説    教    イザヤ書7章14節  ルカ福音書2章1〜7節

「神われらと共に」 2018年聖夜礼拝
2018・12・24(説教18521782)

 あと数日で2018年も暮れようとしている今日、私たちは改めて、この一年も、私たち人間
のエゴイズムが世界を混乱させた一年であったことを痛感せずにおれません。京都の清水寺で
毎年「今年の漢字」を発表しますが、今年の字はなんと「災」であったそうです。元々「災」
という字は、人々が火をつけて熱狂している姿を現しています。私たち人間は自分のエゴイズ
ムによって世の中にいろいろな「災」を引き起こし、しかもそれによって熱狂している存在な
のではないでしょうか。エゴイズムの“エゴ”とはギリシヤ語で「おのれ」を意味します。エ
ゴイズムとは文字どおり「おのれ」が世界の中心になろうとすることです。

 自分とは異なるもの、自分とは異質な、相容れないものを、その異質なるがゆえにこそ尊重
し、大切にし、互いに尊敬して受け容れ合う、そのような理解と寛容は簡単なことではありま
せんが、この寛容の心を今日ほど社会が必要としている時代はありません。現代は“異文化多
様性”の時代であり、その多様性こそが実は世界の本当の豊かさであり人類共通の宝なのです。
そしてその“異文化多様性”という豊かな宝を混乱と争いの「災」に変えてしまう、その根本
原因を聖書は人間の「罪」であると語ります。聖書の語る「罪」とはひとことで言えば“おの
れを神とすること”です。自分が神になろうとする自己中心の心です。そして他を支配しよう
とするのです。神が求めたもう寛容の心に反して、憎しみと審きが生れます。憎しみと審きは
報復を生み出し、報復は新しい「災」を生み出します。今日の世界は「災の連鎖反応」を起こ
しているのではないでしょうか。

 私たちの主イエス・キリストは、まさにそのような「災」の世界のただ中にお生まれになり
ました。今から2018年前、ユダヤのベツレヘムの村はずれの馬小屋に、主はお生まれになり
ました。その馬小屋を、果てしなく暗い夜の闇が覆っていました。その闇は単なる夜の闇では
なく、私たち人間の「罪」の暗黒です。まさに「災」がもたらす暗黒のこの世界のただ中に、
神の御子イエス・キリストはお生まれになったのです。さきほどご一緒にお読みした聖書の御
言葉、ルカによる福音書2章1節から7節に、主イエス・キリスト御降誕の様子が告げられて
いました。時のローマ皇帝アウグストの乱暴な命令によって、ヨセフは「いいなづけの妻マリ
ヤ」を伴い、ガリラヤのナザレから遠く離れた本籍地、ユダヤのベツレヘムまで旅をしなけれ
ばなりませんでした。しかも苦難の末ようやく着いたベツレヘムには、彼らの居場所はなかっ
たのです。2章7節には「客間には彼らのいる余地がなかったからである」と書いてあります。
まさにその「余地なきところ」で、主イエスはお生まれになったのでした。クリスマスは「余
地なきところ」にお生まれ下さった神の子イエス・キリストの御降誕の日」なのです。

 「客間には彼らのいる余地がなかった」。この御言葉は同時に、今日まで続く、私たち人間の
「災」の罪の姿を現しているのではないでしょうか。私たちこそ、主イエスの御降誕をお迎え
するのに、どこにも「余地」のない「度しがたき衆生」とも言える存在なのではないか。祝福
を持ちえない存在なのではないでしょうか。しかし、まさにそのような私たちのもとに、その
ような「余地なき」私たちの「災」の現実のただ中に、御子イエス・キリストはお生まれ下さ
いました。それがクリスマスの出来事なのです。その私たちに、天使ははっきりと告げていま
す。あなたたち全ての者の救いのためにお生まれになった、この神の御子は「インマヌエルと
となえられる」と!。イエス・キリストの別名を「インマヌエル」と言うのです。この「イン
マヌエル」とはヘブライ語で「神われらと共にいます」という意味です。

 「神われらと共にいます」。この福音の告知こそ、いま私たち全ての者に与えられている神か
らの大いなる祝福です。「災」のない清らかな完全な世界にではなく、まさに「災」に満ち溢れ
たこの現実の世界のただ中に、いつも私たちと共にいて下さるために、御子イエス・キリスト
は「余地なきところ」にお生まれになったのです。

 ヨハネはこのクリスマスの音信を「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」と告
げています。果てしない闇の中に「すべての人を照らすまことの光」が与えられたのです。こ
の世界は、神が独子イエス・キリストを与えて下さったほどに、神に愛されているかけがえの
ない世界なのです。主イエスは「すべての人を照らすまことの光」として私たちのもとに来て
下さいました。私たち一人びとりの人生も、私たちの存在も、その「まことの光」の中に照ら
されているのです。その「まことの光」は決して消えることのない、罪と死に勝利する永遠の
光であります。

 キリストは、私たちのために、十字架の道を歩んで下さいました。私たちの罪を贖い、真の
自由と、喜びと、平和と、幸いをお与えになるために、あらゆる御苦しみを受けられ、ご自分
の生命を、私たちの罪のために献げ尽くして下さったのです。あのベツレヘムの馬小屋に御生
まれになった御子イエスは、まさに十字架にかかられるためにお生まれになったのです。私た
ちの罪を徹底的に担われ、最後まで私たちと共にいて下さるかたとして、主は十字架の道を歩
んで下さったのです。

 私たちは、このような経験をすることはないでしょうか。ある日ふと何気なく入った小さな
店に、実は大変な有名人が通っているということを知ってびっくりするという経験です。葉山
であれば、昭和天皇が好んで通っていらした店がありますね。そうした事実を知って、改めて
その店を見直すという経験です。それならば、私たちのもとには、私たちの人生には、それ以
上の驚くべき訪問が与えられているのではないでしょうか。私たちのこの人生、私たちのこの
世界は、神の永遠の御子イエス・キリストが、神ご自身が、訪れて下さったのです。それほど
に「神われらと共にいます」恵みを与えられた人生なのです。しかもこのかたは「余地なきと
ころ」に来て下さったかたなのです。店に譬えるなら、とても粗末で主をお迎えするに全く相
応しくない私たちのもとに、それにもかかわらず、否、それだからこそ、主は訪れて下さった
のです。

 デンマークのゼーレン・キェルケゴールという哲学者は「クリスマスの恵みを知る者は、も
はや自分にも、人間にも、世界にも、決して絶望することはない」と語っています。それはキ
リストが、私たちの「災」と絶望の根拠である「罪」を担って十字架にかかって下さった救い
主だからです。このキリストの愛と恵みを知る私たちは、どのような人生の現実の中にも、尽
きぬ慰めと勇気をもって出てゆく者とされているのです。祝福の「余地なきところ」にさえ神
の祝福を語る私たちとされているのです。それゆえ私たちは、全世界の人々と共に、そして天
に召された多くの主の僕たちと共に、声を合わせて「クリスマスおめでとう」と祝福の挨拶を
交わし合います。「おめでとう。主はあなたのために、そして全ての人のために、お生まれにな
りました」と、御子の御降誕を祝い寿ぐのです。クリスマスとは「キリストを礼拝する日」と
いう意味です。どうか私たちは、心からなる感謝をもって、共に御降誕の主の御前にひざまず
き、主を礼拝する者となりたいと思います。祈りましょう。