説     教     詩篇119105節    ピリピ書21415

              「呟きと疑いから讃美と感謝へ」 ピリピ書講解(17

              2019・05・05(説教19181801)

 

 今朝、私たちに与えられたピリピ書21415節を、もういちど拝読いたしましょう。「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」。

 

 申すまでもなく、この御言葉は、先週の1213節の続きとして語られています。私たちは今こそ、いっそう主に対して従順な僕であろうではないか。御名を崇めつつ、自分の救いの達成に努めようではないか。それは「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。このように告げられている事柄を受けて、はじめて今朝の14節の御言葉が私たちに宣べ伝えられているのです。「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」。これが、私たち全ての者に対する今朝の御言葉の中心です。

 

 では、この「つぶやき」というのは、具体的にどのような心の状態、否、信仰の状態のことを言っているのでしょうか。「つぶやき」これはあまり響きの良い言葉ではありません。もっとも最近は、私はやりませんけれども、ツィッターというものがありまして、このツィッターというのは「つぶやき」という意味の英語です。そういう意味では、現代では「つぶやき」はあながち、否定的な意味だけではなくなっているのかもしれません。しかし、却ってそこに大きな危険があるように思うのです。

 

 もともとの日本語では「つぶやき」または「つぶやく」という言葉は、決して良い意味では使われませんでした。たとえば「あの人は呟きの多い人だ」と言いますと、それは「あの人は不平不満の多い人だ」という意味になりました。これを信仰の世界にあてはめて申しますと、こういうことになるでしょう。いつも自分の思い、自分の願い、自分の欲求、つまり自分ばかりが中心で、キリストの御心が脇に追い遣られている状態、キリスト中心ではなく、自己中心の状態、自己中心の信仰生活、それが「呟きの多い」状態なのではないでしょうか。

 

 そもそも「つぶやき」ということ自体が、信仰生活にはそぐわないことです。「つぶやく」とは、はっきりものを言わず、小声で、口元で、ぐちぐちごにょごにょと、口先で呟くことです。はっきり言わない、むしろ言えないのだけれども、不平不満がおのずから陰口となって、ぶつぶつと周囲に洩れ始める状態のことです。むしろ、呟く人はまさにその「ぶつぶつと周囲に洩れ始める」ことを期待して、それを目的として「つぶやく」わけです。ですから「呟き」それ自体は小さな言葉であっても、そこに潜んでいる心は徹底的に自己中心の心でしかありません。もっと言うなら、神を讃美する口は呟かないのです。讃美の反対語は呟きであり、疑いの反対語は感謝なのです。そのことを使徒パウロは念頭に置きつつ「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」と、愛するピリピの教会の人たちに勧めているのです。ですからこれは「呟きと疑いから讃美と感謝へ」の招きの言葉です。私たちの信仰生活の根本にかかわる大切なことなのです。

 

 マタイによる福音書の201節以下に、ぶどう園の労働者が賃金を受け取る時の様子が、主イエスによって神の国と私たちの信仰の譬えとして描かれています。ぶどう園の収穫の仕事が終わって、朝早くから来て働いた人たちも、夕方になって駆けつけた人たちも、同じ1デナリの賃金を貰いました。するとたちまち、朝早くから来て働いていた人たちが「つぶやき」はじめたのです。不平を漏らしたのです。2011節にはこう記されています。「もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして、言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』」。ここに「不平をもらして」と訳された言葉こそ、今朝の「つぶやき」と同じギリシヤ語の言葉です。

 

 もう一つ、ルカによる福音書の530節も大切です。主イエスが取税人レビの家で食事をなさり、レビを弟子としてお招きになったとき、その様子を見ていたパリサイ人たちがたちまち「つぶやいた」のでした。「パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。

 

 この2つの例からもわかりますように、「つぶやき」とは、まず自分の側に、自分が勝手に決めた判断や価値観というものがあって、それが絶対のものになっている、そうした自己絶対化の心から生まれてくる私たちの反応(神に対する歪な姿勢)なのです。言い変えるなら、神の御心と私たちの思いを比較して、ああやっぱり私の思い、私の願い、私の欲求、このほうがずっと大事だ、そう思う心の状態から「つぶやき」は生まれるのです。神の御言葉が大切なのは重々承知だ。そんなこと私にはよくわかっている。私は他の人より賢いんだから、そんなこと言われなくてもわかっている。その賢い私の思い、賢い私の願い、賢い私の欲求、これを受け止め尊重してくれる教会、牧師、長老会でなければ困るじゃないか。私の思い、願い、欲求、これを尊重してくれる神様でなければ困るじゃないか。キリストではなく、私が中心でなければ困るじゃないか。賢い私の要求を聞いてくれる教会でなければ困るじゃないか。具体的に申しますと、そのような心の状態から「つぶやき」は生まれるのです。

 

 旧約聖書の民数記11章には、出エジプトをしたイスラエルの民が荒野で「つぶやき」の罪を犯したことが記されています。荒野の旅の辛さ厳しさに嫌気がさした人々は「ああ肉鍋が恋しい、甘いスイカが恋しい。エジプトでは美味しいものがたくさん食べられた。こんな荒野で死ぬよりはご馳走のあるエジプトに帰りたい」と呟いたのでした。主が「奴隷の家」であったエジプトから人々を導き出し、自由と希望を与えて下さったのに、主が恵みをもってマナを備え、導いて下さるその荒野の旅路で、人々は、あたかも災難に遭った人のように「主の耳につぶやいた」のでした。

 

 それならば、私たちはどうでしょうか?。私たちこそ12節に「今やいっそう、主に対して従順でありなさい」と告げられている、主の民の自由と幸いの音信にもかかわらず、御言葉よりも自分を絶対化し中心とした「つぶやき」の罪を犯し続けていることはないでしょうか。「つぶやき」の罪から解放されたところ、呟くべきではないところで、なお執拗に「つぶやき」続けていることはないでしょうか。神の御心、神の言葉と、自分の思い、自分の要求を天秤にかけて、やはり自分の要求の方が大事だと言い張るところに「つぶやき」は生まれます。まさにそれがピリピの教会にあった最大の問題でした。この問題にパウロは祈りをもって取り組みつつ「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」と説き勧めているのです。「つぶやき」は「疑い」を生じ、疑いは主の教会を混乱と分裂に陥れ、多くの人を躓かせるからです。

 

 先週、ドイツ改革派教会のハルベックという人が書いた本を読みました。ハイデルベルク信仰問答の講解書です。心惹かれたのはその本の題名です。「汝の御言葉の上に」というのです。ドイツ語では“Auf dein Wort”と言います。これは聖書の、ルカ福音書55節の御言葉から来ています。主イエスがシモン・ペテロをはじめ3名を弟子としてお招きになったとき、ペテロは夜通し漁をしても一匹の魚も獲れなかったので、網をたたんで帰ろうとしていました。そのとき岸辺におられた主イエスがペテロに「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしてみなさい」と言われたのです。ペテロは答えて申しました。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も獲れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。このペテロの答え「しかし、お言葉ですから」がドイツ語では“Auf dein Wort”なのです。

 

 主よ、私はあなたの御言葉の上に、私の存在と生活の全てを「おろします」と、ペテロは答えたのです。私たちもそう答えるのです。自分の願いや要求の上にではなく、神の御言葉、神の恵みの上に、私たちの全生活を投げかけるのです。そのような神の僕、御国の民として、いまここに教会生活をしている私たちなのです。その恵みと幸いを、どうかここに思い起こそうではないか。そして共に、ただ神の栄光のみを現わす教会を、主の御身体なる真の教会を、ここに形成してゆこうではないか。そのようにパウロはピリピの人たち全てに勧めているのです。ハルベックは“Auf dein Wort”の中でこのように語っています。「実はこの姿勢こそ、私たち改革長老教会の伝統をつくる基本姿勢である。私たちは大切な人生の転機において、いかにしばしば、この姿勢を忘れてしまうことか。しかし、人生の祝福と幸いは常に、私たちの経験、私たちの願い、私たちの要求の上にではなく、生ける聖なる神の御言葉の上にのみあるのだ。そこにこそ私たちは、みずからの人生の網を降ろさねばならない。そこでこそ主は私たちに命じたもう。『沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしてみなさい』と!。結果は全て主の御手にある。私たちは主に信頼して、ただ主の御言葉の上にみずからの人生を投げかけようではないか」。

 

 最後に、今朝の御言葉の15節を改めて心に留めましょう。「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」。「つぶやき」と「疑い」の姿勢をかなぐり捨てて、私たちはいつも「責められるところのない純真な者」になろうではないか。この「責められるところのない」とは「神の御前に健やかに立つ僕」になること。そして「純真」とは神の御言葉に自分の全生活を投げかける者になることです。

 

そのような信仰の生活を通して、私たちは主から大きな祝福を戴いています。それは「曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となる」祝福であり「いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」という幸いです。まさにそれが、私たち全ての者に共通した祝福であり幸いであるところ、それこそがまさしくピリピの教会の姿であり、そしてこの私たちの葉山教会の姿でもあるのです。そこに私たちは、ただ恵みによって集められ、連ならしめられているのです。祈りましょう。