説    教     エゼキエル書1119節   ピリピ書235

                「キリスト・イエスの心」ピリピ書講解 (13)

 2019・04・07(説教19141797)

 

 私たちは、教会の唯一のかしらは主イエス・キリストであり、私たちがその主イエスによって招き集められた群れとして、この教会が「聖徒の交わり」であることを信じる群れです。使徒信条にも「聖なる公同の教会」とはすなわち「聖徒の交わり」であると告白されています。それならば、この「聖徒の交わり」とは、具体的にどのような群れであることを意味するのでしょうか。それが今朝のピリピ書23節以下の御言葉の大切なポイントです。

 

 まず、新約聖書の原語であるギリシヤ語で「交わり」のことを“コイノーニア”と申します。この言葉は本来「ひとつの糧に共にあずかる」という意味です。そこから「聖徒の交わり」とは私たちが主語なのではなく、私たちが「共にあずかる」唯一の生命の御糧でありたもう主イエス・キリストご自身が主語であられる、ということが明らかになるのです。つまり「聖徒の交わり」とは、私たちが主の恵みによって招き集められた群れとして「唯一の生命の御糧なる主イエス・キリストに共にあずかる」群れであることです。それが私たちの教会の本質なのです。

 

 かつてナチスドイツ政権下のドイツで、教会が「聖徒の交わり」であることを明らかにしたために、殉教の死をとげたボンヘッファーという神学者がいました。このボンヘッファーが、その名もずばり「聖徒の交わり」という本を書いています。ずいぶん以前ですが友愛会でも学びました。この本の中でボンヘッファーは「共に生きる生活」“Gemeinsames Leben”という言葉を幾度も用いています。実はこの本は「共に生きる生活」と訳されますけれども、ほんらい「ゲマインザーメス」とは「キリストの身体なる教会に連なる者にふさわしく」という意味です。つまりこの本の正しいタイトルは「キリストの身体なる教会に連なる者にふさわしい生活」なのです。

 

 そこで「キリストの身体なる教会に連なる者にふさわしく」生きるとは、具体的にどのような生活をすることなのでしょうか?。実はそれこそが「聖徒の交わり」としての具体的な教会をこの歴史の中に形成してゆくことに直結しているのです。まさしく私たち一人びとりの課題なのです。その課題を共に担う者として、使徒パウロは愛するピリピの教会の人々に、今朝の23節から5節の御言葉を書き送っています。

 

特にその3節と4節を見ますと、このように記されています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」。3節については先週学びましたから省略しますが、特に4節には「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」と告げられています。実は私たちは、このような御言葉が人間的に大好きなのです。「そうだ、パウロ先生の言うとおりだ。私たちは自分のことばかりではなく、他人のことを思い遣る気持ちを忘れてはならない」。そして同時にこのようにも感じるのではないでしょうか。「私は自分のことばかり考えてはいない。十分にとは言えないかもしれなれけれど、他の人のことも思い遣っている」と。

 

 それは、本当でしょう。そう感じる人の思いを、私たちは「いいや、あなたはそうではない」と否定することはできないと思います。しかし気をつけて下さい、これは聖書の言葉なのです。主なる神ご自身が、使徒パウロを通して、私たちの魂に語りかけておいでになるのです。あなたは本当に、主なる神の前に嘘偽りなく「自分のことばかりでなく、他人のことも考え」ているのか?。そのとき、やはり私たちは無口にならざるをえないのではないでしょうか。

 

たとえば「人を愛する」と言っても、私たちはえてして、その愛に対する見返りを当然の如くに求めて、それを前提条件として「人を愛する」ということはないでしょうか。その見返りが自分に返ってくるなら満足し、それが返ってこないときには、愛が一転して恨みや悲しみや憎しみに変わってしまう、そのような「自分ファースト」の愛しかたをしてはいないでしょうか。そうしますと、実は私たちが「人を愛する」というのも結局は「自分のこと」が中心なのだと言わねばなりません。本当に純粋に人を愛しているのではなく、自分が求める見返りをくれる相手の、その見返りを愛しているに過ぎないことになるのです。

 

 そのような私たちであるからこそ、今朝のピリピ書25節の御言葉が、私たちの心に強く迫って参ります。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」。この「キリスト・イエスにあって」とは「キリスト・イエスに堅く結ばれて」という意味です。もっと言うならば「キリスト・イエスに堅く結び合わされたあなたとして」という意味です。さらに申しますなら「キリスト・イエスに堅く捕らえられているあなたとして」という意味です。

 

 そしてもうひとつ、忘れてならない大切なことは、今朝のこの5節は、文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳されていることです。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。ですから、これをまとめて申しますとこのような意味になります。「キリスト・イエスに堅く捕らえられているあなたとして、汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。まず第一に「キリスト・イエスに堅く捕らえられているあなた」という恵みの現実がある。その恵みの現実に基づいて、ただその恵みを唯一の根拠として、私たちは「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」との喜びの生活を造ることができる者とされている。それこそ「聖徒の交わり」としての主の御身体なる教会に連なって生きる私たちに与えられた、具体的な恵みによる生活である。そのようにパウロは、否、聖書は、私たち全ての者に語り告げているのです。

 

 「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と言いましても、もしそれが直接法の誡めであるなら、私たちにはその力は無いと言わねばなりません。しかしこれは直接法の誡めなどではないのです。「キリスト・イエスに堅く捕らえられているあなた」という恵みの現実に基づく、新しい自由の生活への招きなのです。「あなたは、あなたこそ、キリスト・イエスの心を心として生きる、真の神の僕とされている」という、喜びの自由の生活への招きの言葉なのです。

 

 先日、東海連合長老会の年間第3回会議に向かいます車中で、いつも石塚武志長老と話をしながら行くのですが、とても意外な話を聴きました。石塚武志さんが私に「先生、安中のベーケン先生を知っていますか?」と訊かれたのです。実はベーケン宣教師の息子さんが、武志さんが校長だった時に関東学院小学校の教頭をしていて、私はそれも初耳だったのですが、先日ベーケン宣教師が97歳で亡くなられたので、お葬式に出席するため安中まで行ったというのです。私はたちまち半世紀近く前の、自分が高校生の頃のことを思い出しました。その頃のハーバート・ベーケン宣教師はまだ若くて、英国貴族のようなノーブルな雰囲気のかたでした。私は今でも祈りの最後に「祈りたてまつる」と言いますが、それはベーケン宣教師からの直伝なのです。

 

 このベーケン宣教師は、新島襄がそうであったように、アメリカン・ボードの宣教師として昭和22(1947)に日本に来られたのですが、そのとき知っている日本語はただひとつ「カルイザワ」だけだったそうです。安中は軽井沢の手前約25キロの地点にある町ですから「カルイザワ」という単語を唯一の手掛かりとして、なんとか安中教会を探り当てて着任されたのです。文字どおり「行く先を知らずして」旅立ったアブラハムのような旅でした。主なる神はアメリカの、ケンタッキーに住むドイツ系移民の青年であったハーバート・ベーケンに恵みの白羽の矢を立てたまい、彼に「立って日本に行き、そこで神の御言葉を宣べ伝えよ」とお命じになったのです。そして70年にも及ぶその働きを、神は豊かに祝福して下さったのです。

 

 ペテロもそうでした。ヨハネ伝2118節以下にありますように、主イエスはペテロに「あなたは…これからは、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」と言われました。最高の「はなむけの祝福の言葉」です。ペテロは感涙に咽んで、その生涯を神の栄光のためにお献げしたのです。いまここに集う私たちにも、主は同じ恵みと祝福を与えていて下さいます。まさに「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」この愛の招きの言葉に、喜んで聴き従う真の神の僕として、新しい一週間の生活へと馳せ参じて参りたいと思います。私たちは「聖徒の交わり」の中に入れられているのです。「唯一の生命の御糧なる主イエス・キリストに共にあずかる」者たちとされているのです。キリスト・イエスが私たちの、永遠の贖い主にいましたもうゆえに、心を高く上げて御国への道を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。