説    教     イザヤ書4315節   ピリピ書12728

             「福音に相応しく」 ピリピ書講解 (10)

    2019・03・17(説教19111794)

 

 「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい」。これが今朝、私たちに与えられているピリピ書127節の御言葉です。この場合の「ただ」とは「ひたすらに、余念なく」という意味です。つまり使徒パウロは、愛するピリピの教会の人々に対して「あなたがたは、ひたすらに、余念なく、キリストの福音にふさわしく生活しなさい」と勧めているのです。それでは「キリストの福音にふさわしく」とは、具体的にどのようなことなのでしょうか。そのことが今朝の御言葉の中心になるはずです。

 

 私たち日本社会の文化は「らしさの文化」であると言われます。男らしさ、女らしさ、学生らしさ、社会人らしさ、挙げるならばきりがありません。人間としての社会生活の中で、私たちは実はいろいろな場面でこの「らしさ」を無言で求められるのではないでしょうか。もっとも、今日では、こうした「らしさ」のけじめはだいぶ薄らいできました。たとえば会社の中で、うっかり女性の部下に「女らしくしなさい」などと言おうものなら「それ、セクハラですよ」と言われて反感を買うのが落ちでありましょう。そのような意味では、むしろ「らしくない」ことが現代的であり、自由な生きかたである、そのような風潮があるのかもしれません。

 

 それでは聖書において「らしく」とか「ふさわしい」という言葉は、どのような意味を持っているのでしょうか。例えば、日曜学校の生徒なら誰でも知っている言葉に「光の子らしく歩みなさい」というエペソ書510節の御言葉があります。同じエペソ書の41節には「あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩み(なさい)」という御言葉も出てきます。またはコロサイ書110節を見ますと「主の御心にかなった生活をして真に主を喜ばせ…」という表現も出て参ります。そこでは「かなった生活」というさらに積極的な表現で「らしさ」が強調されているわけです。

 

 そして、私たちが共に心を留めるのは、なによりも今朝のピリピ書127節の御言葉なのです。「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい」。忘れてはならないのは、この御言葉を私たちは福音として、主イエス・キリストから戴いていることです。つまり、これは単なる道徳や文化の教えではなく、私たちを救いへと導く福音の言葉なのです。

 

そこで、まず覚えたい一つのことは、元々のギリシヤ語では、文法のことになりますが、この127節の「ふさわしく」とは、形容詞ではなく副詞なのです。どういうことかと申しますと、私たちが日常生活の中で「ふさわしさ」や「らしさ」を語るときはいつも必ず形容詞ですね。つまりそれは「ふさわしくあるべき理想像を求め、それを評価する言葉」でしかありません。そうすると、それは途端に窮屈な「しばり」となって、私たちの人生を不自由にするわけです。

 

 ところが、聖書の語る「ふさわしさ」や「らしさ」は副詞なのです。中学校の英語の授業を思い起こして戴きたいのですが、副詞というのは名詞ではなく動詞を修飾するものです。つまり「キリストの福音にふさわしく」と言う場合、その「ふさわしく」というのはキリストの御業という動詞(主が私たちのためになして下さった全ての救いの御業)にかかっている(修飾している)ものなのです。これが今朝の御言葉を理解するための大切なポイントです。

 

 かつてカール・レーヴィットというユダヤ系ドイツ人の哲学者がおりました。たいへん優れた哲学者でして、私も学生時代にこの人の著作をずいぶん読みましたし、いまでも折に触れて読んでいます。その中に「キリスト教紳士は存在するか」という興味ぶかい論文があります。レーヴィットはユダヤ人であるためにナチスドイツに国を追われ、日本の東北大学で教鞭を執るようになりました。これは日本にとっては幸いなことでしたが、その苦難の経験の中でレーヴィットはこの論文を書きました。こういうことが語られています。はたして聖書の中に、ヨーロッパ社会が求め、また理想像として崇める「キリスト教紳士」(Christlicher HerrenChristian Gentleman)は存在するのだろうか?。レーヴィットは「存在する」と言うのです。その答えは実に衝撃的です。「それはローマの総督ポンテオ・ピラトである」。つまり、ここにレーヴィットは、キリスト教的ヨーロッパの優越性を説きつつも、なお2つの世界大戦を引き起こしたヨーロッパ社会全体に対する痛烈な批判を試みているわけです。

 

 そこで、実は同じことが、実は私たち日本のキリスト者にも当てはまると言えないでしょうか?。もし私たちが「キリストの福音にふさわしく」という今朝の御言葉を、単なる道徳訓・文化的教えとしてしか受け止めていないなら、そのとき私たち日本の「キリスト教紳士」たちもまた、主イエス・キリストにではなく、ポンテオ・ピラトに似てくるからです。更に言うなら、私たちはいつも、十字架の主イエス・キリストを遠くから見て手を洗っているピラトのような生活をしていて、それこそが「キリストの福音にふさわしく」あることだと嘯いているだけなのではないか。自分たちが勝手に描いている「キリスト教紳士」の幻影に囚われているだけの私たちになってはいないでしょうか。

 

 使徒パウロは第一コリント書620節でこのように語っています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」。この「代価を払って」とは、主イエス・キリストが私たちのために十字架におかかりになって、私たちの罪の値をことごとく帳消しにして下さった恵みをあらわしています。つまりこの「代価」とはキリストご自身のことです。「それ神はその独子を賜いしほどに世を愛したまえり。そは御子を信ずる者の一人も滅びずして永遠の生命をうけんためなり」(ヨハネ3:16)。私たちはこの限りない恵みを戴いているのです。まさしく私たちの罪の値を支払って下さって、私たちを自由な御国の民として下さるために、主は十字架におかかりになって、ご自分の全てを犠牲にして下さったのです。

 

 この尊い救いの恵みをいま与えられ、行かされている私たちとして、御言葉は私たちに喜びをもって告げています。「あなたは、自分のからだ=あるがままの存在と生活の全体をもって、神の栄光をあらわす幸いに生きる者とされているではないか」と!。どうぞもう一度思い起こして下さい。「ふさわしく」とは形容詞ではなく副詞なのです。ということは主語は十字架と復活の主イエス・キリストご自身なのです。主が私たちのためになして下さった全ての救いの御業を修飾する言葉、つまり、主の救いの御業のみが根拠であり目的である言葉、それこそが「ふさわしく」なのです。ですから「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい」とは、私たちがあるがままに(掛値なく「あるがままに」です)キリストに身を投げかけることです。キリストの恵みに自分を委ねて生きることです。キリストに飛び込むことです。それこそが「キリストの福音にふさわしく」あることなのです。

 

 ルターが訳したドイツ語の聖書、ふつう「ルター訳聖書」と呼ばれるものですが、それを見ますと今朝の127節はこのように訳されています。「あなたがたはキリストの福音に寄り添う者として、ただひたすらに教会員として生活しなさい」。これは素晴らしい訳です。「あなたがたはキリストの福音に寄り添う者として、ただひたすらに教会員として生活しなさい」。つまりルターは今朝の御言葉をこのように読んでいるのです。「キリストの福音に相応しくあること、それはキリストに寄り添う者になることである。そしてキリストに寄り添う者になるとは、ただひたすらに教会員として生活することである」。私たちはいつも、主の御身体なる教会に連なって、繋がって、礼拝者として歩んでゆこうではありませんか。それこそが「キリストの福音に相応しく生活すること」なのです。この「ふさわしく」とは漢字では「相応ずる」と書きます。何に相応ずるのでしょうか?。キリストの十字架の恵みに相応ずるのです。それが教会生活を大切にすることです。礼拝者として生きることです。

 

 そのように礼拝者として生きるとき、私たちは今朝の御言葉の続く部分にも「相応ずる」主の僕とされてゆくのです。「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても、敵対する者どもに狼狽させられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである」。実にここに、いま私たち全ての者に主が与えていて下さる大いなる祝福があります。ここにこそ「キリストの福音にふさわしく」生きる者とならせて戴いた、私たちの喜びと幸いがあるのです。祈りましょう。