説    教      箴言1623節   ピリピ書11819

              「汝の作為を主に委ねよ」 ピリピ書講解 (7)

 2019・02・24(説教19081791)

 

 「すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである」。これが今朝、私たちに与えられたピリピ書11819節の御言葉です。特にこの18節の終わりに使徒パウロは「喜ぶ」という言葉を2度繰返して用いています。「わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」と言うのです。

 

そこで、実はこの後の「喜ぶであろう」という言葉は、続く19節と一つにして読まれるべき言葉なのです。つまりパウロはここで、2つの異なる方向に向けて「喜ぶ」という言葉を用いているわけです。ひとつは、自分がローマで投獄されたことによって、イエス・キリストの福音がますます多くの人たちに(おそらくはローマ中の人たちに)宣べ伝えられるようになったこと。そしてもう一つは、それこそ19節に示されているように「なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っている」ゆえの「喜び」なのです。

 

 さて、ここで「喜ぶであろう」と訳された元々のギリシヤ語を直訳するなら「私は必ず喜び続けざるをえない」という意味の非常に強い言葉なのです。単なる一時的な喜びに終わるのではない、失われることのない継続的な喜び、しかも「必ず喜び続けざるをえない」ほどの本当の喜び、それが18節の「わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」なのです。それこそ「あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって」その「喜び」が私パウロを満たすのと同じように、いまピリピの教会で多くの苦難の中にいるあなたがたをも満たし、支え、行くべき方向をさし示す、必ず喜び続けざるをえない本当の「喜び」になるであろうと、パウロは語っているわけです。

 

 次に、私たちが驚かされますのは、ここでパウロが用いている「わたしの救」という言葉です。とりわけ単なる「救い」ではなく、きっきりと「わたしの救」と語っていることに注目したいのです。現代は「救い」を求めつつも「救い」の無い時代であると言われます。仏教の、特に浄土真宗で用いる言葉に「無明」というものがありますが、本当にこの現代社会こそは「無明」の世界であり、どこにも光を見出せない社会であると言わねばなりません。しかしそのような「無明」の荒野を行くような私たち現代社会の人間に対して、今朝のピリピ書ははっきりと「わたしの救」という驚くべき福音の音信を告げるのです。そこで、ルター訳のドイツ語の聖書ではこの19節を「この私をも救う救い」と訳しています。では「この私」とはいったい何者のことかと言いますと、それは「罪人のかしら」であり「滅びの子」でり「この最後の者」でしかない「私」なのです。いわば「救いの可能性の全く無い私」なのです。

 

救いの可能性が10パーセントぐらい残っていて、あるいは5パーセント、いや1パーセントでも良いのですが、とにかく自分という人間の内側にほんの僅かでも救いの可能性というものが残っていて、それをうまく助長してやりさえすれば辛うじて「救い」に辿り着くことができるという、そういう次元のことではないのです。そうではなく、そのような助長すべき「救いの可能性」など皆無である。「救い」に繋がるような可能性などは1パーセントたりとも無い。私たちは例外なく神の御前にそのような「罪人のかしら」なのです。これをカルヴァンは人間の「全的堕落」(Total Depravityと言いました。ちなみにカルヴァンの、と言いますより、私たち改革長老教会の基本的教理のことをチューリップ(TURLIP)と呼びます。それは1618年のドルトレヒト信仰基準に明記されている事柄ですが、@「全的堕落」(Total Depravity)A「無条件の選び」(Unconditional Election)B「限定的贖罪」(Limited Atonement)C「不可抗力の恩恵」(Irresistible Grace)D「聖徒の堅忍」(Perseverance of the Saints))の5つの頭文字を合わせるとチューリップ(オランダの国花)になるからです。

 

 そこで、いま私たちに与えられている恵みは「この私」という言葉に自分自身の名をあてはめる幸いではないでしょうか。本来、主なる神の御前に「この私」は「全的堕落」した「救いの可能性の無い」存在でしかなかったはずです。しかしまさに「この私」のために、主は呪いの十字架にかかって死んで下さったのです。贖いとなって下さったのです。救いとなって下さったのです。ただその十字架の主の恵みによってのみ「この私」は、つまり「罪人のかしら」であり「滅びの子」であり「この最後の者」でしかない「この私」は、十字架の主の恵みによって「救われた喜びに満たされた私」しかも「その喜びは決して失われることのない者」とならせて頂いているのです。

 

 現代社会の「無明性」を的確に指摘した哲学者にハナ・アーレントという女性がいます。第二次世界大戦の悲劇を真正面から見据えつつ、アーレントは「プライベイト」という言葉に着目するのです。現代人が重んじ、喜び、目標とするものは「プライベイト」(個性、個人)が実現する社会です。プライバシーという言葉もあります。しかしアーレントが言うように、それは結局「自己実現を目的とする社会」であり「自分だけを喜ばせようとする人間の集合体」なのです。元々「プライベイト」とは「ディプライヴド」(奪われた奴隷の生活)という言葉から派生した言葉(考えかた)でした。つまり個性を重んじる現代人は、実は「奪われた奴隷の生活」へと駆り立てられた存在であり、それが第二次世界大戦の根本的原因であるというのがハナ・アーレントの主張です。「プライベイト」を追求する現代人には真の意味での「個性、個人」は無いのです。それを回復する道は、ただ真の神に立ち帰る以外にないのです。

 

 その意味で、今朝の御言葉において、本当に驚くべきことが起こっているのです。使徒パウロはローマの獄中でこのピリピ書を書きました。パウロには「個性」も「自由」も「プライバシー」さえも無かったはずです。そのパウロが今朝の1819節で「必ず喜び続けざるをえないほどの本当の喜び」に生きる者とされ、その「喜び」を苦難の中にあるピリピの教会の人々にも宣べ伝える者とされているのは、なぜなのでしょうか?。その疑問を解く鍵こそが先ほどの「わたしの救」という言葉なのです。まさにルターの言う「この私をも救う救い」であります。もし私たちが自分自身を見るならば、自分の内側には1パーセントも救いの可能性など無いのですが、まさにその「無明の荒野を行く」「この私の救」のために、神の御子イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちの無限の罪を全て贖って下さったのです。救いの可能性の1パーセントも無かった「このわたし」が100パーセント「救われた者」とされているのです。だからパウロが語る「このわたしの救」とは、まさしく「いまこの私たちの救」でもあるのです。

 

それこそが使徒パウロがピリピの教会の全ての人々に「限りない喜び」をもって宣べ伝えている福音であり、いまここに集う私たち全ての者に与えられている救いの恵みなのです。今朝の説教題を「汝の作為を主に委ねよ」としました。この「作為」とは「わざ」と読みます。旧約聖書・箴言163節の文語訳の言葉です。口語訳では「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」と訳されます。これこそ、ローマの獄中でこの手紙を書いた使徒パウロの「喜び」であり、また「祈り」そのものでもありました。事実パウロは第二テモテ書28節から10節にこう語っています。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである」。

 

 この「喜び」と「確信」の内に、パウロはいつも「自分の作為を主に委ねる」ことができました。たとえ自分の身は鎖に繋がれていても「神の言はつながれてはいない」からです。そしてパウロはこう申しています。「それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである」。この同じ恵みと幸い、そして同じ望みの中に、いまここに集う私たち一人びとりも立たせて戴いているのです。私たちもまた、パウロと共に、世々の聖徒らと共に、確信を持って語る僕とされているのです。「汝の作為を主に委ねよ、主それを成遂げたまわん」と!。祈りましょう。