説    教    イザヤ書9章6節   エペソ書2章11〜16節

「主イエスの御降誕」
2018・12・23(説教18511781)

 主イエス・キリストの御降誕を祝い寿ぐ「クリスマス礼拝」を迎えました。この日、私た
ちに与えられた新約聖書の御言葉はエペソ書2章11節以下です。特にその12節にこのよう
に告げられています。「またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束
されていたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」。ここ
には私たちの心に鋭く響く2つの言葉があります。ひとつは「縁がない者」という言葉、も
うひとつは「神無き者」という言葉です。これをわかりやすく言うならば「救いに対して縁
も無く、神も無い私たちであった」という意味になります。もっと卑近な言葉で言い換える
なら「神も仏もない私たちであった」という意味になります。それが私たち人間の、そして
世界の現実であったではないかと使徒パウロは語っているのです。

 クリスマスは、まさにそのような私たちの「神も仏もない」「縁無き」現実に対して「それ
にもかかわらず」否「それだからこそ」主なる神から与えられている「本当の救いの喜び」
を告げるものです。すなわちクリスマスの音信は、私たち全ての者に対する「救いに縁無き
あなたにこそ救いがある」という告知であり、そして同時に「神無き者であったあなたにこ
そ神が共にいて下さる」という驚くべき救いの音信だからです。親鸞聖人の歎異抄に「善人
なおもて往生を遂ぐいはんや悪人をもや」という一節があります。それは「救い無きあなた
にも救いがある」という意味です。しかしクリスマスの音信はそれどころの話ではなく「救
い無きあなたにこそ救いがある」という「本当の救いの喜び」なのです。

 さてそこで「縁」という言葉は12節の「イスラエルの国籍がなく」という言葉に結びつ
いています。私たちは「イスラエルの国籍がない」と聞きますと、それは地上の国籍のこと
かと思い「当たり前ではないか」と感じるわけですが、ここで言う「イスラエルの国籍がな
い」とは「救いから最も遠く離れていた」という意味です。だからこそ「救いに対して縁な
き私たちであった」と告げられているのです。そもそも「縁」とは「その糸を手繰り寄せる
なら救いに行き着くことができる」という意味の言葉です。その糸を私たちは手元に持って
いなかった。いわば神に対して絆が無かった、救いに対して取り付く島のなかった者たちで
あった。それが「イスラエルの国籍がない」という言葉で現わされているわけです。その行
き着くところこそ「神無き者」という現実であることを、今朝の御言葉は告げているのです。

 そこで、この12節の「神無き者」と訳された元々のギリシヤ語は、英語やドイツ語で無
神論者を意味する「アテイスト」(atheist)という言葉の語源になりました。マルキシズムな
どでは積極的・肯定的な意味で「無神論者」という言葉を用いますが、本来の意味は「神無
き者」であり、消極的かつ否定的な「救われえない者」という意味なのです。それならばク
リスマスの音信は「神の御子イエス・キリストが、あなたのためにお生まれになった」とい
う告知において、まさにその無神論を根底から覆しているのです。「縁無き衆生説」を徹底的
に打破しているのです。「神無きあなたにも神が共におられる」どころではありません。「神
無きあなたにこそ神が共にいて下さる」という告知こそクリスマスの出来事、まさしく「イ
ンマヌエル」(神われらと共にいます)の喜びなのです。

 その救いの根拠は何でしょうか?。それは、神の御子イエス・キリストが、あのクリスマ
スの晩に「余地なきところ」にお生まれ下さった事実によるのです。そのことがルカ福音書
2章7節にはっきりと記されています。「客間には彼らのいる余地がなかったからである」と
いう言葉です。つまり、私たちのこの世界は、神の御子イエス・キリストをお迎えする「余
地」などどこにも持たないほどに「縁無き」「神無き」「救い無き」世界であった。必然的に
「救いから最も遠く離れていた」私たちであった。しかしそこに「余地なき」私たちの世界
のただ中に、まさに「余地なき」がゆえにこそ、神は独子イエス・キリストを与えて下さっ
たのです。それがクリスマスの音信なのです。

 昔から、私たち人間は、人間の生活の最高の理想として、天と地とがひとつになる境地、
神が私たちと共におられる、そのような最高の祝福を目指して歩んできました。禅の言葉に
「月落ちて天を離れず」というものがあります。それは天と地は融合しないと言う意味です。
しかし私たちがこのクリスマスにおいて聴く音信は「神われらと共にいます」インマヌエル
の祝福が、いまここで私たちの現実になっているという出来事です。この教会からは海がよ
く見えます。海を見ていると不思議なことに気がつきます。それは水平線において天と地が
交わりあっているということです。現実には、私たちが水平線をどこまで追って行っても決
して天と地はひとつにはならないのですが…。

 しかし、クリスマスの出来事は、そのような私たちに、驚くべき福音を告げるのです。そ
れは、他のどこでもない。まさにこの、私たちが日々生活しているそれぞれの人生のただ中
に、それこそ「余地なきところ」に、神の御子イエス・キリストはお生まれになったという
事実です。天と地がひとつになる所とは水平線の彼方にあるのではなく、実に私たちの生活
のただ中にあるのです。それは、主イエス・キリストは、私たちの絶望と暗黒の中にお生ま
れ下さったかただからです。この世界の最も低く、最も寒く、最も貧しく、最も卑しい所に、
あのベツレヘムの馬小屋の、飼葉桶の中に、主はお生まれ下さったのです。私たち全ての者
の罪を、十字架において贖いたもうかたとして。

 まことに、このかたの御降誕の出来事こそ、このクリスマスです。それゆえに私たちは、
全世界の人々と共に、そして天に召された全ての主の証し人らと共に、限りなく主を讃美せ
ずにはおれません。そして「クリスマスおめでとう」と、互いに祝福の挨拶を交わしあいま
す。御子の御降誕を喜び寿ぎます。この御子イエスの中に、世界の真の平和と自由、喜びと
救い、平安と祝福があります。このかたが、神の子・主イエスが、私たちのただ中に、余地
なき所に、お生まれになったからです。クリスマスおめでとうございます。御降誕の主キリ
ストの祝福と平和が、あなたと共に、そして全ての人々と共にありますように!。祈りまし
ょう。