説    教    詩篇139篇9〜10節   ヨハネ福音書9章24〜38節

「辺境の救い」
2018・11・11(説教18451775)

 「辺境」という言葉があります。人目につかない寂しい場所、荒れ果てた野原、人の手が及ばぬ荒々し
い自然が残されている場所、そのようなところを「辺境」と呼ぶのです。私が幼かった頃、東京の下町に
も思いがけぬ寂しい場所があり、よく野犬の群れが屯していました。野犬に囲まれて怖い思いをした思い
出があります。もとは飼犬であったものが人に捨てられ、人為を離れ、寂しい辺境で群れをなしているう
ちに、次第に野生の本能が現れてオオカミ化してきたのでしょう。そこで、実は私たち人間の心の中にこ
そ、そのような“魂の辺境地帯”があるのではないでしょうか。人間の心には陽のあたる明るい、朗らか
な、清い場所ばかりがあるのではありません。むしろ私たちの意志や努力や思いによっては制御されない、
謎めいた未知の暗い部分が、誰の心の中にも人知れぬ“辺境地帯”として存在しているのではないでしょ
うか。

 普段は意識しないでおりますが、なにかのはずみでその“魂の辺境地帯”が私たちの人生に突如として
姿を現し、暗い影を投げかけ、生活を脅かすことがあります。飼犬が野犬になるように、いつのまにか私
たちの魂も、罪の衝動の赴くままに本能的な日々を過ごしていることがあるのです。そうしてついに人生
を誤らせることさえあります。とりかえしのつかない罪を犯すこともあるのです。また、希望を持って大
切な事に当たろうとする時に、そのような“魂の辺境地帯”から、その努力をあざ笑うかのように「お前
の存在は無意味だ」という声が響くのです。私たちの人生を虚無と絶望に引きずりこもうとする声が“魂
の辺境地帯”から響くのです。

 夏目漱石に「こころ」という小説があります。学生時代に親友を裏切ってしまった心の葛藤を引きずる
主人公が、その後の人生を虚無と絶望によって支配されてしまう物語です。あの中で主人公は、この暗い
力は自分が行こうとするあらゆる道の前に立ち塞がり、ただ一箇所「死」という道だけを空けておくのだ
と語っています。一人の人間存在を罪の重みが完全に押し潰してしまうまでの一部始終を描いた小説です。
それはまた漱石自身の“魂の辺境地帯”の告白でもありました。

 そこで、今朝のヨハネ伝9章24節以下に登場してくるこの人も、いったい誰の犯した罪の因果によっ
て、お前はこうなったのかと、そう言われ続けてきた暗い人生を歩んできたのでした。キリストの弟子た
ちでさえそのように問うたのです。「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。
本人ですか、それともその両親ですか」と。それに対して主イエスは、かつて世界の誰も聞いたことすら
ない、決定的なお答えをなさいました。その答えは彼をして、新しい喜びの人生を歩ませるものでした。
神が備えておられる喜びの福音の出来事の中に、主は私たちの全存在を招いておられるのです。それこそ
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れ
るためである」との御言葉でした。

 “魂の辺境地帯”はとうてい私たちの手には負えません。それにもかかわらず私たちはそれを自分で背
負いこもうとします。神を見失った結果、自分の罪の全責任を、自分が背負わねばと思いこむのです。そ
れこそ“魂の辺境地帯”の思う壺となります。まさにそのような「魂の辺境」に主イエスは訪れて下さい
ました。主イエスが私たちのもとに来られ、そこではっきりと「生命の福音」を告げて下さったのです。
「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と!。何よりも大切なことは、主はこれをご自身の十
字架の恵みによって語っていて下さるということです。まさにその瞬間、主イエスの十字架の贖いの恵み
によって、私たち人類を堅く捕らえていた“魂の辺境地帯”は暗き力を失い、その闇がことごとく照らさ
れて、そこから私たち全ての者が解放され、真の自由と幸いを得る者に変えられていったのです。

 今朝の御言葉で、主イエスによって見えなかった「まなざし」を開いて戴いた人は、その開かれた「ま
なざし」をもって、主イエスに従う新しい歩みを始めます。主イエスの弟子たる生命の歩みが始まるので
す。“魂の辺境地帯”が罪と死の縄目によって人を神から引き離していたとき、ただ神の御子キリストだけ
がそこにお立ちになり、その暗い力から彼を解き放ち、真の自由を与えて下さったのです。その救われた
喜びのゆえに、生まれ変わった者として、彼は主イエスの弟子たる新しい歩みを、力強く始めてゆくので
す。

 さて、この喜びに満ち溢れる彼を、パリサイ人らが尋問するのです。その意図は何とかしてナザレのイ
エスを罪人として処罰し、十字架にかけることにありました。ところが私たちはここに意外な展開を見ま
す。それは、彼を尋問しているはずのパリサイ人らがいつのまにか、逆に、この人によって、彼によって
問われる立場になるという事実です。すなわち25節を見ますと、彼はパリサイ人らにこう申しているの
です。「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたし
は盲人であったが、今は見えるということです」。なんと見事な答え(信仰告白)でしょうか。事実は全て
の空論にまさるのです。神を見ることができなかった者が神を見、神を信じ神と共に歩む者とされた、こ
の救いの出来事こそ、ナザレのイエスがキリストであることの何より確かな証拠なのです。

 ですから「お前の目はどうして開かれたのだ?」と癒しの理由を問うパリサイ人らに、彼は続く27節
でこう答えています。「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとす
るのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。決して揶揄や皮肉ではありません。彼自
身がキリストの弟子とされたことを心から喜んでいるので、あなたがたも私と同じようにキリストの弟子
になりたいのですか?と素朴に問い返しているのです。もちろんパリサイ人らは「とんでもない、我々は
モーセの弟子だ。あの者がどこから来たのか、我々は知らぬ」と言います。そのパリサイ人らに彼は更に
30節でこう言うのです。「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないと
は、不思議千万です。わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりま
せんが、神を敬い、そのみこころを行なう人の言うことは、聞きいれて下さいます。生れつき盲人であっ
た者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあのかた
が神からきた人でなかったなら、何一つできなかったはずです」。

 これは素晴らしい証しの言葉であり、キリストのみをさし示す「説教」と言っても良いでしょう。初代
教会の人々が経験した救いの喜びが、この30節以下にそのまま現われているのです。神はイエス・キリ
ストによって「世界が始まって以来、聞いたことが」ないほどの救いの御業を私たちに現わして下さいま
した。それは私たちの魂の「まなざし」が開かれ、神を見る者とされ、神と共に歩む者とされた出来事で
す。その「まなざし」において、私たちを虜にていた“魂の辺境地帯”はキリストの支配する場所(神の
栄光の現れる所)に変えられたのです。

 神は実にその独子を賜わったほどにこの世を(神から離れた辺境であった世界そのものを)極みまでも
愛して下さいました。御子イエスによって神の限りない愛が世界に明らかにされたのです。神は御子の十
字架により“魂の辺境地帯”で罪の支配の下にあった私たちを解放し、真の自由と平安を与えて下さいま
した。「あなたがたはこの世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ってい
る」と主は言われました。十字架において私たちの罪を全て贖い取って下さり、復活によって死と滅びに
永遠に勝利された主が、私たちの人生の唯一の救い主であられるのです。だからこそこの人は、その救い
の事実を単純素朴に喜び証しせずにおれなかった。もし彼が黙ったなら石が叫んだことでしょう。あのか
たは神から来たキリストだからこそ、見えないはずの私のこの目を開いて下さった。私はあのかたが「神
のキリスト」であられると信じ、あのかたの弟子として生涯を歩みたいのですと語ったのです。

 この彼を、パリサイ人らはついに追放してしまいます。34節には「おまえは全く罪の中に生れていなが
ら、わたしたちを教えようとするのか」と言い、ついに「彼を外へ追い出した」と記されています。この
「追い出した」とは「会堂」のみならず「社会」から、また人間としてのあらゆる交わりの中から「追放
した」という意味であり、要するにイスラエル社会から「村八分」にしたのです。ここにも、私たちの人
生を支配し続けてきた“魂の辺境地帯”が再び現れるのです。「罪」が実権を掌握し、容赦なくキリスト告
白者の人生に襲いかかるとき、力ずくでもその者をキリストの御手から引き離し、再び滅びへと引きこも
うとするのです。その巧妙な手段として「村八分」というこの世の悲劇を用いるのです。

 使徒パウロは「あなたがたは、キリストのゆえに、ただ彼を信ずるのみならず、彼のために苦しみを受
けることをも、恵みとして賜わっている」と申しました。私たちはこの事実を忘れていることはないでし
ょうか。自分の身が平穏無事な間は喜んで御言葉に耳を傾けるけれども、ひとたび信仰のゆえの苦難がふ
りかかり、不利益なことが起こると、御言葉に耳を塞ぎ、教会から離れ、神の御支配を忘れて、再び“魂
の辺境地帯”へと逆戻りしてしまうことはないでしょうか。それは、むしろ逆であるとパウロは言うので
す。私たちが神に愛されている証拠は、私たちが平穏無事なことではない。むしろ神は、私たちを御国に
相応しい者と認めておられるからこそ、キリストのゆえに苦しみをも恵みとして賜わっている。そのよう
にパウロは申すのです。ここでこの人が見ていた「恵み」もまさしくそれでした。「たとえ父母われを捨つ
るとも、主、われを迎えたまわん」。この恵みの事実において彼は、どのような境遇にあってもキリストの
弟子としての歩みを変えなかったのです。闇はもはや彼の人生を支配しえなのです。「罪」は彼の人生の主
とはなりえないからです。キリストを信じて教会に連なって生きる私たちを、もはや罪の闇は支配しえな
いのです。

 主イエスは「罪」の唯一の贖い主、私たちの人生の慰め深き導き手として、幾度でも私たちに出会いた
まい、私たちの「辺境」を「神の栄光の現れる場所」に変えて下さるかたなのです。私たちの生きる限り、
御言葉によって養い、恵みの支配のもとに幾度でも立ち上がらせて下さるのです。それこそが35節以下
の御言葉です「イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、『あな
たは人の子を信じるか』。彼は答えて言った、『主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが』。
イエスは彼に言われた、『あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である』。
すると彼は、『主よ、信じます』と言って、イエスを拝した」。

 この35節以下の御言葉の背景には、当時のイスラエル社会において、キリストを信じて洗礼を受け、
教会員になったことによって、全ての人が例外なく社会から追放され、職を失い、家族を引き離された、
辛い迫害の出来事があったのです。しかしキリスト者はそこで世捨て人の教会を建てようとはしなかった。
むしろ私たちはそこでこそ、キリストの御臨在の恵みを仰ぐ新たな生活を始めるのです。神の前に「辺境」
でしかありえなかった私たちの魂、そして私たちのこの社会、この人類の救いのために、主はご自身の全
てを献げ尽くして下さり、そこに私たちの教会は建てられました。ここに連なる私たちは、キリストの御
手からこの世へと(この世のわざへと)人々のもとに遣わされてゆくのです。

 私たちは教会から、キリストの平安に護られて、この世へと遣わされてゆきます。この礼拝はこの世か
ら逃れる避難所などではなく、私たちが御言葉による新しい生命を戴き、心を高く上げて主の御支配のも
とに生き続け、主の御身体の枝としてこの世へと遣わされてゆく幸いです。そのとき、もはやこの世界の
どこに生きようとも、暗闇は私たちの「主」とはなりえず、キリストが唯一永遠の「主」として私たちの
全存在を照らし、導いて下さいます。キリストが私たちに出会われ、私たちと共にいて下さるからです。
「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」と主は告げて下さい
ます。それゆえ今朝のこの人と共に、私たちも告白するのです。「主よ、信じます」と。祈りましょう。