説    教     イザヤ書11章1〜5節   マルコ福音書1章14〜15節

「来臨したもう主」
2018・11・25(説教18471777)

 アイルランドの劇作家サミュエル・ベケットの作品に「ゴドーを待ちつつ」という戯曲があります。1956
年にフランス語で発表された作品です。ベケット特有の、独特な印象を与える文章なのですが、この作品
においてベケットは「意味もなく」昼下がりの田舎道でゴドーという男の訪れを待っている2人の人物の
対話を通して、混迷した現代における「救い」の意味を描いています。この作品で特に印象的な部分は、
ヴラディミールがエストラゴンに「(ゴドーが来たら)私たち救われるのだ」と語る場面です。なぜ、どう
して「救われる」のかは、よくわからないのですが、とにかく“ゴドーの到来”によって、この人生と世
界の意味が一変してしまうほどの「救い」が起こる。それを待ち望んでいるという、その「待ち望み」の
事実だけが、この作品を観る者の心を捕らえるのです。論理的な辻褄も何もないのですが、そもそも現代
人の希望に「論理性」などあるのか?という問いを、この作品は私たちに投げかけているのです。

 私たちは来週いよいよ「待降節」(アドヴェント)を迎えます。アドヴェントとはもともと「アドヴェニ
レ」(こちらに来る、来たりたもう)というラテン語に由来する言葉です。そこから「冒険」を意味する「ア
ドヴェンチャー」フランス語の「アヴァンチュール」という言葉も生まれました。まさにこれはベケット
が告げている「待ち望み」の本質なのですけれども、そこには明確な主体があるのです。それは私たちの
主イエス・キリストが、私たち全ての者の「救い」のために、この世界に(この歴史の中に)来臨せられ
たという事実です。主イエス・キリストにおいて御自身を現わしたもう真の神は、実に「来臨したもう主」
にほかならないのです。

 森有正というわが国の優れた哲学者、この人は改革長老教会の牧師の家庭に生まれた人なのですが、こ
の「アドヴェント」の反対語として「アスィミレーション」という言葉を挙げています。それは「自分に
同化させてしまう」という意味です。「アドヴェント」が「冒険」にも喩えられるほどの、神の驚くべき“救
いの御業”であるのに対して「アスィミレーション」は自分を拡大してゆくこと、つまり「自己拡大」の
欲望です。自分を人生と世界の主にしてしまうことです。そこで森有正は、実は私たちが日常において、
意識的にせよ無意識的にせよ、していることは、そのほとんどが「アスィミレーション」なのではないか
と語っています。そして、どちらに人間の本当の「救い」があるのかと改めて問うています。主を待ち望
む「アドヴェント」か、それとも自己拡大の「アスィミレーション」か…。先ほどのベケットの作品の「問
い」が私たちの心を捕らえるのは、そこには少しの「論理性」も無いけれども、2人の男の滑稽かつ素朴
な対話の中に、ただ外なる救いを「待ち望む」待望の姿勢が貫かれているからです。そこにしか現代人の
「救い」はありえないのだという、明確なメッセージを私たちに物語っているからです。

 そこで、今朝の御言葉・イザヤ書11章1節から5節において、預言者イザヤはまさにその「外なる救
い」(私たちのためになされた、神の驚くべき冒険、すなわちアドヴェント)の内容を告知しているのです。
これは「よく考えて、理解したら受け入れなさい」という「論理の言葉」などではありません。そうでは
なく、今ここに生きる私たち一人びとりが聴いて信じるべき「福音の言葉」として与えられている告知な
のです。私たちはこの御言葉を「待ち望む」者として、いまここに集められているのです。まず1節に「エ
ッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる」と
あるのは、神の御子・主イエス・キリストのことをさしています。切り倒された木の伐株は私たちの目に
は絶望にしか見えません。しかしそこに一つのひこばえが「一つの若枝」が萌え出でて成長し、やがて実
を結び「主の霊」がその上にとどまるのです。これは主なる神が、御子イエス・キリストにおいて、私た
ち全ての者の「救い」のために、この歴史の中に「来臨したもう主」として来て下さった事実をあらわし
ています。主イエスの御降誕と御生涯、そして御苦難と、十字架の死と、葬りと、復活と、昇天の出来事
です。私たちのために主がなして下さった御業の全てを、イザヤは旧約において証しているのです。

 さて、この主イエスの上に「とどまった霊」とは、2節によりますと「主を知る知識と主を恐れる霊」
です。私たちがここで意外な感じを受けますのは、どうして「主」でありたもうキリストが、わざわざ「主
を恐れる霊」(主を信ずる霊)を受けられる必要があったのかということです。その理由は、キリストは“ま
ことの人”として私たちのもとに来て下さったかただからです。最初の人アダムの罪は私たち自身の罪で
す。それこそ森有正の言葉で言うなら「アスィミレーション」(自己拡大)の罪です。自分を拡張してゆく
ことが人間存在の目的であると思い上がる罪です。キリストはそれとは全く逆の歩みをなさって、最初の
人アダムの罪を(すなわち私たちの罪を)完全に贖われるために「神の聖と義にかたどられた新しき人」
として、十字架への全き従順の歩みを貫いて下さったのです。

 そのことが続くイザヤ書11章3節に記されています。これは大切な御言葉です。「彼は主を恐れること
を楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをな
さず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの、柔和な者のために定めをなし、その口
のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信は
その身の帯となる」。主イエスはヨハネ伝の4章10節に「わたしがあなたがたに話している言葉は、自分
から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである」と言われま
した。また、あのゲツセマネの祈りにおいて「父よ、願わくはこの杯(十字架)をわれより離れさらしめ
たまえ。されどわが思いにあらで、御心のままをなしたまえ」と祈られました。主は永遠の神の御子であ
られるにもかかわらず、この歴史の中に「来たりたもう主」となられて、“まことの人”として御父に全き
従順の歩みを献げたもうたのです。それはすなわち、使徒パウロがピリピ書2章6節以下にこう語ってい
るとおりです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、お
のれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。

 それならば、主イエスが私たちのためになさって下さった救いの御業とは、主イエス御自身の全てです。
ここに「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」とありますが、この「固守する」という言葉は
「ハルパゲモス」というギリシヤ語なのですが、それを英訳すると「アスィミレーション」(自己拡大)と
いう言葉になるのです。主イエスはそれと全く反対の歩みを、私たちのために献げて下さいました。すな
わち私たち「神の外に出てしまった者たち」の救いのために、ご自身がまず神の外に出て下さったのです。
それが「固守なさらなかった」ということです。そればかりではありません。その主イエスの従順は「十
字架の死に至る」ほどの全き従順の歩みであったのです。

 罪の本質は、神から離れることです。そして自分の栄光を求め、他を排除してまでも自分を拡張してゆ
くことです。私たちは造られたる僕に過ぎないにもかかわらず、無限に自己を拡張して「神と等しい者に」
なろうとする罪を犯すのです。キリストはそれと全く正反対であられました。キリストは永遠の神の唯一
の御子であられるにもかかわらず、私たちを極みまでも愛して、私たちのためにご自分の全てを空しくな
し、十字架の死に至るまでも従順であられた。私たちのために、ご自分の全てを献げ尽くして下さったか
たなのです。呪われた罪人の永遠の死を十字架において担い尽くして下さったのです。それこそが主が飲
まれた「杯」なのです。私たちは自然的な肉体の死にさえ耐えられない存在です。しかし主は永遠の滅び
としての絶対の死をすら、ご自分に引き受けて滅ぼして下さいました。そのことによって、私たちの罪を
死もろともに撃ち滅ぼし、私たちを御国の民として下さったのです。

 まさに、その主イエスの十字架による救いの御業が、今朝のイザヤ書11章においては「さばきをなす」
または「定めをなす」または「撃ち殺す」という言葉で現わされているわけです。すなわち主は、私たち
を限りなく愛したもうその愛のゆえに、私たちを罪と死の支配の下に決して放置なさらない。愛の反対語
は無関心ですが、主は限りない愛のゆえに、私たちを放置なさらないのです。まさに私たちを救うために、
この歴史の現実の世界に「来臨したもう主」として訪れて下さったのです。

 主イエスは、ガリラヤにおける宣教の第一声を「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信
ぜよ」(マルコ伝1:15)との御言葉で始めたまいました。この「神の国は近づいた」とは、「あなたのため
に、いま神の恵みの永遠の御支配が訪れている」という意味です。「神の国」とは「神の永遠の御支配」と
いう意味だからです。今までの私たちは罪と死の縄目のもとにあった。しかし、キリストを信じ告白して、
教会に連なり礼拝者として歩みはじめるとき、私たちはもはやキリストの永遠の恵みの御支配のもとにあ
るのです。もはや決して罪と死は私たちの「主」とはなりえないのです。今朝の御言葉の6節以下も、そ
のことと深い関連があります。「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、
肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に
伏し…」。これは、現実には起こりえない理想の世界を描いているのでしょうか?。そうではないのです。
イザヤはここでも、ただ十字架の主のみを見上げて御言葉を語り告げています。これは主の御約束なので
す。対立しかありえないところ、限りなく自分のみを拡張してゆく世界の現実の中にあって、ただ十字架
の主イエス・キリストによってのみ、本当の永遠の平和と一致がこの歴史の中に実現するのです。その喜
びと幸いが、ここに宣べ伝えられているのです。私たちはこの喜びのアドヴェントを、そして「来臨した
もう主」のクリスマスを、これから迎えようとしているのです。祈りましょう。