説    教   レビ記19章17〜18節  ヨハネ福音書13章33〜35節

「新しき誡め」
2018・12・16(説教18501780)

 十字架を目前にされた主イエスは、愛する弟子たちに「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与
える」と言われ、弟子たちが守るべき最も大切な誡命として“互いに愛し合うべきこと”をお教えにな
りました。それが今朝のヨハネ伝13章の34節以下の御言葉です。すなわち主イエスはこのようにお教
えになりました。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあ
なたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あ
なたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

 いま仮に、この“新しいいましめ”を「みんな仲良く愛し合いましょう」という勧めに変えてみたら、
私たちの反応はどうでしょうか。そのほうがいっそ「わかりやすい」と感じられるのではないでしょう
か。私たちは日ごろヨハネ伝のこの御言葉をその程度の道徳訓としてしか聞いていないのではないか。
つまり「互に愛し合いなさい」とは私たちにとって、キリストを信じていても信じていなくても、人間
として当然のごとくに聞きうる道徳の教えのように思われているのです。

 言い換えるなら、私たちは別にこの誡命が、主イエスのものでなくても納得できるのです。釈迦や孔
子やソクラテスの教えであっても良いのです。私たちはこれを素直に受け取ることができます。つまり
私たちは、十字架の主を抜きにして、自分の力だけで「愛の誡命」を聞き、これを行ないうるのだと自
惚れているのではないでしょうか。「そうだその通りだ」。「互に愛し合い平和に過ごすこと、人間にとっ
てそれは大切なことだ」。そのようにして私たちはこうも思うのです。「何をいまさらそれを『新しい誡
命』と言うのか?」と。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。本当に私たちは、そのように「素直に」この誡命を聴きうる存
在なのでしょうか。たしかにキリスト教以外にも「愛の誡命」を語る宗教は少なくありません。仏教は
「慈悲」という言葉で、道教は「仁」という言葉で、イスラム教は「施し」という言葉で、“互いに愛し
合うべきこと”を勧めています。その意味では確かにこれは「古い誡命」であり、私たちの手垢がつい
た教えです。譬えて言うなら、新しい家に引っ越して来て、最初は新鮮であったものが月日が経つにつ
れ、だんだん新鮮味が薄らいできて、感動しなくなるのと同じようなものです。私たちは「愛の誡命」
についても、それを特に目新しいこと、新鮮なことだとは、感じなくなっているのではないでしょうか。

 ところが実は、私たちは「愛の誡命」について、まさに目新しさを感じなくなっているという意味に
おいて、まことに皮肉なことですが、実はその誡命はいつも、私たちにとって「新しい誡命」であり続
けるのです。事実ヨハネ第一の手紙2章7節以下には、愛は「古くて、同時に新しい誡命」であると記
されています。なぜ私たちにとって「愛の誡命」は「古くて、同時に新しい誡命」なのでしょうか。そ
の答えはただ一つです。それは私たちが愛を実践していないからです。言葉だけで、実際に愛すること
を行なっていないからです。

 私たちは愛の尊さを知り、それに素直に感動し、時には自ら語りもするけれども、それを「行なって
いるか?」と問われるなら、口ごもるほかないのではないでしょうか。むしろ私たちには、自己中心の
思い、自己愛の心がいつも、心の奥深くに根差しているのではないか。“互に愛し合うこと”とは正反対
の、利己的で排他的な自分の姿があるのではないか。その意味でまさに愛は「古くて、同時に新しい誡
命」であり続けるのです。その誡命にもし手垢がついていたとしても、その手垢は実は私たちの手垢で
はなくて、他の誰かの手垢でしかないのです。私たちは「愛の誡命」に手を染めてはいない。そのよう
な意味で、私たちは「愛の誡命」を今ここに「新しい誡命」として聴くほかはない存在なのです。しか
も大切なことは、これを、ほかならぬ主イエス・キリストが私たちに語っておられるという事実です。

 そもそも、主イエスはなぜ「わたしは新しいいましめをあなたがたに与える」と言われたのでしょう
か?。主が言われる「新しさ」とは、いかなる「新しさ」なのでしょうか?。それはすぐ後に続く主の
御言葉に確かな答えが示されています。「わたしがあなたがたを愛したように」と主が言われたことです。
すなわちこの「愛の誡命」は、主が私たちを「あなたがたは、何と愛の乏しい、駄目な人間なのか」と
嘆いておられる誡命なのではないのです。そうではなく、主は何よりもまずここに「わたしがあなたが
たを愛したように」と告げていて下さる。主イエスの限りない愛がまず先にあるのです。主イエスの無
限の愛が、まず私たちに注がれているのです。それが何よりも大切なことなのです。言い換えるなら、
主はここに、このように教えておられる。「まず私があなたがたを愛した、その私の愛のゆえに、あなた
がたもまた、互いに愛し合うことができるのだ」と!。それはこうも言い変えることができます。「まず
私があなたがたを愛した、その私の愛にあなたがたが連なっているなら、あなたがたもまた、互いに愛
し合う生活に生きうるのだ」ということです。

 私の牧師としての最初の任地は東京の青山教会でした。妻の出身教会でもあり、妻の母が付属幼稚園
の教師であり、後には長老をも務めていたわけですが、当時、宮内彰という牧師先生がご健在でした。
私はこの宮内先生から決定的な影響を受けました。あるとき宮内先生と一緒に牧師館でお茶を飲んでい
て、ふと話が今朝のこの「愛の誡め」に及んだとき、宮内先生が「私は人を愛することにおいて主イエ
スに顔向けできない人間です」と言われたのです。私はびっくりしました。なぜなら、私が知る宮内先
生は神学的な「愛の人」であられたからです。その宮内先生が「愛において主イエスに顔向けできない」
と言われる。それを聴いて思いました。主イエスの弟子たち、そしてなによりも私たちは、本当に「愛
において主イエスに顔向けできない」存在なのではないだろうか。そして、それだからこそ、主イエス・
キリストは「愛において主イエスに顔向けできない」私たちを、その価なきままに限りなく愛し、受け
容れて下さったのではないか。キリストの愛は、決して愛し得ない存在を、そのあるがままに、愛し抜
いて下さった愛なのです。その愛を宣べ伝えうるのは、ただキリストの教会のみであります。

 自分にとって価値のあるもの、好ましいもの、美しいものを愛する愛なら、私たちにもごく自然に備
わっています。それこそ私たちは「苦も無く」自分にとって好ましいものを愛することができます。そ
の条件が整えば「互に愛し合う」ことさえ難しいことではありません。しかし、先ほど宮内彰先生のこ
とを「神学的な愛の人」と申しましたが、そのような私たちの自然性に逆らって、私たちにとって価値
の無いもの、好ましくないもの、美しくないものを、それにもかかわらず愛する愛を問われるなら、そ
れこそ私たちは「主イエスに顔向けできない」存在なのではないでしょうか。私たちの愛はいつも自己
愛という性質を持つからです。有島武夫の小説に「惜しみなく愛は奪う」という作品がありますが、そ
れこそ私たちの愛は価値あるものを自己の所有となさんがために奪う手段だと言ってよいのです。逆に、
愛する価値のないもの、無価値なものを、私たちは愛の対象とすることはできないのです。

 しかし、キリストの愛は、そのようなものではありません。神の愛には限界がないのです。それは、
愛する価値があるから愛する条件つきの愛ではなく、そのような価値が何ひとつ無くても、私たちをそ
のあるがままに愛したもう無限の愛であります。キリストの愛は見返りを全く求めない無償の愛です。
それは私たちの価値によって変化する愛ではなく、三位一体なる神ご自身の聖なる交わりの中に永遠の
根拠を持つ不変の愛なのです。私たちの愛は自分を愛してくれる者を愛する愛にすぎません。しかしキ
リストの愛は、ご自分を十字架にかけた人々のために赦しと祝福を祈り、その救いのためにご自分の生
命を献げる愛です。

 そのような神の愛、キリストの聖なる愛をあらわすのに、新約聖書は「アガペー」という言葉を用い
ました。アガペーとは、価値を求める愛(エロース)に対して、価値を造り出す愛です。エロースの愛
は価値を求める愛です。善悪の問題ではありません。親がわが子を愛する愛もエロースです。わが子と
いう価値に対する自然の愛です。それに対して、神の愛(アガペー)は、価値があるから愛するのでは
なく、愛することによって相手にかけがえのない価値を与える愛です。だから「エロース」を“価値追
求的な愛”と呼ぶなら「アガペー」は“価値創造的な愛”と呼べるのです。価値を追求し、自分のため
に奪うのではなく、価値なき者をそのあるがままに愛し、その者のために自分を与え、限りない価値を
与える愛こそが、キリストの愛なのです。

 そして、その“価値なき者”こそ、誰あろう、私たち自身のことではないでしょうか。私たちは神の
御前に立ち得ざる者です。それどころではない、私たちは「罪」というマイナスの価値(無価値どころ
か反価値)をしか持ちえぬ存在です。そのような私たちのために神の御子キリストは、ベツレヘムの馬
小屋に人となられ、十字架にかかって死んで下さいました。そのことをヨハネはヨハネ第一の手紙4章
7節以下にこのように語っています。「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、
神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない
者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生き
るようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたし
たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの
供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。

 ヨハネは明確に「ここに愛がある」と申します。私たちが未だかつて想像だになしえなかったまこと
の愛が、そこに、十字架のキリストによって、今や私たちに溢れるばかりに与えられているのです。そ
して、だからこそ、ヨハネは続いてこのようにも勧めるのです。「愛する者たちよ。神がこのようにわた
したちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」と!。今朝のヨハネ伝
の御言葉と全く同じです。まずキリストの愛が、あの十字架の贖いの御業によって、価値なき私たちに
豊かに注がれている。だからこそ主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたのです。
そのキリストの愛に、私たちがいつも連なっているなら、すなわち、私たちがキリストの御身体なる教
会の交わりの内にあり、御言葉の光のもとに世の旅路を歩んでゆくなら、そのとき、私たちもまた「互
に愛し合う」生活を造り出す者とされてゆくのです。それは、キリストに贖われた者の新しい生活です。
自分の力によってではなく、キリストの恵みの御力によって歩む生活です。どんなに私たちが弱い時に
も、その弱さの中にこそ、主の御力が働いて下さることを信ずる歩みです。

 コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge1772〜1834)というイギリスの詩人が「老水夫行」(Ancient 
Mariner)という詩(バラッド)を書きました。一人の老水夫が難破して南極に漂着します。飢えと寒さ
と絶望の中で、一羽のアホウドリが現れて彼の船を導き救ってくれます。しかし彼はそのアホウドリを
殺してしまいます。その出来事を通して、彼は自分の罪のために主イエスが十字架にかかって死んで下
さったことに気付かされるのです。そのバラッドの最後にコールリッジはこう歌っています。「最もよく
愛する者、そは最もよく祈る者なり」(He prayth best, who Loveth best)。そしてこう続きます。「最も
深く祈る者、そは最も深く愛する者なり。我らを愛したもう慈愛の神は、全てを創造せられ、かつ全て
を愛したもう」。この「祈る者」とは、キリストの愛に生かされ、キリストの恵みに支えられたキリスト
者の歩みです。キリストの愛に生かされてこそ、キリストの愛に根ざしてこそ、はじめて私たちは「最
もよく祈る者」すなわち「最もよく愛する者」たりうるのです。それは少しも私たちの力ではありませ
ん。私たちは愛することには全く無力な、破れ多き僕にすぎない。主に顔向けできない者にすぎません。
しかし、キリストの愛に根ざして生きるなら、キリストに贖われた者として生きるなら、その弱き私た
ちの弱さのただ中にさえも「互に愛し合う」生活が造り出されてゆくのです。それこそが、そこにキリ
ストの弟子が存在することの、何よりも確かな徴なのです。その確かな徴の祝福の中に、いま私たち一
人びとりが生かされ、歩む者とされているのです。祈りましょう。