説    教     イザヤ書9章6〜7節   ヨハネ福音書13章1節

「愛の極みにおいて」 待降節第2主日
2018・12・09(説教18491779)

 伊藤整というわが国の優れた作家が「ある人間が、一人を本当に愛し続けるということは、そのこと
自体がひとつの奇跡である」と語っています。これは家族や親子、夫婦や親しい者どうしはもちろん、
全ての人間関係に言えることではないでしょうか。もしも人間どうしの愛の関係を突き詰めてゆくなら、
そこには必ず「愛の破れ」「愛の矛盾」が潜んでいることがわかるのです。愛するということは、実は常
にこの「破れ」や「矛盾」と隣り合わせなのであって、人間が誰かを真実に愛し続けるということは、
それ自体が「奇跡」だと言わねばならない。伊藤整が言いたいのはそういうことです。

 たとえば、親と子の関係であっても、親は理想とするわが子を愛する余り、現実のわが子の姿にきち
んと向き合っていないことがあるのではないでしょうか。理想と現実のギャップに直面して、実は自分
の理想をわが子に投影しているだけのことがあるのではないでしょうか。そこで初めて本当の愛が問わ
れるのです。夫婦や友人同士の関係でも同じことが言えます。時に私たちの愛は、自己愛の対外的な裏
返しに過ぎないことはないでしょうか。私たちは「愛」の名において、実は自分の欲求を投影し、相手
に見返りを求めていることはないでしょうか。そういうことを考えますとき、実は“愛し続ける”とい
うことそれ自体が、やはりひとつの奇跡なのだと改めて気づかされるのです。

 主イエス・キリストの御生涯において、私たちが何よりも深く驚き、改めて圧倒されますのは、他者
を、すなわち私たちを“愛し続ける”ことにおける、主の純粋かつ真実な、偽りの全くないそのお姿な
のです。その意味で、今朝のヨハネ福音書13章1節は主イエスの御生涯の全体を見事に要約した御言
葉です。「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、
世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」とあることです。ここに私たちは、キ
リストの御生涯の本質そのものを見るのです。私は高校生の時、この御言葉に出会って生涯、忠実な礼
拝者となろうと決心しました。洗礼を受ける6カ月前のことです。

 まず「過越の祭の前に」とあることに心を留めたいと思います。ここで言う「過越の祭」とは、まさ
にあの十字架の出来事をさしているからです。旧約の時代、エジプトの奴隷の地から贖われたイスラエ
ルの民は、その贖いを信ずる者の「徴」として、それぞれの家の門口に子羊の血を塗りつけました。そ
れが「過越の祭」の発端となった出来事です。それは主イエスが十字架において流された贖いの血をさ
し示すものです。主イエスは今まさにこの神聖な「過越の祭」において、ご自分の十字架の死を通して
全人類の罪の贖いを成し遂げようとしておられる。まさにこの十字架の出来事こそが「この世を去って
父のみもとに行くべき自分の時」なのです。そしてその「時」が来たことをお知りになって、主イエス
は「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」というのです。

 すると、どういう事になるのでしょうか。私たちがここではっきりと知らされていることは、主イエ
スが「世にいる自分の者たち」すなわち私たちを「最後まで愛し通された」こと、それは何よりも、あ
の十字架の出来事においてこそ「明らかである」ということではないでしょうか。言い換えるならそれ
は、神の御子みずからご自分の「からだ」つまり生命と存在の全てを献げて、私たちの朽つべきこの「か
らだ」を、つまり私たちの生命(存在)そのものを贖い取って、救って下さった、限りなく祝福して下
さったことです。ご自分の死によって私たちを生かして下さったのです。

 旧約聖書・創世記3章に、アダムとエバによるいわゆる“失楽園”の出来事が記されています。神の
御言葉に叛いたアダムとエバは、自分たちが裸であることを知って、無花果の葉で身体を装おうとしま
す。そして2人とも父なる神の御声と御顔を避けて逃げ隠れるようになるのです。アダムはその理由と
して神に「恐ろしくなったから」と答えています。ここに実は、私たち人間の罪の本当の姿が現れてい
るのです。

 古い世界、古い自分にはいつも「恐れ」がつきまとうのです。私たちの存在は最も深いところで「恐
れ」に支配され続けているのです。それは「対人恐怖」ならぬ「対神恐怖」です。神の御声と御顔を避
けて生きようとすることです。その赤裸々な人間の現実の姿(裸の姿)を姑息に取り繕わんがために、
無花果の葉のごとき脆いもので「からだ」を装おうとする、それが私たちの罪の姿です。人間は人間で
ある限り、誰でも弱さや欠点を持っています。しかしそれは、アダムとエバが裸であったのが罪ではな
いように、私たちの罪ではありません。罪は弱さや欠点のことではないのです。罪とは、その私たちの
弱さや欠点を、神の御前に隠そうとして「恐れ」ることです。そして、神の慈しみ(キリストの義)以
外のものでわが身を繕おうとすることです。それが私たちの罪の本質なのです。

 その罪の結果の「恐れ」は、実は私たちの横の関係、人間関係にも暗い影を落とします。現実の自分
を繕って相手を恐れるとき、遠慮して相手に合わせたり、無理に迎合したり、あるいは相手に甘えて依
存したり、その逆に激しい敵意を現わしたりするようになります。いずれにせよ健全な人間関係ではあ
りません。それは相手に支配されているだけの関係です。しかも内心では常に相手を悪く思い、批判し
攻撃するようになるのです。過度に否定的になったり、密かに上げ足取りをしたり、誹謗中傷したり、
自分を正当化したりします。そこには自由と愛はなく、相手を審く傲慢さと卑屈な自己栄化だけが残る
のです。それは結局、私たち自身が自分を、無価値な、生きるに価しない人間であると決めつけてゆく
ことに繋がるのです。

 他者への過度な依存と執拗な敵意の背後には必ず、自己嫌悪と自己蔑視の歪んだ心が潜んでいるので
す。それこそ、たとえ無花果の葉であっても、何とか自分を繕おうとする心です。現実の自分が無価値
な存在であると感じ、そのような自分が誰かに見捨てられることを恐れ、不安に脅え、その不安から逃
れようする結果、他者を激しく攻撃したり批判したりするのです。まさにパウロの言うように、私たち
の中に「罪の法則」が働くようになるのです。

 そのような、私たちの罪の現実の中でこそ、私たち一人びとりに主の御声がいま響き渡っています。
「わが子よ安かれ、汝の罪赦されたり」と!。なによりも今朝の御言葉こそ、その罪の赦しと贖いの確
固たる証です。主イエスは「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」のです。
私たちは真実に一人を愛することさえできえない存在です。愛の中にさえ、多くの破れと矛盾、恐れと
審き、暗い「罪の法則」を抱えています。しかしそのような私たちの存在(からだ)をそのあるがまま
に、かき抱くがごとくに最後まで愛し通して下さった一人のかたを私たちは知っています。そのかたが、
あのゴルゴタの上で、呪いの十字架にかかって、私たちのために死んで下さった事実を知っています。
まさにこのかたにのみまなざしを注ぎ、このかたの御声を聴くところからのみ、私たちの新しい生命が
始まるのです。私たちの新しい自由な生活が、まさに「互いに愛し合う」新しい生活が始まるのです。

 それは、このかたのみが、十字架の主イエス・キリストのみが、私たちをいかなる時にも、最後の最
後まで愛し通して下さったからです。私たちは主イエス・キリストの御前には、何ひとつ隠す必要はな
いのです。無花果の葉で繕う必要はないのです。キリストご自身の生命が、私たちの存在全てを覆って
いて下さるからです。キリストの義が私たちを覆い包んで下さるからです。このかたのみが「世にいる
自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」かただからです。まさにその最後にいたるまで
の「極みまでの真実な愛」こそが、このかたの御生涯そのものだからです。

 キリストの御生涯のどこをどう切り取っても、私たちに対する極みまでの愛のほか何ものも見いだす
ことはできない、それほどの愛の御生涯を主は私たちのために生き抜いて下さったのです。だから第二
コリント書5章17節には「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古い
ものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」と記されています。また今朝あわせて拝読
したイザヤ書9章6節には「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた。ひとりの男の子がわれわれ
に与えられた」と、キリストが人となって、つまり私たちのあらゆる弱さと欠点を身に担って、お生ま
れ下さったことが記されています。このかたは「わたしたちのために」来て下さいました。8月に天に
召された私の友人・水野君の好きなラテン語で“pro nobis”(我らのため)“pro me”(私のため)と申し
ます。測り知れない罪の暗黒の中に「すべての人を照らすまことの光」として、私たち全ての者のため、
まさにあなたのために、主は来臨して下さったのです。

 主イエスは私たちに、どうしろ、こうしろ、ということをいっさい仰いません。どうあるべきかとい
う条件を何ひとつお付けになりません。ただ主は私たちの罪をご自分の十字架をもって赦して下さり、
ありのままの現実の「世にいる自分の者たち」を、すなわち現実の私たちを、その弱さも欠点もあるが
ままに愛し貫いて下さったのです。あなたは私の愛する「かけがえのない人」だと仰って下さるのです。
だからパウロの言うように「だれでもキリストにあるならば」すなわち「教会によってキリストに結ば
れているならば」そのとき私たちは、無条件で「新しい」者とさるのです。キリストの生命を戴いて生
きる、キリストの生命共同体としての教会の枝とされているのです。

 私は25歳の時に幼稚園の園長をしたことがあります。たぶん日本一若かった園長で、毎日が無我夢
中でした。あるとき園の先生が園児たちに「天国の絵」を描かせたことがありました。園児たちは皆、
それは素晴らしい絵を描きました。必ず神と一緒に自分が描かれているのです。それこそジョン・ウェ
ズリが語るように「最も善きこと、それは神と共に在すことなり」を想わされました。それこそが人間
の完全な祝福と幸いであることを、3歳から5歳の園児たちが見事に描いたのです。私たちは神が御子
イエス・キリストを賜わったほどに私たちを大切にして下さった愛を知って、その愛の御身体である教
会に根ざして、はじめて自分をもそして他者をも、本当に大切にし、受け容れ、愛することができるよ
うになるのではないでしょうか。あるがままの自分を無価値であると恐れることからも、またその恐れ
から他者を攻撃することからも自由にされて、互いにキリストに結ばれた者として、受け容れることが
できるのではないでしょうか。

 「足跡」(フットプリント)という、作者不詳の詩があります。「ある夜、彼は夢を見た。/主と共に
浜辺を歩いている夢を。/空のかなたに光がひらめき、/彼の生涯のひとこまひとこまを映しだしてい
た。/砂にしるされた二組の足あとが見えた。/一つは彼のもの、もう一つは主のものだった。/生涯
の最後の情景が映った時、/砂の上の足あとをふりかえって見た。/すると、その生涯の道筋にはただ
一組の足あとしかない時が/いくたびもあることに気がついた。/それは生涯で最も落ち込んだ悲しみ
の、/まさにその時だったことにも気がついた。/どうしてもこれが気になって、彼は主に問うた。/
『主よ、かつてあなたにお従いする決心をした時に、/あなたはいつまでも共に歩むと、おっしゃって
下さったではありませんか。/しかし私の生涯で最も苦しかったあの時、この時にかぎって/足あとは
一組しかないということが気になっております。/いちばん一緒にいて欲しかったその時に、/私を一
人にされたのはどうしてですか』。/主は答えられた。/『愛しい、大切な私の子よ!/わたしは、あな
たを愛している。/決してあなたを一人にすることはない。/試練の時、苦難の時、/ただ一組の足あ
としか見えないのは、/その時わたしがあなたを抱いていたからだ』」。

 私たちが運命の打撃に打たれる最大の試練の時さえも、神の栄光の現われる摂理の時へと変えられて
ゆくのです。私たちといつも変らず、共に歩んでいて下さるキリストの恵みを知るとき、そして涙の谷
の中でこそ、私たちを愛し貫き守って下さる主の愛を知るとき、私たちの生涯もまた、キリストの恵み
を証するものへと変えられてゆくのです。「キリストの愛の極みにおける新しい人生」とはそういうもの
です。私たちが、また全ての人が、この祝福のもとに招かれているのです。まことに主が私たちのもと
に来臨され、「世にいるご自分の者たち」を最後まで愛し通して下さった恵みによって、私たちの人生全
体が限りない祝福と慰めのもとに新たにされていることを憶え、ともにクリスマスへのよき備えをなし
たく思います。祈りましょう。