説     教    イザヤ書4515節   ピリピ書2611

           「キリストの復活と高挙」ピリピ書講解 (15) イースター礼拝

             2019・04・21(説教19161799)

 

 2019年のイースター礼拝を迎えました。この日、私たちキリスト者は口々に「イースターおめでとう」と挨拶を交わします。なぜイースターは「おめでたい」のでしょうか。「イースターおめでとう」とは、どのような意味の祝福の挨拶なのでしょうか?。最近、町を歩いていると「ハッピー・イースター」という広告を目にするようになりました。しかしこの場合のハッピーというのは、私たちが交わしあう「イースターおめでとう」とは些かニュアンスが違うと思うのです。「春だ、イースターだ、嬉しいな」という程度の言葉でしかないと思うのです。更に言うなら「イースターって、外国のお祭りなんでしょ?」「なんでも復活祭と言うらしいよ」程度の認識だと思うのです。私たちの挨拶は、もちろんその程度のものではありません。

 

 なぜ、どうして、イースターは「おめでたい」のか。その確かな答えを示すものが、今朝先ほど拝読したピリピ書26節以下、特にその9節から11節までの御言葉です。まず9節を改めて心に留めましょう。「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」。ここに「神は彼を高く引き上げ」と告げられている事柄こそイースター(キリストの復活)にほかなりません。本来このピリピ書26節以下の御言葉は、初代教会の礼拝において歌われていた讃美歌の歌詞であったと考えられています。初代教会の信徒たちがどのような讃美歌を歌っていたのか、そのメロディこそ伝わっていませんけれども、歌詞はここにパウロによって書き留められて、私たちはそれを今日読むことができるわけです。

 

 そこで6節から8節までには、主イエス・キリストの御苦難と十字架の出来事が歌われています。主は私たちの測り知れぬ罪のために十字架への道を歩んで下さり、私たちの滅びと絶望をさえ担い取って、あの呪いの十字架の上にご自身の生命を献げて下さいました。その主イエス・キリストは、しかし、十字架上に死なれ、死に支配されて、墓に葬られ、陰府にまで降られて、それでどうなられたのでしょうか?。主イエス・キリストは、死んで、陰府に降られて、そこが終着点になってしまわれたのではないのです。そうではなく、まさに今朝の29節に高らかに告げられていたように「神は彼を高く引き上げ」たもうたのです。それならば、主イエス・キリストが「高く引き上げられた」その場所とは、まさにあの「墓」にほかならないのです。

 

 とても、不思議なことがあります。私たち葉山教会の教会墓所が鎌倉霊園にありますけれども、その墓石にはなんと記されていますか?。「夜は夜もすがら泣き悲しむとも、朝と共に喜び歌はん」と、詩篇305節の御言葉が刻まれています。改めて考えさせられます。「夜は夜もすがら泣き悲しむとも」それはよくわかります。問題は次の言葉です。「朝と共に喜び歌わん」。これはどういうことでしょうか?。喜びの朝など決して、決して訪れないのが、墓に葬られた者たちの現実なのではないでしょうか?。それにもかかわらず、葉山教会墓所の墓石にははっきりと刻まれています。「夜は夜もすがら泣き悲しむとも、朝と共に喜び歌はん」。それは、ただ一つの事実をさし示しているのです。私たちの救い主イエス・キリストは、私たちの測り知れぬ罪のために十字架におかかりになり、死んで墓に葬られ、陰府に降られ、そして三日目に墓から復活されたかたである。このキリストを信じ、キリストに贖われ、教会によってキリストに結ばれた者たちにとって、もはや死は終わりではないのです。「喜びの朝」「復活の朝」が約束されているのです。キリストは、私たちの救いのため、罪と死に勝利された救い主だからです。

 

 今から約30年前、私はイスラエルのエルサレムの聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchure)を訪ねる機会がありました。聖墳墓教会とはその名のとおり、主イエス・キリストが葬られた墓の上に、2000年間継ぎ足しながら建てられた教会です。正式名称は「復活教会=エクレシア・アナスタシス」と言います。総面積で申しますとフィレンツェの大聖堂に次いで世界で2番目に大きな教会だと言われています。中は非常に複雑な迷路状態になっていて、案内板なしには(あっても)自分がどこにいるのか全くわかりません。しかしその中心はホーリー・セパルチャーすなわちキリストを葬ったとされる、洞窟の形をした墓の跡です。墓の前には数百人もの人々が中に入る順番を待っていました。行列が苦手な私は「やめようかな」と思ったのですが、思い切って入らなければ二度と機会がないかもしれないと思い、並んで待つことにしました。30分ぐらい待ったでしょうか。

 

 墓の中には5人ずつ入る仕組みになっていました。ちょうど私の前にドイツ人の修道女(シスター)が4人、賑やかにおしゃべりしながら並んでいまして、私はそのかしましい修道女らと共に墓の中に入ることになりました。入口は狭くて、背を屈めて入らなければなりませんが、中は立って歩けるほどの高さがありました。奥に進みますと石灰岩でできた平らな岩棚がありまして、まさしくそこが主イエス・キリストを安置した場所と言われているのですが、その岩棚の上の壁面に縦10センチ横30センチほどの真鍮のプレートがありまして、そこにギリシヤ語でルカ伝246節の御言葉が記されていました。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」。

 

 たちまちドイツ人修道女の質問攻めにあいました。「これ、なんて書いてあるの?。あなた読めるんだったら、ドイツ語に翻訳してよ」と言うのです。そこで私はそのかしましい修道女たちに、これはルカによる福音書2456節の御言葉であること、意味は「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」であること、このプレートの文字こそ素晴らしいメッセージだということを話しました。「もっと聖書を読みましょうね」とも付け加えました。さっきまでおしゃべりに夢中だった修道女たちは途端に神妙になり、そこに膝まづいて十字を切り「まことに主はよみがえりたまえり」とドイツ語の聖歌の一節を歌いました。そうです!「まことに主はよみがえりたまえり」なのです。ドイツ語では「バールリヒ・イェーズゥ・アウフエアシュティーエン」と言います。主はまことに甦りたもうて、墓を虚しくなされたのです。この「空虚な墓」という事実こそ、イースターの最初の音信なのです。

 

 今朝の9節から11節を改めて読みましょう。「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。

 

 主なる神は、私たちの罪の贖いのために十字架におかかりになった主イエス・キリストを、墓から甦らせたもうたのです。そして主に「すべての名にまさる名」をお与えになりました。その「名」こそ「十字架と復活の主イエス・キリスト」です。この栄光の救いの御名を、天上、地上、地下にある「すべてのもの」が讃美告白し、ともに声を合わせて「イエスは主なり」と歌います。「まことに主はよみがえりたまえり」と喜び歌います。それが私たちの献げるこのイースター礼拝なのです。だから、イースターにまさる喜びは無いのです。まさにこの日こそ最高最大に「おめでたい」日なのです。

 

 「イースターおめでとう」とはすなわち「主はあなたの救いのために甦られた」という祝福の言葉です。まさに、ここに集う私たち全ての者の救いのため、そして全世界の救いのために、神の御子、主イエス・キリストは、十字架に死にて、よみがえり、そして天に昇りて、父なる神の右に座したもう救い主であられるのです。この「天に昇り」というのを「キリストの高挙」と言います。ですからキリストの復活と高挙はひとつの救いの出来事です。「父なる神の右に座し」たもうのは、聖霊によっていつも、どこにでも、永遠に私たちと共におられるためです。この「父なる神の右」とは、絶対に変わることのない救いの御力を意味します。「右」とはヘブライ語で「勝利」を意味するからです。主はイースターの出来事において、空虚な墓というメッセージによって、私たち全ての者に、絶対に変わることのない救いの確かさを与えていて下さるのです。

 

 それゆえに、どうか共に心からなる喜びと感謝をもって、ここに祝福の挨拶を交わし合いたいと思います。「イースターおめでとう、主はまことに、あなたのためによみがえられました」。「十字架と復活の主イエス・キリストの御名こそ全てにまさりて讃美せらるべし」。「イエスは主なり」。アーメン(主の恵みはまことなり)。ハレルヤ(主をほめたたえよ)。マラナタ(主の御国をきたらせたまえ)。祈りましょう。