説    教     詩篇55篇22節  マルコ福音書10章32〜34節

「キリストに倣う」
2018・11・18(説教18461776)

 私たちキリスト者の生活が、いつも「キリストに従う生活」であること。このことに異論のある人は
おそらく一人もいないでしょう。それは当然のことだと、誰もが思っているのではないでしょうか。し
かし私たちにとって、時にこの「当然のこと」ほど難しいことはないのも事実なのではないでしょうか。

 私たちの主イエス・キリストは、どのようなお考えで、またどのような御心をもって、私たちをご自
身に従う者とならせて下さるのか、そのことを改めて、今朝の御言葉から、深く学び取りたいと願うの
です。ひと口に「キリストに従う」と言っても、その従いかたが私たちの自分勝手であっては、それは
本当の信仰生活とはなりません。たとえ私たちが口先で幾ら「自分はキリストに従っている」と唱えて
も、その従いかたが主の御心に適っていなければ、それは信仰の歩みとは言えないのです。

 そこで今朝、与えられたマルコ伝10章32節を改めて見てみましょう。「一同はエルサレムへ上る途
上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた」とあり
ます。ここに弟子たちの非常に強い驚きの様子が描かれているのです。当時のユダヤにおいては、ユダ
ヤ教の教師(ラビ)が弟子たちと一緒に道を歩むとき、まず弟子たちが先頭になって歩む習慣がありま
した。ラビは弟子たちに守られながら、また弟子を見守りながら、列の最後を、殿(しんがり)を歩ん
だのです。

 ですから、このとき主イエスが弟子たちの「先頭」にお立ちになったことは、弟子たちにとっては全
く意外な、驚くべきことでした。しかし、ただそれだけが驚きの原因ではなかったのです。弟子たちは
みな、家をも職をも家族をも捨てて、主イエスに従ってきた、いわゆる「覚悟を決めて主イエスに従っ
た」人たちです。その彼らが先立ち行かれる主イエスを見て驚き恐れたのは、それがエルサレムを目指
しての歩みであったからです。「先生、そっちに行っては危ないです!」と弟子たちの誰もが思ったこと
でした。エルサレムには敵が犇めいている。先生の命が、そして我々の生命も危険にさらされる。弟子
たちは咄嗟にそう思ったのでした。

 それと同時に、弟子たちの心の中には「先生、私たちの願いはそういうことではないのです」という
必死の思いが去来したことでした。「私たちは先生がユダヤの新しい王になるかただと信じたからこそ従
ってきたのです。それなのに、先生は十字架にかかって死ぬために、エルサレムに行こうと言うのです
か?」そのように弟子たちは言いたかったのです。「主よ、我らが行くべきは、その道ではありません」
と主イエスの袖を引いて止めたかったのです。ユダヤの王としての栄光の即位と、重罪人としての十字
架の死、それはあまりにも対照的でした。弟子たちはみな主イエスが「王」に即位することを心から望
んだのです。犯罪人として死刑になれば、自分たちもまた犯罪人の弟子(死刑囚の門人)に過ぎなくな
る、そのことが、弟子たちには耐えられなかったのです。

 このことは、キリストの御心と私たちの思いが、如何に違うか、乖離しているか、ということを現わ
しているのではないでしょうか。けっきょく私たちは、自分の栄誉栄達を求め、キリストを利用してい
るに過ぎないことが、あるのです。キリストが“十字架の主”であられるということは、立身出世を願
う弟子たちや私たちにとって、もう主イエスに「利用価値がなくなる」ということです。それでは困る、
約束が違うではありませんかと、弟子たちは言いたかったのです。

 しかし、旧約聖書のイザヤ書53章は、はっきりと主イエスの歩みが、全世界の人々の罪の贖い主(メ
シヤ=キリスト)としての歩みであったことを証言しています。「だれがわれわれの聞いたことを信じ得
たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育
った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮ら
れて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼
は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをに
なった」。

 主イエスは、これこそがご自分の使命であられることを自覚せられ、全世界の人々の罪の贖いのため
に、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。逃れようと思えば幾らでも逃れることができ
ました。避けることも、別の道を行くことも、無限の選択肢があったのです。しかし主イエスは、それ
が神からの使命であられるゆえに、毅然として御顔をエルサレムに向けたまい、弟子たちの「先頭に立
って」歩んでゆかれるのです。私たち全ての者の救いこそ、主イエスの願いであられたからです。

 ジョン・リースというアメリカ改革派教会の優れた神学者が「福音とは神の御意思である」と語って
います。これは素晴らしい言葉です。マルコ伝は既に1章1節において「神の子イエス・キリストの福
音のはじめ」と語りました。これは直訳すれば「福音はイエス・キリストにおいて、私たちのただ中に
実現した」という意味です。言い換えるなら、私たちの歴史の中に神の御意思が実現しているのです。
それは、私たちの罪が十字架によって贖われ、私たちが教会に連なる者となり、キリストの復活の生命
にあずかる者とされることです。実は私たちは、本当の救いを願いながら、実は自分が何を求め、何を
願っているかさえ、わからない存在なのです。しかし主イエスは、否、主イエスのみが、私たちの本当
の救いが何かをご存じであられます。そのような救い主(キリスト)として、主は決然として十字架へ
の道を、私たちのために歩みたもうのです。それが主の御意思なのです。十字架にかかりたもうたキリ
スト御自身が「神の御意思」としての福音そのものなのです。

 今朝の御言葉には続きがあります。それは35節以下なのですが「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」の
兄弟が夜になってから密かに、他の弟子たちに内緒で、主イエスのもとに来て申しますには「先生、わ
たしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」と申しました。その願
いとは、主が栄光をお受けになるとき(つまりユダヤの王に即位なさるとき)「ひとりをあなたの右に、
ひとりを左にすわるようにしてください」ということでした。これは要するに、主イエスが王に即位さ
れた暁には、自分たちを右大臣、左大臣に任命して下さいと願い出たのです。これをお聴きになって主
は彼らに「あなたがたは自分たちが何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲
む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と問われましたところ、彼らはいと
も簡単に「できます」と答えたのでした。

 私たち人間はどこまで愚かな者なのでありましょう。この時だけではなく、同じマルコ伝の9章33
節以下にも、同様に主の御受難の予告がなされた直後、弟子たちは「誰がいちばん偉いか」を言い争っ
たと記されています。十字架の主のみを仰ぐべきところで、なお自分自身の功名のみを求め、主イエス
を自己実現の手段として用いようとする私たちの罪が、ここにもはっきりと現われているのです。要す
るにどこまでも自分が主であって、キリストは自己実現の手段に過ぎない、そこに私たち人間の罪の本
質があるのです。信仰とは名目のみで、実は自分の欲望が「主」となっているのです。

 そればかりでなく「(ほかの)十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した」と
いうのです。抜け駆けをするとは狡いと詰ったわけです。自分たちにも旨い汁を吸わせろと要求したの
です。つまり、キリストの弟子とされた全ての者が同じ罪をおかしました。この彼ら弟子たちに対して、
主ははっきりとお教えになって言われました。10章42節以下です。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せ
て言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、
また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであっては
ならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間で
かしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるた
めではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである』」。

 ここで主が語っておられることは、道徳的な“謙遜の勧め”などではありません。そうではなく、こ
の御言葉の中心は45節にあります。つまり主イエスが世に遣わされた理由は、仕えられるためではな
く仕えるためであり「多くの人」(全ての人)の贖いとして自分の生命を献げるためなのです。この事実
を(福音の核心を)凝視しなさい(心に留めなさい)と主は言われるのです。たとえこの世の価値観に
おいて、権力者や指導者たちがどんなに権力を振るおうとも、私たちはキリストの弟子として、彼らと
同じ価値観に立つ者たちではないはずだ。主イエスがこれを語られたこの時点で、この「あなたがた」
とは十二人です、全世界の中のたったの十二人。しかしその十二人が贖い主なるキリストの御業に仕え
る者(使徒)となったとき、そこに全世界を救う神の御業が現されたのです。それは、あのガリラヤの
岸辺において、五つのパンと二匹の魚とで養われた群集の食べ残りを集めたら「十二のかごに一杯にな
った」のと同じです。私たち一人びとりの手に、いまその「かご」が主の御手から渡されているのです。
キリストの十字架の恵みを知る私たちは、その恵みか全ての人々のための救いの恵みであることを宣べ
伝えずにはやまないのです。

 そこで、今朝の説教の題は「キリストに倣う」ですが、私たちが十字架の主にお従いするということ
は、言葉の厳密な意味で「キリストに倣う」ことなのではないでしょうか。この「倣う」という日本語
は「ある人に向けて自分を投げかける」という意味です。ドイツ語で言う「ナッハフォルゲ」と同じで
す。先立ちたもうキリストに従うことです。そこで、この「倣う」とは「信仰」のことなのです。カー
ル・バルトという神学者が「信仰とは全き信頼のことである」と言いました。キリストに従うとは、キ
リストに倣うこと。キリストに倣うとは、キリストの御手に自分を投げかけること、明け渡すこと。そ
してキリストの御手に自分を投げかけることは、まさしくキリストを信じる生涯を歩むことなのです。

 主は言われました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を
招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と。私たちはみな例外なく、聖なる神の御
前には瀕死の病人にすぎないのです。瀕死の病に罹っているときに「治って元気になってから医者に行
こう」と思うのは本末転倒です。私たちはこの“本末転倒”を魂においては平気でしているのではない
でしょうか。どこまでも自分を主として、キリストを主とはせず、キリストの御招きを断り続けている
私たちなのではないでしょうか。

 キリストに従うとは、自分の正しさ、自分の義によって歩むことではありません。その正反対です。
私たちのいかなる正しさも、人の前における義も、微塵も私たちの救いとはなりえません。そうではな
く、キリストに従うとは、キリストに倣うことです。私たちが心から十字架の主を仰ぎ、みずからの、
そして全ての人の救い主として信じ告白することです。それは具体的なことです。心で信じ、口で告白
して、私たちは教会に連なる者となるのです。教会は十字架と復活のキリストの御身体です。ここに連
なることにおいて、私たちは無条件でキリストの十字架の死にあずかる者とされ、同時にキリストの復
活の生命にあずかる者とされるのです。まことの礼拝者としての歩みが、そこに始まってゆくのです。

 このことを、使徒パウロはローマ書6章3節以下でこう語りました。「それとも、あなたがたは知ら
ないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテス
マを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬ら
れたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたし
たちもまた、新しいいのちに生きるためである」。私たちはいま、キリストに連なる者とされているので
す。そして礼拝者として、贖い主なるキリストを讃美し、どこまでも従い行く僕とならせて戴いている
のです。これからも、いつまでも、変わることなく「キリストに倣う」信仰の歩みを、続けてゆく僕た
ちでありたいと思います。祈りましょう。