説    教     ヨブ記3615節   ピリピ書12930

             「賜物たる苦難」 ピリピ書講解 (11)

    2019・03・24(説教19121795)

 

 「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである」。これが今朝、私たちに与えられているピリピ書12930節の御言葉です。この御言葉を、私たちは一読してどのように難じたでしょうか?。使徒パウロはここではっきりと「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」と語っています。この「賜わっている」とは「神からの恵みとして戴いている」という意味です。

 

しかし実は、私たちは、ここでいささか戸惑いを感じるのではないでしょうか。かつて楠木正成は「七難八苦をわれに与えたまえ」と祈りましたけれども、人生の苦しみを本当に知る人は、それは至難の言葉であることを知っているはずです。苦しみや悩みが人間にとってどれほど辛く、恐ろしいものであるかを経験したことのある人は、苦しみや悩みに対して常に謙虚です。そして同時に私たちは、真に幸いな人生とは、それは苦しみや悩みの少ない人生であると、漠然とまたは無意識にせよ、そうした価値観を持って生きているのではないでしょうか。そのような私たちにとって「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」と聞くことは、やはり大きな驚きであると思うのです。

 

 ここでパウロが語っていることは「私たちはキリストを信じて救われたことと同じように、キリストを信じているゆえに苦しみを受けることをも、神からの尊い賜物として賜わっているのだ」ということです。つまり、パウロはここで「神から幸いをも受けたぶんだけ、苦しみをも受けるのは当然のことだ」と、プラスマイナスゼロのようなことを言っているのではありません。そうではなく「苦しみもまた神からの尊い恵みの賜物なのだ」と言い切っているのです。つまり「キリストを信じて生きることにはプラスしかないのだ」と語っているわけです。苦しみも悩みも、喜びも幸いも、人生の全ての局面を神は祝福の「賜物」として私たちに与えていて下さる。それを知りうるのは「ただキリスト・イエスを信じていることによる」のだと、パウロは語っているわけです。

 

 私がかつて東京の教会におりましたとき、一人の男性が求道者として礼拝に出席するようになりました。この人は会社の人間関係に疲れ果て、たいへんな苦しみを経験した人です。ところがこの人がある日曜日、礼拝が終わってから私のところに来て「先生、今日の説教と、讃美歌の歌詞で目が覚めました」と言われたのです。それは239番の歌詞でした。「さまよう人々、たちかえりて、あめなる御国の、父を見よや、罪とがくやめる、こころこそは、父より与うる、たまものなり」。特にこの「罪とがくやめる、こころこそは、父より与うる、たまものなり」に「目が覚めました」と言われたのです。それまで知っていた宗教は、苦しみや悩みからの解放を救いとするものばかりであった。自分もずっとそのように思っていた。しかしキリスト教は違うと、この讃美歌を歌っていてはっきりと「わかった」と言われたのです。人間としての本当の幸い、本当の救いは、真の神を知り、真の神に立ち帰り、真の神を礼拝することにある。それをこの讃美歌の歌詞が明確に教えている。そこで「キリスト教は本物だ」と心から感じましたと言われました。そのようにしてこの人は洗礼を受け、今では転勤して別の教会に通っていますが、その教会で長老として良い奉仕をしているのです。

 

 顧みて、同じ新約聖書の使徒行伝512節以下に、ペテロを中心とする初代エルサレム教会の使徒たちが、ユダヤ人の七十人議会において鞭打ちの刑に処せられた時の様子が記されています。その41節を見ますとこう記されています。「使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。そして毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引き続き教えたり宣べ伝えたりした」。ここにははっきりと「使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら」と書いてあります。そして主にある喜びと確信を得て、宣教活動がいよいよ盛んなものになっていった様子が記されているのです。パウロにも全く同じ経験がありました。パウロは「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」あったと語っています。しかしパウロはそのような経験を通して「御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを心から喜んだ」と記されています。

 

また、ペテロはペテロ第一の手紙41216節でこのように語っています。「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい」。

 

 私たちは、これと逆な生きかたをしてはいないでしょうか?。キリストを信じているのに、なぜこのような不条理な目に遭わねばならないのかと、不平不満ばかりで心が満たされ、苛立ちのあまりパニック状態になってしまう私たちではないでしょうか?。そのような私たちに、今朝の御言葉ははっきりと告げているのです。「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」と!。私たちはキリストのゆえの苦しみ、信仰のゆえの悩みや恥を通してこそ、よりいっそうキリストの僕に相応しい者とされてゆくのです。逆に言うならこういうことです。私たちがどんなに真実に神に愛され、祝福されているか、それは私たちが信仰のゆえに受ける数多くの苦しみや悩みをが証しているではないかと言うのです。苦しみに遭えば遭うほど、私たちが真実なキリストの弟子、神の僕であることが、明らかにされているではないかとパウロは言うのです。

 

 何よりも、先ほどの第一ペテロ書414節に「キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである」とありました。この「そしられる」とは「誹謗中傷を受ける」「悪口を言い触らされる」「悪評判をばらまかれる」という意味のギリシヤ語です。私たちとしてどうにも我慢のできない、人生において最も辛い経験の数々が、ここに記されているわけです。いわれなき誹謗中傷を受けること、そして不特定多数の人々に悪口を言い触らされ、悪評判をばらまかれること、それを「辛い」と感じない人は一人もいないでしょう。「いっそ死んでしまいたい」とさえ思うほどの経験です。そのときこそ、私たちは改めて「さいわいである」との主の御言葉を、改めて聴きなおします。私たちが「さいわい」であるのは、私たちの人生に苦しみや悩みが無いからではないのです。そうではなく、不条理な苦しみや悩みの中でこそ、私たちはペテロが語るように「その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである」この「さいわい」に生きる者とされているのです。聖霊なる神の変わらぬ御支配の内に生きる、本物の神の僕とされてゆくからです。

 

 どうかご一緒に、旧約聖書のヨブ記3615節を心に留めましょう。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」。まさにここに告げられているように、私たちの頑なな心、罪に支配された魂を打ち砕いて、神の豊かな祝福のもとに生きる僕として下さるために、主なる神は私たちの人生におけるあらゆる苦しみや悩みを、ご自身の恵みの手段として用いて下さるのです。私たちをその苦しみを通して救いに至らせ、私たちの耳を逆境によって開いて下さるのです。

 

 私たちはここで、一つの単純な事実に立ち帰れば十分でしょう。私たちは礼拝のたびごとに、地上の信仰の生涯を走り抜いて、永遠の御国に召された多くの信仰の先達、主の証人たちのことを心に留めます。それらの人々は、なぜ「さいわいな人々」「主の証人」「御国の聖徒たち」と呼ばれるのでしょうか?。苦しみや悩みの無い、平穏無事な人生を歩んだからでしょうか?。信仰のゆえの苦しみや試練を経験しなかったからでしょうか?。そうではないのです。まさに信仰のゆえの数多くの苦しみや悩みや試練の中で、しかしひとすじに、ただ主キリストの贖いの恵みのもとに生き続けたゆえにこそ、彼らは本当の「さいわいな人々」と呼ばれるのです。だからこそ、私たちもまた彼らと共に心を高く主のもとに上げます。宗教改革者ルターはこう語りました。「苦しみは、神が私たちキリスト者に着せて下さる最良の婚姻の晴着である」。私たちもまた、この晴着を着せて戴いて、御国への旅路を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。