説    教     出エジプト記314節   ピリピ書12021

            「存在への勇気」 ピリピ書講解 (8)

    2019・03・03(説教19091792)

 

 「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」。これは論語の中にある有名な言葉です。自分はこの世に生まれてきたけれども、いまだに、人間が生きるということがどういうことなのか、人間は何のために生きる存在なのか、その最も大切なことを知らずにいる。そのような自分がどうして、人間の死について論ずることができようか、そのような意味でありましょう。このことは、実は私たちにも思い当たることではないでしょうか?。私たちは誰一人として、自らが選び取ってこの世に生まれてきた存在ではありません。この一つの事実だけでも、私たちの存在の根拠が私たち自身の中にはないことが明らかなのです。それにもかかわらず、私たちはその存在の根拠であるかた(主なる神)を知ろうともせず、神から離れたまま生きることに自由があると思い違いをしているのです。まさに「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」なのです。

 

 今日の説教の題を「存在への勇気」としました。これはドイツ生まれのアメリカの神学者パウル・ティリッヒ(Paul Tillich)の言葉です。英語では“Courage to be”と言います。ティリッヒは印象的な言葉をたくさん残した人ですが、そのひとつに「信仰とは受容の受容である」という言葉があります。「受容」とは「受け容れる」という意味ですね。つまり信仰とは、自分という存在がたしかに主イエス・キリストによって、神に「受け容れられている」事実を「受け容れること」つまりティリッヒが言う「受容の受容」とは「主イエス・キリストにおける神の選びの恵みをそのままに受け入れること」です。それこそが「存在への勇気」なのだとティリッヒは語るのです。

 

 ちょっと自分のことを申します。私がティリッヒのこの言葉に出会ったのは神学の学びを始めて間もない19歳の頃でした。その頃の私はある出来事によってとても心が傷ついていて、今でいうスランプ状態に陥っていました。自分で自分を受け容れることがどうしてもできませんでした。ある日のこと、何気なく覗いた本郷の洋書店でこのティリッヒの“Courage to be”を見出しました。当時はまだドルのレートが高い頃でずいぶん高価な本でしたが、題名に惹かれた私は迷わずそれを買い、寮に帰って貪るように読みました。そして出会ったのが「信仰とは受容の受容である」という先ほどの言葉です。この場合の「受容」とは「恵みの選び」という意味です。ティリッヒはこのように語っています。「私たちは自分という存在を見るとき、否、十字架のキリストにまなざしを注ぐとき、そこに自分を、キリストの贖いの恵みのゆえに、徹底的に受容して下さった神の“一方的な選びの恵み”を見る。ただ神の受容の恵みを通してしか、自分の存在を見ることができない、そのような“一方的な選びの恵み”を私たちはキリストにおいて賜わっている」。「存在への真の勇気とは“それにもかかわらず”ただキリストの恵みのゆえに、自分自身を受容することである」。

 

 さて、今朝の御言葉であるピリピ書12021節において、使徒パウロはこのように語っています。「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」。この「切実な思いで待ち望む」とは、たいへん力強い言葉です。バウアーという聖書学者は「自分の生命が全てそこに注がれるような熱き願いをもって待ち望む」と訳しています。元々のギリシヤ語では「不撓不屈の希望をもって」と訳すことができる言葉です。それは同じ新約聖書のルカ伝11章にも出てくる言葉です。夜遅く友人の家にパンを借りに来た人がいた。最初は「もう寝ているから朝もう一度来てくれ」と断っていた友人だった。しかし彼があまりにしつこく熱心に願うので、ついに根負けしたその友人が「起き上がって必要なものを出して」くれた。この「しきりに願う」と訳されたのと同じ言葉が、今朝の「切実な思いで待ち望む」なのです。

 

 つまりここには、使徒パウロの「なりふりかまわぬ」祈りの姿があらわれています。これまでも、いつもそうであったように、今も後も「自分の生命が全てそこに注がれるような熱き願いをもって待ち望む」ことは「わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられること」であるとパウロは語っているのです。思えばかつて、パリサイ人サウロであった頃、律法の定めを全て守り尽くしているという自負を持ちつつも、少しも救いの確信と平安を得られなかったパウロでした。「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫ばずにはおれなかったパウロでした。そのパウロはしかし、ただ十字架と復活の主イエス・キリストによって、罪と死からの唯一の救いを与えられ、主に結ばれて生まれ変わった者とされ「私たちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」と告白する者とされたのです。主に贖われて“存在への勇気”を与えられたサウロは、キリストの使徒パウロとして生まれ変わり、復活の生命にあずかった者として、救いの恵みと喜びを全ての人に宣べ伝える器とされたのです。

 

 そのパウロにとって、大切なことはただ一つでした。それは「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられること」です。この「あがめられる」というギリシヤ語は「大きくされる」という意味の言葉です。ですから「キリストがあがめられる」とは「キリストが自分の人生の中で最大のかたになる」という意味です。それは真の礼拝に直結しています。私たちが主日礼拝を厳守するのは「キリストが自分の人生の中で最大のかたになる」幸いを与えらているからではないでしょうか。私たちは、もし自分が人生の中心であり、いくら自分を大きくしようと願っても、そこには虚しさと不安だけが残るのです。それこそニーチェが語った「超人」“Uebermensch”のように、自分が神になり替わろうとする欲望=罪こそ「いまだ生を知らず」の根本原因であると言わねばなりません。神無きところでは人間が無限に神格化されてゆくほかないのです。その行き着く先は虚無と滅びでしかありません。

 

 そのような「死の縄目に絡みつかれた」私たちに対して、今朝の御言葉は明確に、私たち人間の本当の自由と幸いがどこにあるかを告げているのです。それこそ「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられること」です。そこに「存在への勇気」があるではないかと、今朝の御言葉は私たち全ての者に宣べ伝えてやまないのです。ジョン・オーマンは今朝の御言葉の説教の中でこのような言葉を残しています。「ここでパウロは、自分の存在と人生は、キリストの栄光が現わされる舞台(シアター)であると語っているのだ」。それならば、私たちという名の舞台は、なんと粗末な、取るに足らぬ舞台にすぎないことでしょうか。しかし神は、私たちの存在と人生の全体を、ただ主イエス・キリストの贖いの恵みによって、そのあるがままに「キリストの栄光が現わされる舞台」となして下さるのです。

 

 まさにこの恵みを知る者として、パウロは今朝の続く21節でこのように語るのです。「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と!。なんと驚くべき言葉でありましょう。そしてなんと慰めに満ちた言葉でありましょう。私たちの生きるにも死ぬにも、そのどちらにも、キリストの限りない恵みが現れているではないか。それならば「死ぬこと」さえも神は「益」となして下さるではないかとパウロは語るのです。キリストに結ばれているあなた、キリストに贖われたあなたを、もはや死の力は損なうことはできない。なぜなら私たちにとって「生きることはキリスト」だからた。生にも死にも、キリストに堅く結ばれているからだ。キリストの復活の生命が、私たちの全存在、全生涯を覆い包んでいて下さるからだ。この恵みの確かさを知るあなたは「存在への勇気」を主の御手から与えられている。あなたを受容して下さった主の恵みを知るあなたは、主に受容されたあなた自身を受容する幸いに生きる者とされている。だから「信仰とは受容の受容」である。それが「存在への勇気」なのだ。そのように今朝の御言葉は、私たち全ての者に宣べ伝えているのです。祈りましょう。