説     教    エレミヤ書1519節   ピリピ書11214

           「福音の前進」 ピリピ書講解 (5)

 2019・02・10(説教19061789)

 

 ピリピ人への手紙の連続講解説教を始めて、今朝で5回目になります。この手紙はその名の示すとおり、今日のギリシヤ北東部のマケドニア州ピリピという町にあった教会に宛てて書かれたものです。ただし、その教会は私たちの葉山教会のように一つの建物にあったというのではなく、むしろピリピの町とその周辺に幾つもの集会所(家の教会)が設けられていて、日曜日の朝にはそれぞれの集会所で同時並行的に礼拝が献げられていたものと思われます。これはガラテヤ教会やエペソ教会などでも同じです。使徒パウロの伝道の形であったとも言えるでしょう。パウロはどの地方、どの町に伝道するにしても、その地方、その町全体を、伝道の拠点として捉えました。それはごく単純な理由からです。一人でも多くの人に福音を宣べ伝え、一人でも多くの人をキリストによる真の救いへと招くためです。

 

 さて、このピリピの町に使徒パウロが最初に伝道した様子について、同じ新約聖書の使徒行伝1611節以下に詳しく記されています。それによりますと、パウロは当初、ローマ帝国のアジヤ州(今日のトルコ中西部)から北上して、黒海沿岸のビテニヤ地方に伝道する予定でした。ところが港町トロアスに滞在していたある晩のこと、パウロは一つの幻を夢で与えられます。それは夢の中に一人のマケドニア人が現れて、ギリシヤ語で「どうかマドニアに来て、私たちを助けて下さい」と懇願したことでした。1610節を見ますとこのように記されています。「パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニアに渡って行くことにした」。それは西暦49年の夏のことでした。ここに「わたしたち」とあるのはパウロと同労者バルナバの2人のことです。

 

当時のピリピは「マケドニヤ地方第一の都市」と呼ばれ、ローマ帝国の植民都市として繁栄を誇っていました。パウロは新しく訪れた町に伝道する場合、必ずユダヤ人の「祈り場」を探して、そこを伝道の足掛かりにすることにしていました。それがユダヤ人でもあったパウロの伝道のスタイルでした。ローマ帝国の植民都市には必ず「ディアスポラ」と呼ばれる海外在住のユダヤ人の共同体があり、そこでは毎週土曜日に「祈り場」に人々が集まることをパウロは熟知していたわけです。ピリピの「祈り場」は今はルデヤ川とも呼ばれているガンギテス川という清らかな川の畔にありました。そこにパウロは安息日に、土曜日に参りまして、そこに集まってきた大勢のユダヤ人たちにキリストの福音を宣べ伝えたのです。実にそれがヨーロッパ大陸における福音の第一声・キリスト教伝道の事始めとなりました。つまりの日こそ、福音がエーゲ海を越えて初めてヨーロッパに宣べ伝えられた記念すべき日になったのです。

 

 さて、その日「祈り場」に集まってきた大勢のユダヤ人の中にルデヤという女性がいました。彼女はテアテラの出身であり、紫布を商う古い商家に嫁いだ婦人で、ピリピに大きな屋敷を構えて家族と共に生活していました。このルデヤがパウロの語る福音に心を開いて、最初にイエス・キリストを信じる人になりました。その日おそらく数百人、いや千人以上ものユダヤ人が「祈り場」に集まって来ていたと思われますが、その中でルデヤただ一人が「主を信ずる者」となったのです。これはとても不思議なことです。このヨーロッパ最初のキリスト者誕生の次第を、使徒行伝161415節はこのように記しています。「ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は『もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい』と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った」。この「泊まって下さい」とは「いつまでも滞在して下さい」という意味のギリシヤ語です。

 

 つまりルデヤは、ピリピの自宅にパウロとバルナバを招いて接待したばかりではなく、どうぞこの家をあなたの伝道の拠点として用いて下さい、どうかいつまでもここに滞在して、全ての人に福音を宣べ伝えて下さいと「懇望した」のでした。「しいてわたしたちをつれて行った」という言葉にもルデヤの強い意志があらわれています。パウロはルデヤの申し出を喜び受け入れて、ここにヨーロッパ大陸で最初の教会・ピリピ教会が誕生するに至ったのです。余談ですが、横須賀小川町教会の寺田信一牧師が20年ほど前に(当時は小金井西ノ台教会におられました)このピリピを訪ねる機会を得ました。寺田牧師は私の10年後輩にあたるかたです。それで私は寺田牧師にそれこそ「懇望」しまして、君がピリピに行ったなら、ぜひルデヤ川の川底の石を一つ拾ってきてほしいとお願いをしましたところ、寺田先生は5つほども拾ってきてお土産にして下さいました。真白な美しい大理石の小石です。私はそれを見るたびにルデヤの信仰と献身を偲ばしめられているのです。

 

 そこで今朝、私たちに与えられたピリピ書112節から14節の御言葉を、改めてお読みしましょう。「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった」。

 

 パウロはこの手紙を西暦60年頃、つまりルデヤとその家族に洗礼を授けてから約11年後に「獄中」で認(したた)めました。ピリピ書、エペソ書、ピレモン書、コロサイ書の4つの手紙をパウロの「獄中書簡」と呼ぶのは、それらがみな牢獄において書かれた手紙だからです。そればかりではありません、ピリピ教会の人々にとって、パウロの伝道はその最初から投獄の苦難と一つのものでした。なぜなら使徒行伝1625節以下が語っているように、パウロはこのピリピにおいても投獄されているからです。そこを読んでみましょう。使徒行伝1625節から35節までのところです。「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。ところが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。獄吏は目をさまし、獄の戸が開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出したものと思い、つるぎを抜いて自殺しかけた。そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」。

 

 ここで何が起こったのでしょうか?。ひと言で申しますなら、この世で最も悲惨な場所であったはずの「牢獄」が、パウロの伝道によって「天国の門」に、つまり「主の御身体なる教会」に変えられたのです。だから囚人たちは一人も逃げなかったのです。逆に、いつまでもそこに滞在してパウロから神の御言葉を聴きたいと願ったのです。その信じられない出来事を目の当たりにして、獄吏までもが回心して主を信じる者とされました。すなわち「その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」のでした。このようにしてピリピ教会の基礎が徐々に固められてゆきました。こうした数多くの苦難の中で生まれ、鍛えられていったピリピ教会でしたから、伝道者パウロと教会員を結ぶ絆は非常に強いものがあったのです。それは人間的な絆などではなく、キリストの恵みによる絆、つまり7節の御言葉で申しますなら「共に恵みにあずかる者」同士のキリスト者の絆です。

 

 この「キリスト者の絆」について、カール・バルトは軍艦の例えを用いて説明しています。軍艦の中にはいろいろな人間がいるわけです。紳士もおれば荒くれ者もおる。教養ある者もおれば無教養な者もおる。素直な者もおれば奔放な者もおる。仲の良い者もおれば仲の悪い者もおる。人間ですから当然です。しかしひとたび戦闘(海戦)になれば「皆が一致団結して勝利のために戦う」ではないかとバルトは語るのです。キリストの御身体なる教会もそれと同じ、いやそれ以上であらねばならないとバルトは語っています。逆に言うなら、教会の中で我儘に振舞う人がいたり、ごたごたと揉め事が起こるのは、その人が「真に戦うべき相手を見据えていないからだ」とバルトは言うのです。もっと言うなら「勝利して下さった主イエス・キリストを見据えていないから」なのです。ようするに「神の言葉に従って生きていないとき、私たち人間は無限に分裂し仲違いするほかはない」のです。私たちはどうでしょうか?。いつも「神の言葉に従って生きる」キリストの御身体なる教会の教会員として歩んでいるでしょうか?。大牧者なるイエス・キリストの指揮系統に従順な僕となっているでしょうか?。

 

 先ほどの7節の「共に恵みにあずかる者」という言葉を、ラグランジュというフランス改革派教会の神学者が「恵みの仲間」と訳しています。これは素晴らしい訳語です。私たちはよく教会の中で互いに「兄弟姉妹」という呼びかたをします。しかし改めてどのような意味で「兄弟姉妹」なのかと問われるなら曖昧になってしまう私たちなのではないでしょうか。「みな兄弟姉妹なのだから互いに仲良くしましょう」という団体に過ぎませんと、それはこの世の親睦会(仲良しクラブ)と同じになってしまいます。しかしラグランジュが言うように「恵みの仲間」であるなら意味は大きく違います。私たちを結ぶ絆はキリストの復活の生命に与かる者どうしの絆なのです。まさにそこから12節の「福音の前進」という言葉が出てきます。今朝の12節以下を改めて読みましょう。「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった」。

 

 ここで「福音の前進」と言っても、当のパウロは牢獄に囚われの身になっていたはずです。いわばこの世的な意味においては「福音の前進」どころか「福音の後退」という現実しかなかったはずです。しかしパウロはローマの獄中において喜びと感謝をもって、愛するピリピの教会の人々に「福音の前進」を報告しているのです。それはどのようなことかと申しますと今朝の13節です。すなわち「わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかに」なったという事実です。この「兵営全体」という言葉は元々のギリシヤ語ではローメーという名詞なのですが、実はこれは「ローマ全体」とも訳すことができる言葉です。むしろそのように訳すべきだと、先ほどのラグランジュなどは申しています。そうしますと13節はこのよう意味になります。「主にある“恵みの仲間”であるピリピの人たちよ、どうか私と共に喜んで下さい。なぜなら、私が牢獄に囚われの身になったことにより、いまやローマ全体に福音が宣べ伝えられるようになったからです」。

 

 私たちも、同じ恵みの内を歩むキリストの僕とされていることを感謝したいと思います。生きるにも死ぬにも、ただ神の御栄のみを顕す葉山教会員として、まさに「恵みの仲間」として、新しい一週間をも歩んで参りたいと思います。主はまさに私たちのこの群れを通して、この葉山の地全体に救いの御業を現して下さるのです。祈りましょう。