説    教     エレミヤ書616節   ピリピ書12226

            「生にも死にも」 ピリピ書講解 (9)

    2019・03・10(説教19101793)

 

 「危機管理」という言葉があります。自然災害や大事故などの危機に際して、その地域の住民の生命財産を守るためにどのような対策をしたら良いのか、あるいは、事前にそのような災害を防止する手立てを確立するにはどうしたら良いのか、そのような災害防止の方法論と対策のことを危機管理と申します。今日は、私たちにとって2つの重大な災害を覚えざるを得ない日です。

 

ひとつは73年前の310日の夜に起こった東京大空襲です。非武装の一般市民居住地域に対する国際法違反の無差別焼夷弾爆撃により、東京の下町を中心として約10万人が犠牲になりました。ドイツのドレスデン大空襲の犠牲者が約25000名ですから東京の犠牲者はその4倍になります。私の父は当時旧制中学校の学生で鶴見の工場に勤労動員に駆り出されていましたが、同級生であの大空襲を生き残ったのは僅か10名足らずでした。

 

第二は8年前の、まだ私たちの記憶に新しい東日本大震災です。2011311日午後246分に起こった震度92度の大地震と、それに続く津波により、東北地方を中心とする12の都道県で15897名が犠牲になり、現在なお2533名のかたが行方不明なのです。

 

 そのような記憶を辿りますとき、実は私たちには危機管理どころか、そもそも危機管理能力そのものが欠如していると言われても弁明できないのではないでしょうか。現実問題として夥しい犠牲者が出ているわけです。原発の廃炉作業もまだ現在進行形です。仮設住宅にはまだ2万人以上の方々が生活を余儀なくされています。これが現実として私たちのこの国に与えられている大きな課題なのです。これを避けて日本という国家の形成と未来はありえません。二度とあのような大災害(または人災)の犠牲者を出してはならない、それこそ危機管理の最重要課題なのではないでしょうか。

 

 そこで、先ほどお読みしました旧約聖書エレミヤ書の616節にこのように記されていました。「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」。ここに「わかれ道」という言葉が出てきます。実は「危機」という言葉はもともと「わかれ道」という意味なのです。ですから「危機管理」というのは、まさに今朝のエレミヤ書616節が語る「わかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」ということに尽きるのです。つまり聖書が語る危機管理の目的は「魂に安息を得ること」すなわち私たち人間の「救い」にあるのだということが、ここに示されているのです。

 

 さて、この預言者エレミヤの言葉は、当時のイスラエルを混乱と無秩序に陥れていた偽預言者に対する厳しい警告の言葉でした。同じ16章の14節には、当時の偽預言者の言葉がこのように記されています。「彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている」。この「平安」とはシャロームという言葉です。その元々の意味は「神の祝福による生命の充満」です。しかし祝福も生命も無いにもかかわらず、偽預言者たちはそこでいとも簡単にシャロームを口にする、例えて言うなら、緊急手術が必要な重症の患者に対して、適当な薬を塗って誤魔化そうとしている偽預言者たちは、何ひとつ「危機管理」をしていないではないかとエレミヤは語っているわけです。

 

そして最たる問題は16節の後半です。「しかし彼らは答えて『われわれはその道に歩まない』と言った」。ここには、偽預言者たちが危機管理能力を持たない(持ちえない)理由が示されています。それは福音による「生命の道」が明示されているにもかかわらず「われわれはその道に歩まない」と、神の言葉に対して反逆の姿勢を取り続けていることです。それは偽預言者だけの罪でしょうか?。実はそこにこそ、生ける主なる神に対する叛きの罪こそ、私たち全ての者に共通する罪の姿であり、実はそれこそが危機管理において問われている最大の事柄なのではないしょうか。危機管理の問題は神に対する叛きと、その罪の贖いと立ち帰りの問題なのです。

 

 そこで私たちは改めて、今朝のピリピ書122節以下の御言葉に心を傾けて参りましょう。まずパウロは22節において「しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない」と語っています。これはすぐ前の21節の「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」を受けて語られた言葉です。実際にパウロはいつ何時処刑されるかわからない切迫した状況に置かれていました。それこそ毎日が生命の危機に晒されていたわけです。実際にパウロはこのピリピ書を最後の手紙として、西暦62年頃ローマにおいて殉教の死を遂げたと考えられています。

 

 しかしパウロは、そのような切迫した状況下にありましても、今までと同じようにこれからも、主が地上の生命を与えていて下さる限りは、牧会者として、伝道者として、生き続けるのみであると、心に堅く決めていたのです。今朝の説教題を「生にも死にも」といたしましたのは、そうしたパウロの伝道者たる姿勢が、今朝の御言葉に生き生きと告げ示されていたからです。宗教改革者カルヴァンは、今朝の御言葉の説教の中でこのように語っています。「イエス・キリストなしでは、生きるのと死ぬのと、どちらが益であるかを決めるのは難しい。しかし、キリストが我々と共におられるならば、彼は我々の生をも死をも等しく祝福して下さり、かくして、生も死もどちらも、我々にとって幸いであり、また望ましいことである」。

 

 植村正久牧師が1923年(大正12年)91()の関東大震災の翌日92日の主日、礼拝堂は消失してしまいましたから、焼け跡に立ったままでの礼拝を献げました、その礼拝で語られた説教の原稿が残っています。これは本当に「ものすごい説教」でありまして、その中で植村牧師はこう語っています。「彼らに起こった事は最悪のことだったのだろうか」。この「彼らに起こった事」とは震災によって出た夥しい犠牲者のことを指しています。それを現実として見据えつつ、植村牧師は敢えて説教でこう語るのです。「彼らに起こった事は最悪のことだったのだろうか」と。そうではないと植村牧師は言うのです。「最悪の事」は我々が自然災害や事故の犠牲者となることにあるのではない。そうではなく「最悪の事」とは、我々が神に叛いたまま生き続けることである。それこそが危機管理の最重要課題である。

 

私たちはどうでしょうか?。私たちはそのような福音的価値観を健やかに持ち続けているでしょうか?。それこそ預言者エレミヤが語る「生命の道」の福音に対して、偽預言者たちが語ったように「われわれはその道に歩まない」と嘯いている存在に、現代の私たちはなってしまっているのではないでしょうか。人生の危機(わかれ道=クライシス)に立って「よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」との御言葉は、古代イスラエル以上に、現代の私たちに対してこそ語られているのです。

 

 まさにカルヴァンが語るように、私たち人間は「イエス・キリストなしでは、生きるのと死ぬのと、どちらが益であるかを決めることはできない」のです。しかし「キリストが我々と共におられるならば、彼は我々の生をも死をも等しく祝福して下さり、かくして、生も死もどちらも、我々にとって幸いであり、また望ましいことである」この幸いに、私たちは生にも死にも、生きる僕とならせて頂いているのです。今朝の御言葉の23節においてパウロは「わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている」と申します。そして「わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」とも語っています。死ぬことを願っているのではありません。生きるにも死ぬにも変わることなく、自分はキリストに仕える僕であり続けるのだと語っているのです。それならば、死をも祝福して永遠の生命に迎えて下さる神は、生をも同じように祝福して下さり、尊い使命を与えていて下さるではないかとパウロは言うのです。

 

 それが124節以下です。「しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう」。ここで言う「肉体にとどまる」とは、与えられた地上の生命をキリストの僕として生き続けることです。同じように「生きながらえて」とありますのも、与えられた地上の生命をキリストの僕として生き続けることです。そのように主は私を生かしめて下さる、生をも死をも祝福して御業のために用いて下さる、それならば、自分が与えられたこの地上の生命をキリストの僕として全うすることにより、私は愛するピリピの教会に対して「あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう」。そのようにパウロは語っているわけです。

 

 現実には、パウロは再びピリピの教会を訪ねることはできず、ローマで殉教の死を遂げました。しかし、それであっても全く良いではないかとパウロは言うのです。生にも死にも、生きるにも死ぬにも、私がなすべき務めはただ一つあるのみ、それは私がキリストの僕として「あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う」ことである。それは「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(21)からだ。この「益」と訳された言葉はルター訳のドイツ語の聖書では「勝利」と訳されています。すると21節はこのような意味になります。「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬこともまた主にあって勝利を得ることである」。

 

主は罪人のかしらなるこの私をさえ、十字架の死によって贖い取って下さり、復活の勝利の生命を与えて下さった。同じように主は、ピリピの教会にあるあなたがた全ての人たちに、同じ祝福を与えて下さり、信仰を進ませ、喜びを得させて下さる。私はその祝福と喜びと幸いを、ローマの獄中にあっても、生にも死にも、変わることなく、宣べ伝えるキリストの僕として、いまこれらの言葉を書き送るのであると、そのようにパウロは語っているわけです。いまここに集う私たち全ての者が、同じ福音の喜びと幸いにあずかる僕とならせて戴いているのです。祈りましょう。