説    教        創世記111~4節   ピリピ書2611

                「キリストの謙卑」 ピリピ書講解 (14)

 2019・04・14(説教19151798)

 

 私たち人間が生きる限り、常に私たちの存在そのものを問い続けてやまぬ、ひとつの大切な問いがあります。それは「私にとってイエス・キリストは如何なるかたであるか」という問いです。

 

ドストエフスキーが記した手紙の中に、この問いを鮮明に写す印象深い言葉が出てきます。ドストエフスキーは「死の家の記録」という作品に示されているように、28歳から32歳までの4年間をシベリア流刑囚として過ごします。その流刑地オムスクに向かう絶望の旅の道すがら、彼は偶然にひとりの没落貴族の老婦人に出会います。名をフォン・ヴィージナというその老婦人は、絶望したドストエフスキーに一冊の聖書を贈ります。ドストエフスキーはその聖書を生涯片時も離さず読み続け、臨終の時にもその聖書が枕辺にあったのです。

 

 さて「印象深い言葉」と申しますのは、ドストエフスキーが流刑地オムスクからこの老婦人に宛てて書いた手紙の一節です。「たとえ誰かが私に、キリストは真理の外にあると証明したとしても、そして、真理がキリストの外にあることが事実であったとしても、なお私は、真理と共にあるよりは、十字架の主イエス・キリストと共に絶望の中に留まることを願います」。これはあたかも若き日の親鸞の言葉を彷彿とさせるものです。「たとえ法然上人に騙らせ参らせて往生はならず地獄に堕つるとも些かも悔いはなく存候」。

 

 まさにここには「私にとってイエス・キリストは如何なるかたであるか」という人類最高の問いに対する、ドストエフスキーの「魂の回答」が示されています。カール・バルトは「ドストエフスキーは文学者の姿をした神学者である」と評しましたけれども、それはドストエフスキーが十字架の主イエス・キリストのお姿のみを鮮やかに指し示し、それによって全ての人間の現実を見事に描いていることによるのです。十字架の主イエス・キリストの内に「真理の中の真理」を見出した者として「真理と共にあるよりは、十字架の主イエス・キリストと共に絶望の中に留まることを願います」と言い切る新しい人生がそこに生れたのです。

 

 今朝拝読したピリピ書26節から11節までの御言葉は、初代教会の礼拝において歌われていた讃美歌の歌詞であったと言われているところです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。ここに私たちは、私たちの測り知れぬ罪のために、私たちの救いのために、十字架におかかりになった主イエス・キリストのお姿を見るのです。言い変えるならここには「私にとってイエス・キリストは如何なるかたであるか」という問いに対する、聖書からの明確な答えがあるのです。

 

 何よりも6節と7節に心を留めましょう。ここに「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」と告げられています。ここで言われている「神のかたち」とは、キリストが「永遠の神の唯一の独子」にいましたもうことを現しています。ニカイア信条の言葉で言うなら「神と本質を同じ」くしておられることです。ですからこの「かたち」という言葉は外見のことではなく本質のことをさしているのです。つまり、こういうことです。「キリストは、永遠の神の唯一の独子であられるかたであるにもかかわらず、私たちの救いのためにご自身を虚しくなされて僕の本質をとられ、人間のお姿になられた、そのような救い主である」。

 

 さて、この6節に、不思議な言葉があることに気が付かれたでしょうか?。それは「神と等しくあることを固守すべきこととは思わず」とあることです。そもそも「固守」という日本語自体ほとんど耳にすることがないかもしれません。元々のギリシヤ語ではハルパゲモスという言葉です。文字どおり「しがみつく、固執する、自分のものだと主張する、執着する」しいては「奪う」という意味の、悪い言葉です。ですから「固守すべきこととは思わず」とは、主イエス・キリストはこのハルパゲモスが全く無いかたである、ハルパゲモスとは無縁なかたである、という意味になります。

 

 さて、そこで、このハルパゲモスという悪い言葉が、まさに私たち人間の罪の本質として登場してくるのが、今朝あわせて拝読した創世記111節以下なのです。有名な「バベルの塔」の物語です。かつて三笠宮様が調査された「ウルのジグラット」と呼ばれるイラクの遺跡がこのバベルの塔の跡であると想定されています。高さが100メートル以上もあった非常に巨大な塔でした。なぜそんなに高い塔を作ったのかと言いますと、今朝の創世記114節にあるように「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」と人々が共謀画策した結果造られたのです。バベルという言葉にはヘブル語で「虚しい」という意味があります。それこそ人間の罪が具体化した「バベル=虚しい塔」でした。

 

 本来、文化と科学技術は神の賜物であり祝福のわざです。しかし私たち人間はその神からの賜物である文化と科学技術を祝福とはせず、逆にハルパゲモスのために用いようとするのです。自分たちを神と等しい者に伸し上げ、自分たちの名を上げ、自分たちの権威権勢を示そうとするのです。ですから創世記114節の冒頭に「さあ」とありますが、この「さあ〇〇をしよう」という掛声をギリシヤ語に訳すとハルパゲモスなのです。神を神とせず、自分たちが神に伸し上がり、神になり替わり、神からの賜物を自分たちの権威権勢のために「奪おう」とすること、それがハルパゲモスであり、それこそ私たち人間の罪の本質を現しているのです。「さあ我々は自分を神に伸し上げよう」「さあ我々は自分の栄光を求めよう」「さあ我々は自分だけを中心として生きよう」まさにこのハルパゲモスの罪が、神ではない肉なる者をして神に成り上がろうとさせ、神の永遠の御子イエス・キリストを十字架につけたのです。

 

 この罪の結果、神の審きを受けまして、あえなくも「バベルの塔」建設の虚しきわざは頓挫し、塔は未完成のまま廃墟と化したわけです。その現れとして、バベルの塔の建設に従事した者たちの言葉が互いに通じ合わなくなったと記されています。人間は自己神格化、自己栄化、自己中心化とうハルパゲモスの罪を犯した結果、理解し合える共通言語を失うことになったのです。そして細分化され、多元化され、無秩序となり、孤独となり、意味と目的を失って、魂の漂泊者となって、地の表を彷徨う結果になった。それが今日まで続いている人間のいわゆる「文化的営為」なのです。

 

ドストエフスキーはまさにその「魂の漂泊者」としてシベリアに向かう途中でフォン・ヴィージナ婦人に出会い、一冊の聖書を貰ったのです。それは細分化され、多元化され、無秩序となり、孤独となり、意味と目的を失った魂が、神の言葉という「生命の言葉」との出会いの中で新しい生命を与えられ、真の礼拝という共通言語(神の国の共通言語)を与えられて、復活の生命を生きる神の僕とされた歩みでした。

 

 さて、このような人間のハルパゲモスの罪とは正反対の歩みが、まさに私たちのハルパゲモスの罪を覆い贖い、私たちを救うキリストの御業が、歴史のただ中に現わされていることを、パウロは喜びと感謝をもってピリピの人々に告げているのです。それが今朝のピリピ書27節以下です。「(主は)かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。

 

 ここに告げられていることは、神の永遠の独子であられる主イエス・キリストが、神と等しくあられるご自身の本質をさえ虚しくなされて、十字架への道を歩んで下さるために「人間の姿」としてマリアよりお生まれになった、という事実です。ハルパゲモスの罪の中に生きる私たちを救うために、ハルパゲモスの罪とは全く逆の歩みを、神の永遠の独子が歩んで下さったのです。このキリストの十字架への歩みは、もはや謙遜などとういう言葉では表現できません。それで「謙卑」という言葉が用いられるようになりました。これは7節の「おのれをむなしうして」の元々のギリシヤ語ケノーシスの訳です。「謙遜」というのは、本来はそれ相応の地位や立場にいる人が「いやいや私はそんな偉い人間ではありません」と遜ることです。しかし「謙卑」とは、その地位や立場までも完全に捨ててしまうことです。

 

 主イエス・キリストは、本来、本質的に、絶対に、永遠なる神の唯一の独子なのですから、そのかたが「私は神の子であるぞ」とどんなに言を多くして語ろうとも、そこには少しの不思議も矛盾も不都合もないのです。しかしその主イエス・キリストは、ご自分が神の御子であられることを謙卑なさって、ご自分を全く虚しく、私たちと同じ人間の姿におなりになって、神ではありえない十字架の道を歩んで下さいました。神が、神の外に出てしまった私たちを救うために、神の外に出て下さった、それがキリストの謙卑なのです。私たちはそれとは正反対です。本来的、絶対的に、罪人のかしらであり、肉な人間でしかなかった者が、自分を神と等しい者に伸し上げようとして、虚しいバベルの塔を造らんとし、滅びに至るのが私たちの歩みなのです。

 

 まさに、そのような魂の本末転倒に生きている私たちを救うために、神の永遠の独子なる主イエス・キリストは、ご自身を謙卑なさって、ケノーシスなさって、虚しい者とされて、神の外に出て下さって、神ではない者になって下さって、十字架を背負われ、十字架の上に死んで下さって、私たちの罪を父なる神の御前に執成し、私たちの贖いとなって死んで下さったのです。それがキリストの謙卑なのです。ニカイア信条にこのように告白されていることです。「主は、わたしたち人間のため、また私たちの救いのために、天より降り、聖霊によって、おとめマリアより肉体を取って、人となり」そして私たちの救いのために呪いの十字架にかかって、ご自分を全く献げぬいて下さったかた、そのかたを私たちは「神の永遠の独子、救い主イエス・キリスト」と信じ告白するのです。ドストエフスキーも、まさにこの十字架の主イエス・キリストに出会って、キリストの贖いの恵みに生かされて、新しい人生を歩む者とされたのです。

 

 今日から受難週に入ります。来週21()はイースター礼拝です。この大切な時にあたりまして、どうか私たちは「私にとってイエス・キリストは如何なるかたであるか」この最も大切な問いに対して「汝こそ生ける神の子キリストなり」との信仰告白をもってお応えし、礼拝中心の信仰生活を心を高く上げて歩んでゆく一人びとりになりたいと思います。主イエス・キリストは、私たちのために謙卑なさり、十字架においてご自身の全てを献げて、私たちの贖いとなり、救いとなって下さった「救い主」にいましたもうのです。祈りましょう。