説     教     詩篇8611節   ピリピ書1911

           「純真なる信仰」 ピリピ書講解 (4)

 2019・02・03(説教19051788)

 

 今朝のピリピ書19節以下に記されているのは、ピリピの教会に対する使徒パウロの熱き祈りです。私たちはピリピ書の連続講解説教に入ってまだ4回目ですが、既にこれまで読んで参りました8節までの御言葉の中にも、パウロがどんなに深い主にある真実をもって、日々ピリピの教会を憶えて祈っているかが改めて示されて参りました。パウロにとって、教会を憶えて祈ることほど大きな喜びはありませんでした。それは、主イエスがご自身の生命をもって贖い取って下さった主の教会の確かさ、即ち、キリストの救いの確かさの中にある兄弟姉妹たちを憶えて祈ることだったからです。私たちの救いの確かさは、私たち自身の行いの義にあるのではなく、ただ十字架の主イエス・キリストの御業の中にあるからです。

 

 1560年のことです。スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスがエディンバラにおいてスコットランド長老教会(後のスコットランド国教会)の第一回目の大会(ゼネラル・シノッド)を招集しました。そのとき全スコットランドから集まった議員たちは牧師6名、長老36名、わずか42名での教会会議にすぎませんでした。しかその会議においてノックスが草案を準備した「スコットランド信条」が満場一致で採択され、同時に教会規定(ブック・オヴ・ディシプリン)の作成が決議されました。信仰告白という堅固な土台の上に、具体的な教会の制度組織を、見えざる公同の教会の歴史における「キリストの身体」として、主の御心に沿って形成することを決議したのです。私たち葉山教会もその伝統を受け継いでいます。

 

 さて、この「スコットランド信条」はたいへん長いものでして、本のページにすると20ページほどの分量になります。その中の第16条「教会について」という項目の中に「我々は信仰深き両親のゆえに、その子供たちを理解する」という一文が出て参ります。原文はラテン語であり、それこそ唐突に出てくる言葉ですので、あまり注目されることはなかったのですが、私はこれこそ「スコットランド信条」全体を理解する大切なキーワードであり、延いては私たちの教会の本質を的確に現した言葉だと思っています。「我々は信仰深き両親のゆえに、その子供たちを理解する」。この場合の「子供たち」とは私たちのことです。主の御身体なる教会に連なって生きる具体的なキリスト者の姿です。そして「信仰深き両親」とは、父なる神と、母なる教会のことをさしています。最後に「理解する」と訳された元々のラテン語は“コンプレクトール”(complector)という言葉です。これは英語で言う“コンプリヘンド”つまり「メンバーとみなす」という意味です。それが「理解する」(complector)の意味です。

 

そこで思い起こすのは、宗教改革者カルヴァンの言葉「我々は、教会を母として持つのでなければ、神を父として持つことはできない」です。「母なる教会」に結ばれてのみ、はじめて私たちは神を「わが父なる神」と呼び告白することができるのです。たとえある人がどんなに「自分は神を信じている」と言ったとしても「母なる教会」に結ばれて礼拝生活をしていないのなら、その人の信仰は独りよがりの幻想にすぎません。それとは逆に、たとえ私たちがどんなに「私はダメなキリスト者だ」と自分を嘆いていても、その私たちが「母なる教会」に結ばれて礼拝者として生きるのなら、それこそスコットランド信条が語るように「我々は信仰深き両親のゆえに、その子供たちを理解する」のです。つまり「私たちは自分の遺子や力のゆえにではなく、ただ父なる神と母なる教会という“信仰深き両親のゆえに”この教会に連なり礼拝を献げる全ての人を“御国の民”メンバーと見做す」喜びと幸いを与えられているのです。私たちの救いは私たちの中にあるのではなく、ただ主イエス・キリストの中にのみあるからです。

 

 そこで今朝の御言葉です。今朝の9節から11節にこのようにありました。「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストの義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように」。

 

 ここでポイントになる言葉は10節に出てくる「純真」という言葉です。この後の48節にも「すべて純真なること」という表現で出て参ります。私たちの教会と関係が深い東京女子大学の校訓にもなっている言葉です。ギリシヤ語では「アケライオス」という言葉なのですが、その元々の意味は「混ざりものがない」とか「夾雑物がない」とか「純粋である」という意味の言葉です。禅の言葉に「常行一直心」(つねにいちじきしんをぎょうず)というものがありますが、それと似ていますね。そこで、私たちの信仰生活にも、この「純真なること」が大切なのではないでしょうか。いろいろな「混ざりもの」や「夾雑物」が入りこみますと、私たちの信仰生活は、それこそ9節が語る「何が重要であるかを判別」する力を失ってしまうからです。それこそスコットランド信条の先ほどの言葉で申しますなら「我々は信仰深き両親のゆえに、その子供たちを理解する」幸いを失ってしまうのです。

 

 「父なる神」と「母なる教会」という「信仰深き両親」を失った、根無し草のような疑似信仰生活(似非信仰生活)に陥ってしまうのです。いつも自分の足元ばかりを見つめ、他人の顔色ばかりを気にして、教会や他者の批判ばかりする、それこそ「3つのばかりごとに囚われた」似非信仰生活に陥ってしまうのです。ピリピの教会は決して理想的な教会ではなく、むしろたくさんの問題点がありましたが、その第一はこの「純真さ」を失った(失いつつあった)ことにありました。私たちの信仰生活はやはり「常行一直心」であらねばなりません。道元禅師の言葉で申しますなら「御言三昧・只管礼拝」であらねばなりません。「父なる神・母なる教会」に堅く捕らえられた信仰生活であらねばなりません。自分の足元ではなく、ただキリストのみを見つめ、他人の顔色ではなく、ただ神の栄光を顕わさんことを務め、教会や他者の批判をするのではなく、感謝と喜びをもって礼拝第一の生活をする、そのような私たちであらねばならないと思います。

 

 そのような「純真な」信仰生活に励むとき、主は私たちにどのような幸いを与えて下さるのでしょうか?。それこそ今朝の10節が語る「何が重要であるかを判別することができる」幸いなのです。教会は昔から歴史の大海を航海する一艘の船に譬えられてきました。目指す港は永遠の御国(神の国)です。しかし航海は順風満帆な日ばかりではありません。私たちの教会を容赦なく歴史の嵐が襲います。罪の暗礁に乗り上げてしまう危険もあります。そのような数々の試練を乗り越えて、目指す永遠の御国に到達するためには、行くべき方向を誤らない「判別」が重要なのです。船で言うなら羅針盤が大切なのです。その羅針盤こそ神の御言葉です。御言葉に絶えず豊かに与かり、御言葉によって養われ、成長してゆく喜びと幸いが、いつも私たちの教会に漲り溢れていることが大切です。

 

 そのような、ただ御言葉に導かれる船、そのような主の忠実な群れとして、大牧者なる主イエス・キリストの導くままに、歴史の大海を進んでゆく私たちの教会であることを、歴史の救い主なる神が求めておられるのです。そこに夾雑物があってはならないのです。キリストが船長であることを忘れて、あるいは無視して、自分が船の航路を決めるようなことがあってはならないのです。いつも「何が重要であるかを判別することができる」私たち葉山教会でありたいと思います。アメリカの神学者ラインホルト・二―バーの祈りを紹介しましょう。「神よ、変えることのできる事柄については、それを変える勇気を我らに与えたまえ。変えることのできない事柄については、それを受け入れる冷静さを与えたまえ。しかして、変えることのできる事柄と、変えることのできない事柄とを、判別する知恵を我らに与えたまえ」。

 

 最後に、今朝のピリピ書19節から11節をもういちどお読みし、最後に第一コリント書18節を心に留めて終わりたいと思います。「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように」。

 

 「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう」。祈りましょう。