説    教     申命記291012節   ピリピ書212

            「聖霊の交わり」 ピリピ書講解 (12)

    2019・03・31(説教19131796)

 

 「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい」。これが今朝、私たちに与えられているピリピ書212節の御言葉です。そして続けてパウロは3節にこのように語っています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい」。

 

 ピリピ書は「喜びの手紙」と呼ばれます。しかしこの手紙の宛先となったピリピの教会に、全く問題が無かったわけではありません。むしろ他の教会と同じように、否、それ以上にピリピの教会にはたくさんの問題(課題)がありました。その代表的なものに、教会の中に信仰による一致が見られなかったということがありました。これはキリストの御身体なる教会にとって致命的なことではないでしょうか。キリストの御身体なる教会が内部分裂の危機に晒されていたのです。そのようなピリピの教会の問題が、今朝の御言葉には色濃くあらわれているのです。

 

 信仰による一致を失ったとき、すなわち、主イエス・キリストのみが唯一の「主」であり中心であることを見失ったとき、そこに立ち現れるものは「党派心」であり「虚栄心」でしかないのです。ですから使徒パウロは熱き祈りをもってピリピの人々に勧めています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい」と。この「へりくだった心」こそ、続く4節以下に示されている主イエス・キリストの御心です。自分たちの傲慢な思い、自己中心の我儘な心をかなぐり捨てて、主イエス・キリストの御心に立ち帰りなさい。ただ主イエス・キリストのみが中心であられる、キリストの御身体なる真の教会へと成長しなさい。そのようにしてこそ、あなたがたの信仰も「聖霊の宮」として成長してゆくであろう。逆に「何事も党派心や虚栄からする」ならば、そこに立ち現れるものは虚しい人間の群れに過ぎず、それは歴史の中で無に帰するほかないであろう。

 

 ピリピの教会が建てられたマケドニアのピリピという街は、多種多様な文化が綾をなしていた都会でした。まずギリシヤ語を話すヘレニスタイという人々がいました。ピリピの住民の約半分はこのヘレニスタイ(聖書で言うギリシヤ人)でした。それに続いて、ディアスポラと呼ばれる、祖国を離れて生活するユダヤ人たちがいました。またそれに加えて、シリア、ペルシア、エジプト、スクテヤ、クレネ、カルタゴ、イタリア、イスパニア、その他の地方から移住してきた多くの居留民たちがいたのです。つまり、文化的にも言語的にも人種的にも民族的にも、本当に多種多様な文化の人々が複雑に入り混じり、綾を成していた都会、それがピリピでした。

 

 そういたしますと、そこにどのような問題が起こるかと申しますと、それこそ文化摩擦、文化どうしの軋轢が生ずるわけです。たとえば今、トルコやシリアでクルド人問題というのが起こっていますが、あれとよく似た状況が起こるのです。多数派の文化や民族が、少数派の文化や民族を抑圧し排除しようとする問題です。そこで、ピリピの場合はレニスタイが多数派でしたから、ヘレニスタイの人々が他の文化や民族を排除しようとする動きがありました。これが第一の問題です。

 

 次に、これはさらに複雑なのですが、文化の内面における問題がありました。それはギリシヤ文化の中にグノーシスという、知識を重んずる生活のスタイルがありまして、それがピリピの教会におけるヘレニスタイの人々の信仰のスタイルにもなっていったことです。端的に申しますならば、ある特定の知識や経験に到達した人間だけが救われるのだという、ちょうど仏教で言うところの「修行の結果としての悟り」のような価値観を、教会の中にも持ち込もうとする人々がたくさんいたのです。そうしますと、いやいや人間が救われるのはただキリストを信じる信仰によるのだ、そのようにパウロ先生もおっしゃっていたではないか、いやいや、パウロ先生が言っていたことは間違いだ、信仰だけでは人間は救われないんだ、救われるためには知識や経験を積まなければならないんだ、そうした2つの異なる立場が対立を深めていたのです。これに加えてもう一つ、複雑な問題をもっと複雑にしていたものに、ユダヤ教的な信仰理解をピリピの教会に持ちこんできた「福音的律法主義者」たちの活動もありました。

 

いわば、@パウロから聴いた福音に素朴に立とうとする人々。A文化的キリスト教を提唱するヘレニスタイの人々。Bユダヤ教的な信仰理解に立つ福音的律法主義者たち。この3つが同じピリピ教会の中に混在していて、互いに批判し合い、次第に対立を深めつつあったのが、当時のピリピ教会の姿であったわけです。そうした状況をパウロは、ローマの獄中にいて伝え聞きつつ、あたかも快刀乱麻を断つがごとくに明確な答えを示しているのが今朝の御言葉なのです。

 

 カール・バルトという改革長老教会を代表するスイスの神学者が「教会教義学」という本の中でこのようなことを語っています。「まことの神学とは、神についての知識などではない。そうではなく、まとの神学とは、イエス・キリストご自身である」。この「神学」という言葉を「キリスト教」または「教会」と置き換えても良いのです。「まことのキリスト教とは、神についての知識などではない。そうではなく、まことのキリスト教とは、イエス・キリストご自身である」。「まことの教会とは、神についての知識などではない。そうではなく、まとの教会とは、イエス・キリストご自身である」。だからバルトは「神学の使命、それはキリストの御身体なる真の教会を建てることである」と申しました。キリストの御身体なる真の教会が歴史の中に建てられてゆくこと、そして私たちが祈りを熱くしてキリストの御身体に仕えてゆくこと、それこそが真の神学の務めであるとバルトは言うのです。

 

 言い換えるならば、私たち人間の罪を十字架において贖い、御自身の生命をもって救いを与えて下さった主イエス・キリストによるのでなければ、私たちのいかなる知識も経験も、神に祝福された本物の知識・経験とはなりえないのです。ですから新約聖書では真の知識と偽りの知識を言葉の上でも分けています。偽りの知識は「グノーシス」ですが、真の知識は「ソフィア」という言葉であらわしています。このソフィアとは主を信ずること、真の神を礼拝することと一つの知識であり、それこそが私たちに真の自由と幸いを与えるのです。そして主イエス・キリストはそのソフィアの唯一の「主」であられます。いま、その真の知識を追い求め、その真の知識(十字架の主イエス・キリストによるソフィア)においてこそ、全ての人が一つであるように、唯一永遠の主のみを中心とする真の教会へと成長してゆきなさい。パウロはそのようにピリピの全ての人々に対して熱き祈りをもって勧めているのです。

 

 改めて今朝の1節を見ますと「あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら」とあります。ここに「御霊の交わり」とあることに心を留めましょう。たちまち私たちに思い当たる大切な言葉があるはずです。それは祝祷の言葉にもなっている、第二コリント書1313節の言葉です。「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」。この「聖霊の交わり」とは「神が聖霊によって私たちに与えて下さった、永遠に変わることのないキリストにおける救いの恵み」という意味です。それこそが教会一致の真の根拠なのです。私たち改革長老教会はそのことを大切にしてきた教会です。

 

「神が聖霊によって私たちに与えて下さった、永遠に変わることのないキリストにおける救いの恵み」ただそれだけが全ての教会を主にあって一つにし、全ての人々を主にありて結び、全ての文化、全ての民族、全ての国々を主にありて一致せしめる唯一の力である。私たちはいま使徒パウロと共に、そして代々の聖徒らと共に、この確信と希望のもとに立ちつつ、今朝の2節に告げられているように「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって」ただ主の御栄のみを現す真の教会へと成長して参りましょう。祈りましょう。