説     教     詩篇181節    ピリピ書21213

          「神は不動の動者なるか」ピリピ書講解 (16)

             2019・04・28(説教19171800)

 

 「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。私たちはピリピ人への手紙を通してご一緒に福音を聴いて参りましたが、今朝はこの212節と13節の御言葉を与えられました。今朝はいわゆる「平成最後の」礼拝となるわけですが、歴史を支配したまい、歴史を救いたもう主は唯一なる主イエス・キリストの父なる神のみです。この唯一の主なる神の祝福とご支配が、新しい令和の時代にも豊かにあるように祈りつつ、今朝の御言葉から福音を共に聴いて参りましょう。

 

 教会の2000年の歴史の中で「神人協力説論争」と呼ばれる有名な論争がありました。今から約1500年前のアウグスティヌスとペラギウスの論争が最も有名です。私たち人間の救いは、もちろん神の力によるものだけれども、では100パーセント神の力によるのかと言うと、そうではなく、人間の側の協力が必要不可欠である。つまり、救いの主体は神だけれども、それを決定するのは人間の側の協力如何によるのだ。そうした主張をペラギウスが提起しました。要するに「救いの確かさは私たち人間の力にあるのだ」と主張したわけです。それに対してアウグスティヌスが反論して「そうではない、私たちの救いは100%神の御力によるのであり、人間のいかなる努力精進も救いを保証する力はない。救いの確かさはただ神の御力にあるのだ」と答えました。

 

 このうな「神人協力説」との関連の中で出て参りましたのが「神は不動の動者なるか」という問いでした。かいつまんで申しますと、ギリシヤ哲学のアリストテレスが言うように、神は「不動の動者」である。つまり、自らは少しも動かずして他を動かし、支配し、ご自分に近づかせることによって救いを与えるのが神である。この考えかたの代表者は13世紀のトマス・アクィナスと言う人です。「神学大全」という著作が最も有名です。トマスによれば、先ほどのペラギウスのように、私たち人間が不動の神に向かって動いてゆく、その動きこそが救いを決めるのだという結論になります。神人協力説と同じ主張になるわけです。そこからローマン・カトリック教会の「贖宥」の思想が出てきました。これは「私たちが救われるためには、聖人の通暁(功徳)が必要不可欠である」という考えかたです。「キリストのみ」の「のみ」を損なう、聖書から離れた福音理解が生まれたのです。

 

 いささかキリスト教信仰の筋道(教理)に関する事柄を申しました。なぜ、このようなことを最初に申したかと言いますと、今朝のピリピ書212節に「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」とあるのです。このような言葉を聞きますと、私たち日本のキリスト者は生真面目ですから、すぐにペラギウスのような考えかたに傾いてしまうのです。つまり「人間が神に救われるためには自分の努力精進が必要不可欠なのだ」という結論になりやすいのです。しかしこの「恐れおののいて」とは「主なる神を讃美しつつ」という意味です。つまり、パウロはここで「私たちの救いは100パーセント神の御力によるのだから、ただひたすらに主なる神を讃美しなさい」と勧めているのです。言い変えるなら、パウロは(聖書は)ここでこそ「神は不動の動者にあらず」と語り告げているわけです。

 

 私たちを救い、歴史を救いたもう主なる神は「不動の動者」などではありません。そうではなく、私たちとこの世界を救うために、御自身の最愛の独子イエス・キリストをさえ世にお与えになったかたなのです。「不動の動者」であるのは(あろうとしているのは)むしろ私たちとこの世界なのです。自分は頑なに罪の殻の中に留まり、それでいて自分に都合の良い偶像を、アイドルを(富、名誉、地位、業績、学歴、健康、等々を)勝手に作り上げ、祭り上げて、そこに自分の救いがある、安心があると思い違いをして、自分が作った窪みの中に横たわって「ああ安心だ、ああ楽ちんだ」と言っているのが、私たち人間存在なのです。

 

 そのような、まことに愚かな、救いに対して何の力も持ちえない私たちを救うために、本来「不動の動者」であられても良い主なる神は、同じピリピ書26節以下にありますように、御子イエス・キリストによって「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」のです。例えて申しますなら「不動の動者」というのは、溺れている人に対して「こうしろ、ああしろ」と言葉をかけるだけで、自分からは何もしようとしない人のことです。傍観者でしかない人のことです。それに対して主なるまことの神は、御子イエス・キリストのご生涯と十字架と復活によって、罪の泥沼の中で溺れ、沈みかけていた私たちのもとに、黙って飛びこんできて下さり、ご自分の生命を投げうって、私たちをその泥沼の中から引き上げて、救って、生命を与えて下さったかたなのです。

 

 今朝の説教の題を「神は不動の動者なるか」としました。これは実は福音理解にとって決定的な問いかけなのです。そして今朝のピリピ書21213節は、この決定的な問いかけに対する明確な答えを私たちに告げているものです。その答えこそ「神は不動の動者にあらず」です。主なるまことの神は、私たちの罪の傍観者などであられないのです。私たちを救うために、ご自身の独子イエス・キリストをお与えになったかたなのです。すなわち、ご自身そのものを私たちにお与え下さったかたなのです。この主イエス・キリストの十字架と復活の恵みを知る者として、私たちはそれこそ「恐れおののいて=主なる神を讃美しつつ」続く御言葉に示されているように「自分の救の達成に努めなさい」と告げられているのです。そこで、どこにその「救いの達成」があるのでしょうか?。パウロはまことに明確な答えを告げています。それこそ、私たちの救いのためにご自分の全てを「むなしうなさり」「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」十字架の主イエス・キリストにのみ、私たちの救いの確かさがあるのです。

 

だからこそ、続く13節には、このようにも告げられています。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。ここに「その願い」とあますが、これは漠然とした願い一般のことなどではなく「主イエス・キリストは、私にとっていかなるかたであるか、それを如何にしても知りたい」と願うことです。人間にとって最も大切な問いです。ですからある人はこの「願い」を「志」と訳しました。「志」という字は、心の上に人が毅然として立つ姿を現しています。その心とは何かという問題です。私たちが安心してそこに立つことのできる「心」とはいったい何でしょうか?。なにが私たちの安心立命を、つまり私たちの「救い」を保証するのでしょうか。

 

 そこでこそパウロは明確に語るのです。まことに鮮やかな答えが13節に示されています。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。私たちに十字架の主イエス・キリストを教え示して下さるかた、私たちを十字架の主イエス・キリストに出会わせて下さるかた、それは神ご自身であるというのです。主を求める願いを、志を、私たちの内に起こして下さるかた、それもまた神ご自身であるというのです。そして大切なことは13節の中に「かつ実現に至らせるのは」と記されていることです。つまり、神は私たちの心に聖霊によって働きかけて下さり、「主イエス・キリストは、私にとっていかなるかたであるか、それを如何にしても知りたい」という願いを、志を、私たちの内に与えて下さる。そしてそれを「実現に至らせ」て下さるかただと言うのです。

 

そして極めつけは13節の最後に「それは神のよしとされるところだからである」と告げられていることです。この「よしとされる」とは「限りなく喜びたもう」という意味の言葉です。石川啄木は「人といふ人の心に一人ずつ囚人がゐて呻く悲しさ」と歌いました。私たち人間の心の奥底の暗闇に、必ず罪の牢獄が存在していて、そこに囚われた囚人の悲しい呻きが、私たちの人生を暗きへと引きずり込んでいるのをどうすることもできない、そういう意味の歌ですけれども、それならば、まさにそのような私たち全ての者に、今朝のピリピ書213節は解放の喜びを告げているのです。復活の朝を告げているのです。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のだからである」と!。

 

 これは、言い換えるならこういうことです。この世界にどのような喜びがあるにしても、あなたというたった一人の人が十字架のキリストを知ること、十字架のキリストに出会うこと、そして十字架のキリストによって救われること、それ以上に喜ばしいこと、素晴らしいこと、輝かしいことはどこにもないということです。何よりも、主なる神ご自身があなたの救いを「よしとされるところ」として下さる。いちばん大きな喜びとして下さる。「天において大いなる喜びあるべし」と宣言して下さる。そのようなかけがえのない限りない喜びに、私たち全ての者をいまここで招いていて下さる。否、その大きな喜びに、いまここで私たちをあずからせて下さる。キリストを知り、キリストに出会い、キリストによって救われた者の限りない喜びは、いまここであなたを捕えている喜びなのだ。そのように今朝の御言葉ははっきりと語り告げているのです。

 

 だからこそ「神は不動の動者」などではない。その逆です。どこにも救いの無い、破れ果てた、私たちの現実のただ中に、まさにこの世界の歴史的現実のただ中に、十字架の主イエス・キリストは来て下さった。そこで私たちの測り知れぬ罪を担われ、私たちの滅びを担いたもうて、このかただけが、黙って十字架への道を歩んで下さった。そして十字架の上で「わが神、わが神、何ぞ我を見捨て給いし」と叫んで、生命を献げて下さった。そこに、私たちの唯一の救いがある。そこに、全ての人の救いの確かさがある。私たちが協力できることなど何一つありません。私たちが自分を誇れることなど何一つありません。あるのはただ十字架の主イエス・キリストの恵みのみ。そのキリストとの出会いも、その出会いを願う心さえも、神が恵みの賜物としてあなたに与えて下さったものなのだ。パウロはそのようにはっきりと語り告げているのです。

 

 先日、あるテレビの番組で、このような場面がありました。ある幼稚園に悪者に扮した人がやって来て、園児たちにこう言うのです。君たちが大好きな幼稚園の先生を貰って行く。もしそうされたくなかったら、君たちがいちばん大切にしているものと交換してやろうと。そうしましたら、園児たちはもう必死になって、大切な宝物をその悪者のところに持って来るのです。それはぬいぐるみであったり、玩具であったり、飼犬であったり、ゲームであったりするのですが、ともかくもそれを取りまとめて悪者に差し出して、これをみんなあげるから〇〇先生を返して下さいと頼むのです。

 

 私はそれを見て感動しました。私もかつて幼稚園の園長をしたことがありますが、このような時の園児たちの姿というものは人生の本質的なことを教えてくれます。それならば、それと同じように、否、それ以上に、主なる神は、私たちを絶望的な罪の支配から救って、自由と生命を与えて下さるために、ご自身の最愛の独子というかけがえのない宝物を差し出して下さったのではないでしょうか。それがあの十字架なのではないでしょうか。万葉集にもこう歌われています「銀も黄金も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも」。まさにその最愛最高の宝である御子イエス・キリストを献げてまでしても、主なる神は私たちを救い、永遠の生命を与え、御国の民として下さったのです。まさにその恵みに、いまあずかる、私たち一人びとりとされているのです。祈りましょう。