説     教    箴言1章33節   ヨハネ福音書13章36〜38節

「主よ何処に」
2018・12・30(説教18531783)

 「シモン・ペテロがイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのですか』。イエスは答えられた『あ
なたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来
ることになろう』」。今朝お読みしたヨハネ伝13章36節の御言葉です。この「主よ、どこへおいでにな
るのですか」という問いはペテロだけのものではありませんでした。他の弟子たちもみな、主イエスが
「どこへ」行こうとしておられるのか、大きな不安を感じていたのです。

 主イエスのためなら“たとえ火の中水の中”とも覚悟を決めていた弟子たちです。あまつさえ、パリ
サイ人らによる主イエス殺害の計画が現実化していた時でした。イスカリオテのユダが主イエスを裏切
り、最後の晩餐の席から立ち去るという衝撃的な出来事も目の当たりにしていました。そうした不穏な
騒動の渦中にあった弟子たちにとって、主イエスに最後までお従いして、死をも覚悟せんとする思いが
生じたのは義侠心によるものでした。事実シモン・ペテロはその義侠心から、敢えて主イエスに「どこ
へおいでになるのですか」とお訊ねしたのです。あなたが行かれる所ならどにでもお供しますと申し上
げたのです。しかし主イエスの返事は意外なものでした。「あなたは、わたしの行くところに、今はつい
て来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。

 この主イエスの返事に、弟子たちはみな色めき立ったことでした。「なぜ今は駄目なのですか?」と思
ったのです。「私たちの義侠心がそんなに信用できないのですか?」と言いたかったのです。だからこそ
ペテロは、そうした弟子たちの憤慨を代表するかのように気色ばんで言いました。37節です。「主よ、
なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。他の福音書
を見ますと、このとき他の弟子たちもみな「同じように語った」と記されています。異様な熱気と興奮
が弟子たちを支配していたのです。

 まさに、その熱気と興奮に水をさすかのように、主イエスは静かに決然とお答えになりました。「わた
しのために命を捨てると言うのか。よく、よく、あなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたし
を三度知らないと言うであろう」。実はこのとき弟子たちは「わがために命を捨つると申すか。われまこ
とに善き忠実な弟子を得たり!」というお答えを期待していたのです。ところが主イエスは、愛する弟
子たちにはっきりとお告げになる。「よく、よく、あなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたし
を三度知らないと言うであろう」。これはペテロだけではなく、全ての弟子たちに、そして私たち一人び
とりに仰せになったことです。「鶏が鳴く前に」とは「夜が明ける前に」という意味です。つまり「その
日のうちに」という意味です。「あなたのためには命も捨てます」と語ったその舌の根も乾かぬ内に「あ
なたは、わたしを三度、知らないと言うであろう」と、主イエスは私たちに言われるのです。

 この主イエスの御言葉は、現実のものとなりました。ペテロはまさにその日、主イエスの十字架刑の
裁判が行なわれた大祭司カヤパの家の中庭で、暁を告げる鶏が鳴く前に主イエスのことを3度「知らな
い」と言い、主イエスとの係わりを全面否認したからです。自分はあのような死刑囚とは何の関係もな
いと、主イエスの弟子であることをはっきりと否定したのです。そしてペテロが3度目に、神に誓って
主イエスを「知らない」と宣言したその直後に「鶏が鳴いた」とヨハネ伝18章27節は記しています。
これはどういうことなのでしょうか?。そもそもなぜ、弟子たちは主イエスを裏切ったのでしょうか?。
死ぬ覚悟でさえいた弟子たちが、なぜ十字架を目前にして逃げてしまったのでしょうか?。それは、主
イエスがお受けになったのが、十字架の刑だったからです。

 旧約聖書・申命記21章に「木にかけられた者は神に呪われた者である」と記されています。この「木」
とは十字架のことです。つまり十字架は古代イスラエルにおいて、神に見棄てられた、全く救いの余地
のない最悪の罪人の行き着く、決定的な処刑の方法でした。神は慈しみ深いかたであるから、いかなる
罪人をも憐れんで下さる。しかし十字架にかけられた者「木にかけられた者」に対しては、神の憐れみ
さえもはや及ばないと考えられていたのです。つまり十字架にかけられるということは「神に棄てられ
た永遠の死」を意味したのです。弟子たちは日々主イエスと寝食を共にし、御言葉と御業に接すること
によって、主イエスが神の子であると信じていました。イスラエルを救うかたは主イエスのほかにない
と確信していました。しかし、弟子たちが神の子と信じお従いしたそのイエスは、なんとポンテオ・ピ
ラトのもとで不当な裁判にかけられ、大祭司カヤパによって十字架刑の判決を下され、ついにゴルゴタ
の処刑場で無残な死を遂げることになった。これは弟子たちにとって驚天動地の、信仰を揺るがす出来
事だったのです。

 弟子たちにとっては、否、全ての人にとって、神の御子と十字架ほど「相容れぬもの」はないのです。
神の御子は永遠の生命を与えるかた、十字架は永遠の死のしるしです。それならば、永遠の生命を与え
る神の子イエスが、永遠の死である十字架にかけられることは、全く考えられない矛盾でした。つまり
弟子たちは、主イエスが十字架にかけられたことは、主イエスがキリスト(救い主)ではないことの何
よりも確かな証拠だと思ったのです。このことをルターは「隠されたる神」(Deus absconditus)と言
っています。ペテロが主イエスの御名を3度も拒んだのも、この「隠されたる神」に躓いたのです。他
の弟子たちもみな同じでした。弟子たちがみな、主イエスを見捨てて逃げたのは、死ぬのが怖かったか
らというよりも、主イエスがキリスト(救い主)ではないと思ったからです。信仰が揺らいだからです。
弟子たちにとって主イエスはイスラエルの王として君臨すべきかたでした。しかし結果は「永遠の死」
の象徴である十字架刑であった。「神の御子が十字架にかけられるなど絶対にありえない」これが弟子た
ちに共通した思いでした。その「ありえない」ことが現実になったとき、弟子たちの信仰が揺らいだの
です。死ぬのが怖かったのではなく、主イエスへの信仰が揺らいだのです。

 そこで、いま私たち一人びとりに問われています。私たちはそれほどの大きな事として、主イエスの
十字架を直視していたでしょうか?。私たちの信仰が問われるほどの躓きの石として、十字架の出来事
を見つめていたでしょうか?。もしそうではないならば、私たちもまた今朝の弟子たちと同じように「鶏
が鳴く前に(主イエスを)三度知らないと言う」者の仲間なのです。私たちは主イエスを信じていると
今は思っているかもしれない。しかしひとたび試練の嵐にさらされるや否や、私たちの信仰は脆くも風
にそよぐ葦のように揺らいでしまうことはないでしょうか。

 使徒パウロはコリントの教会に対して、自分は「十字架にかけられたまいしキリストの福音」以外は
決して宣べ伝えないことを「堅く心に定めたり」と語りました。それは十字架のキリストの福音ではな
い「異なる福音」がコリントの教会に蔓延していたからです。コリントの教会の中に、信仰ではなく人
間の業や経験を重んじ、キリストではなく知識や功績を誇り、教会生活ではなく豊かで安定した生活を
求め、しかも自分は「キリストを信じている」と語っていた現実があったからです。信仰生活がアクセ
サリーのようになっていたからです。私たちも同じようになっていることはないでしょうか?。嬉しい
ことや楽しいことがある間は熱心に教会に通う、しかしひとたび、辛いこと、嫌なこと、苦しいことが
あると、礼拝を欠席し、やがて教会から離れてしまう、そのような私たちになってはいないでしょうか?。

 私たちはいま健やかに「十字架のキリストの福音」に堅く立つ群れになっているでしょうか?。それ
は、十字架やキリストに関する知識を持つことではありません。そうではなく、十字架のキリストにの
み、この自分の罪の贖いと救いの全てがあることを堅く信ずる者になることです。わが身を顧みず、た
だキリストの招きの御声に従う者になることです。世の何物にもまして、生命を与える御言葉(福音)
を慕い求める者になることです。聖霊と神の真実とによる、真の礼拝者として生きることです。条件ぬ
きの、理屈ぬきの、自己中心ではない、キリスト中心の信仰生活をすることです。私たちはいま、その
ような群れになっているでしょうか。

 主イエスは言われました。「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、
あとになってから、ついて来ることになろう」と!。この大いなる主の約束はペテロの人生に成就しま
した。すなわち、カヤパの中庭で主の御名を3度も拒んだペテロは、暁を告げる鶏鳴によって、眠って
いた魂を揺り起こされたのです。ルカ福音書を見ますと、そのときペテロは「きょう鶏が鳴く前に、あ
なたはわたしを三度、知らないと言うであろう」と言われた主イエスの御言葉を思い起こし、そして「外
に出て、激しく泣いた」と記されています。大切なことは、このときペテロは「主イエスの御言葉を思
い起こし」て泣いたと記されていることです。ペテロにとって真実の悔改めは「主イエスの御言葉を思
い起こす」ことでした。それは、私たちにとっても同じではないでしょうか。ペテロの魂は粉々に砕け
ました。しかしその砕けた魂の全てを、神は御手に受け止めて下さいました。私たちの救いはただ神に
のみあるのです。
 
 それ以降のペテロは、もはや自分自身の強さや知識によってではなく、キリストの限りない愛と恵み
の御力によって生きる者になりました。神の御子と相容れぬものであるはずの十字架が、実は自分の罪
の贖いのための十字架であることを知ったとき、ペテロは本当のキリスト者へと成長してゆきました。
十字架の死、それは永遠の死です。それならば、神の御子キリストみずから私たち罪人のために、その
永遠の滅びである十字架の死を、私たちの身代わりとして担い取って下さったのです。そこにのみ、私
たちの永遠の救いがあるのです。十字架のキリストにのみ、全ての人間の真の自由と幸い、平和と幸い、
救いと喜びがあるのです。

 ドイツの教会、特にプロテスタント教会に参りますと、教会の塔の上には、十字架ではなく風見鶏が
置かれていることに気がつきます。それはまさに今朝の御言葉に基づいているのです。ドイツの教会で
塔の先端に鶏を置くことは、ここに全ての人に告げられた救いの出来事があることを明確に示すためで
す。ペテロの魂は砕かれました。しかしそれは十字架のキリストの御言葉によって、十字架のキリスト
の愛と恵みの御手へと砕かれたのです。そしてペテロは、まさにその砕かれた魂を通して全世界の人々
に「ここに全ての人の救いの出来事がある」ことを宣べ伝える者になったのです。ペテロという名は「岩」
という意味ですが、その「岩」は「千歳の岩」すなわち十字架のキリストである!。このことを明確に
したのです。
 
  そして主は約束して下さいます。「われはこの岩の上に、わが教会を建てん」と!。私たちもまた、
この「千歳の岩」なるキリストの主権のもとに、いつも、永遠に、連ならしめられているのです。そこ
に、私たちの尽きぬ喜びがあります。世界の救いのために、御子をも惜しまで与えて下さったお方の、
測り知れない愛が、私たち一人びとりに注がれています。ペテロが、そして全ての弟子たちが、その愛
によって新たにされ、勇気と慰めとに満たされて、世の旅路へと出ていったように、私たちもまた、新
しい一週の旅路へと、新たなる2019年の信仰の歩みへと、十字架のキリストの御力と恵みによって、
送り出されてゆくのです。祈りましょう。