説     教   伝道の書3章11節  ヨハネ福音書7章32〜36節

「時と永遠」
2019・01・06(説教19011784)

 新しい主の年・聖暦2019年最初の主日礼拝を共に迎える幸いを与えられました。歴史の主なる神の
御名を讃美し、この新しい一年も、信仰の生活に励んでゆく私たちでありたいと思います。

 この最初の主日礼拝に、私たちはヨハネ伝7章32節以下の御言葉を与えられました。ここには「時
と永遠」の関係が示されています。この「時」とは私たちの世界であり、そして「永遠」とは主イエス・
キリストのことです。かつて、波多野精一という哲学者が、今日の説教題と同じタイトルの宗教哲学の
本を著しました。しかし今日の説教はもちろん、それに因むものではありません。「時と永遠」とは私た
ちにとって、哲学の問題などではなく、福音の真理の告知だからです。人生の知識の問題ではなく、私
たち全ての者を救うキリストの福音の訪れだからです。ですから繰り返して申しますが「時」とは私た
ちのこと、そして「永遠」とは主イエス・キリストのことなのです。ですからこの「時と永遠」とは「私
たちと主イエス・キリスト」と言い換えることができます。神は永遠なるかたであり、御子イエス・キ
リストも同様です。それに対して、私たちは時間に属するものであり、時間の中にのみ存在しうる有限
者です。ここに両者の決定的な違いがあります。さらに言うなら、主なる神は時間などなくても存在す
るかたです。神は時間の創造主であられるからです。主なる神が「光あれ」と仰せになったとき、そこ
に「時」が、歴史の世界が、形づくられました。神のなさる壮大な救いの歴史が、時間によってこの世
界に始められたのです。
 
 すると、どういうことになるのでしょうか。神が「時」をお造りになったということは、この2019
年という新たなる「時」もまた神の「時」であるということです。主イエス・キリストはこの新しい「時」
の主でもあられるのです。この当然のことを改めて私たちは思わしめられるのです。もともと哲学の世
界では「時と永遠」という2つのものは全然別個の相容れぬ対立概念にすぎません。「時」と「永遠」
は対極にあるものです。しかし聖書はその両者が、神の御子イエス・キリストによって一つのものにな
ったという驚くべき音信を私たちに告げるのです。それは、主イエス・キリストが私たちのただ中にお
生まれになったクリスマスの出来事です。主が人となられて私たちの「内に宿られた」出来事です。た
だ「時」の中でのみ存在しうる私たちを救うために、「時」がなくても存在しうる全能者なる神が、「時」
の中でのみ存在することをお選び下さり、世界の最も低いところにお生まれになったのです。それがク
リスマスの出来事です。

 そのことを、最も真剣に考え、慰めに満ちた数々の説教を遺した人に、あのニカイア信条を起草した
アタナシウスがいます。アタナシウスによれば、時と永遠がキリストによって一つになったという事実
の内に、私たちの完全な救いが約束されているのです。キリストによって「永遠」が「時」の中に突入
したのです。私たちの罪のただ中に神の恵みの真実が現れたのです。救いなどあり得ないところに真の
救いがもたらされたのです。それがアタナシウスの見た、聖書の語る「時と永遠」の関係です。

 さて、そこで今朝の御言葉・ヨハネ伝7章33節です。ここに主イエスは、祭司長やパリサイ人たち
にお答えになってこう言われました。「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、
わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけるこ
とはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。

 この当時のユダヤの人々にとって「祭司長たちやパリサイ人たち」というのは、必ず救われるべき人々
でした。「パリサイ」とは「聖別された」という意味の言葉です。彼らは自分たちこそ神によって聖別さ
れた特別な者たちであり、世の終わりに救いに入れられる者は自分たちだけだと考えていました。「祭司
長たち」も同じように思い、民衆もまたそのように信じていたのです。その自惚れ高き彼らに対して、
主イエスははっきりと「あなたがたは……わたしのいる所に、来ることはできない」と言われたのです。
しかもその「わたしのいる所」とは、永遠なる父なる神の御許です。つまり「あなたがたは神と共にあ
る聖別された人々ではない」と宣言されたのです。この御言葉を正しく聴くならば「祭司長たちやパリ
サイ人たち」はみな真実に悔改め、自分の義に拠り頼むことをやめて、キリストによる神の義を戴く者
へと生まれ変わらねばならなかったはずです。それなのに、彼らは悔改めるどころか、いっそうの憎し
みと恨みを主イエスに抱くようになりました。ここに、パリサイ人らの主イエスに対する憎しみと殺意
は決定的なものになったと言えるでしょう。

 言い換えるなら「時」は「永遠」を理解することができなかったのです。このヨハネ伝冒頭の1章10
節に記されたとおりのことが起こったのです。「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのである
が、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」。これこ
そ、主イエス・キリストの御生涯でした。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなか
った」。そして「闇は光を理解しなかった」のです。「時」は「永遠」を「理解」しえなかったのです。
それが私たち人間の現実なのです。顧みてそれは、主のご聖誕から二千年以上を経た今日の私たちの世
界の現実でもあると言わざるをえないのです。昨年一年間をあらわす文字は、京都の清水寺の官長さん
が書きましたが「災」でした。この「災」という字は、実は人災のことなのです。人々が家に火を放ち、
燃え上がる炎を見て熱狂しているさまを現わすと言われています。まさにそのような「災」に満ちた世
界に、時の流れの中に、私たちは今もなおあり続けているのではないでしょうか。二千年前、あのベツ
レヘムの馬小屋を覆っていたよりも、もっと暗く深い「災」という闇が、今日の私たちの世界を覆って
いるのではないでしょうか。

 しかも、その「災」を生み出している根本原因は「すべての人を照すまことの光」として世に来られ
た主イエス・キリストを信じないで、自分の義に拠り頼もうとする私たち人間の不信仰の罪であると、
今朝の聖書は告げているのです。病気の治療には対症療法と根本治療の2つの治療があります。対症療
法とは、表面に現れた症状をとりあえず和らげることです。たとえば、痛みがあるのなら薬を用いて痛
みを和らげることです。しかしそれだけでは本当の治療にはなりません。病気の本当の治療は根本治療
によるほかはないのです。単に痛みを抑えるだけではなく、その痛みの原因である病根を治療しなけれ
ば本当の治療とはならないのです。私たちのこの世界も同じです。相対的・歴史的・時間的な対症療法
も大切ですが、それ以上に、絶対的、根本的、永遠的な根本治療が、この世界には必要なのです。それ
は真の神に対する私たちの「罪」の問題の解決です。森有正という哲学者は、二十一世紀の世界におけ
る最重要課題は人間の「罪」の問題であると語っています。そしてこの「最重要課題」ほど軽んじられ
ているものはないと語っています。そのことと、今朝の御言葉の祭司長、パリサイ人、そして群衆の姿
とは、重なってくるのではないでしょうか。それこそ、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。

 神がお与えになった根本治療を蔑み、自分のさかしまな知恵による対症療法のみにあくせくとすると
き、私たちはいよいよ時間の泥沼に落ちこんでゆきます。そして他者を審き、おのれをも審き、絶望の
深みに落ちてゆきます。今朝の伝道の書3章11節に告げられているように、神は私たちに「永遠を思
う思いを授けられ」ました。しかし同時に「それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで
見きわめることはできない」のです。神は私たちに「永遠を思う思いを授け」たまいました。この「思
う」とは「求める」という意味のヘブライ語です。そして「永遠」とは、先にも申しましたように主イ
エス・キリストのことです。ですから「永遠を思う思い」とはすなわち「イエス・キリストを求める思
い」のこと、つまり「信仰」のことなのです。私たち人間は誰でも例外なく、真の救い主、イエス・キ
リストを求めている存在なのです。それに気がつかないでいるだけなのです。ゼーデルブロームという
スウェーデンの宗教学者は「世界の歴史は真の神を求める人類の魂の旅路である」と語りました。「時」
すなわち歴史は「永遠」を求める旅路なのです。そして、その「永遠」こそ主イエス・キリストなので
す。さらに、キリストは、歴史の初めであるばかりでなく、その目的であり到達点であります。旅路に
は必ず目的があります。目的地のない旅は放浪であって、もはや旅ではありません。

 私たちは、主イエス・キリストを救い主と信じ告白して、教会に連なることによってのみ、自分の人
生が、もはや放浪ではなく、真の到達点を持つ旅路であることを知る者とされるのです。その到達点こ
そイエス・キリストご自身です。キリストを信じ、神の言葉によって歩むとき、私たちの歴史の歩みは
そのまま「天に国籍を持つ者たちの歩み」になるのです。その私たちを、もはや罪も死も支配すること
はできません。罪と死は「時」だけを支配するのであって「永遠」は支配しえないからです。キリスト
という「永遠」が私たちの「時」に、すなわち罪の支配するこの世界に突入し、そこで私たちの罪を贖
いたもうたのですから、もはや罪の闇は私たちを支配なしえず、キリストの主権のみが、キリストの真
実のみが、私たちの人生を照らす導き手なのです。まさにそのような者として、私たちは主の御身体な
る教会に連ならしめられているのです。

 何のいさおも、資格もなきままに、ただキリストの恵みによってここに連なる私たちは、主イエスを
私たちの世界にお遣わしになった主なる神のみもとに、主イエスと共に、永遠に「国籍」ある者とされ
ているのです。そのことを主は「わたしのおる所にあなたがたもおらせるために」と言われました。「あ
なたがたのために場所を用意するために」自分は十字架にかかるのだと言われました。同じヨハネ伝14
章です。求めても捜しても神と共にはあり得ない私たちを、その罪の支配から解放して溢れる恵みの支
配に移して下さるために、主は十字架にかかって永遠の贖いとなって下さいました。そして「わたしは
道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」
と言われ、父なる神とご自分とが永遠に一つであるように、私たちをも一つとなすために、私たちを主
の御身体なる教会に招いて下さいました。同じヨハネ伝17章25節以下に記された、主イエスの、十字
架を目前として、弟子たちのために献げられた祈りの、終わりの御言葉を聴きましょう。

 「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あ
なたがわたしをおつかわしになったことを知っています。そしてわたしは彼らに御名を知らせました。
またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、
またわたしも彼らのうちにおるためであります」。祈りましょう。