人生」が生み出されてしまったのです。

 

 まさに、そのような私たち人間の現実に対して、今朝のピリピ書216節の御言葉は恵みの福音を告げているのです。「このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」。ここで使徒パウロははっきりと「このようにして」と語っていますが、それは前の15節の御言葉を受けています。「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」とあることです。ピリピの教会が、ただ神の栄光のみを現す真の教会として立てられ、成長してゆくこと、そしてそこに連なる全ての人たちが「責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子」となって「いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」存在になることです。

 

 そういたしますと、ここにはただ3つの事柄のみが語られていることがわかります。@主イエス・キリストの救いの御業、Aキリストの御身体なる教会に連なる全ての人への祝福、Bキリスト者としての証しの生活、です。少しもパウロ自身の所有物は無いのです。パウロ自身はと言えば、パウロにはもちろん財産も富も全く無く、健康状態は最悪で幾つもの病気に苦しめられ、頼りになるべき家族も係累もなく、要するに人間的な意味で「誇り」となるべきものは何ひとつありませんでした。パウロの人生には「死にがい」となるべきものが何ひとつなかったのです。人の目に「無益な人生」と映ったのです。それどころか、パウロの生活には常に殉教の死の影が纏わりつきました。このピリピ人への手紙もローマの獄中において書かれました。文字通りの「死の陰の谷」においてこの手紙は書かれたのです。

 

 まさにこの「死の陰の谷」においてこそ、パウロは喜びをもってこのように語ります。「このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」と!。「キリストの日に」とは「キリストが再び来られるその日」という意味ですが、同時に「主なるキリストの御前に」と言い変えることができます。私たち一人びとりにこそ、このことが問われているのではないでしょうか。「キリストの日に」「主なるキリストの御前に」私たち一人びとりの生活が、目に見えるものではなく、@主イエス・キリストの救いの御業、Aキリストの御身体なる教会に連なる全ての人への祝福、Bキリスト者としての証しの生活、この3つにおいてこそ豊かに支えられ満たされた人生であることが、いま新しく私たちに問われているのではないでしょうか。

 

 そのとき、大切なことは、そこには私たち自身の功績、私たちが自分を誇る心、私たちが「これをもって足れりと満足する心」そうしたものは何ひとつ問われていないということです。言い変えるなら、主は私たちにこう語っていて下さるのです。「あなたの生きがいと死にがいは、あなた自身の中にあるのではない。そうではなく、それはあなたの主である私の中にあるのだ。いつも私に繋がっていなさい。私から片時も離れないあなたであり続けなさい。そのようなあなたであるならば、私の愛の中にあるならば、あなたの人生は『無益ならざる人生』なのだ」。そのように主ははっきりと、私たち一人びとりに語り告げていて下さるのです。

 

 繰返して申します。私たち自身の所有物や功績や「誇り」は、何ひとつ問われていません。問われているのはただ一つ、信仰による生活です。主イエス・キリストに繋がることです。主の愛の中を歩む私たちであり続けることです。なぜなら、私たちの「死にがい」は私たちの中にではなく、ただ十字架と復活の主イエス・キリストの中にのみあるからです。このかたのみが、十字架の主イエス・キリストのみが、私たちの全存在、私たちの全ての罪と死、私たちの全ての悩みと重荷を負うて、十字架に死んで下さった救い主であられるからです。このかたのみが、私たちを主なる神の御前に健やかに立つ僕として下さるからです。このかたのみが、私たちの滅びをさえ担い取って、贖いの死を遂げて下さったからです。

 

 ただこの十字架の主イエス・キリストの恵みによってのみ、ただ十字架の主キリストのみを唯一の根拠として、パウロは今朝の16節において「このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」と、感謝と喜びをもって語っているのです。この「むだではなかった」とは「無益ならざる人生」という意味であり、また「誇ることができる」とは元々のギリシヤ語で「限りない喜びとなす」という意味です。

 

 自分ではなく、ただ救い主なるキリストを「限りない喜びとなす」者の幸いと自由と祝福、その新しい人生「無益ならざる人生」の恵みを、私たち全ての者がいま与えられているのです。しかもそれは「キリストの日に」とあるように、キリストの来臨による、終末論的な救いの完成の希望に結びついているのです。それはヨブが苦難のただ中で「われは知る、われを贖う者は生きておられる」と讃美告白した、その希望です。

 

十字架の主が罪人のかしらなるこの私をさえ贖い、救い、生命と祝福を与えて下さった。この私をさえ御国の民となして下さった。その十字架の主の救いの恵みのみを「限りない喜び」となして「誇り」となして、使徒パウロは、その同じ救いの喜び、感謝、讃美、誇り、そして「無益ならざる人生」に、ピリピの教会に連なる全ての人が共にあずかる幸いを与えられているではないか。その同じ救いの喜びと幸いに、主は全ての人を等しく招いておられるではないか。このことを感謝と喜びをもって宣言し、御名を讃美しているのが、今朝の216節の御言葉なのであります。祈りましょう。