説    教    列王記下4章42〜44節  マルコ福音書8章1〜10節

「主よ生命の御糧を」
2018・11・04(説教18441774)

 主イエス・キリストが行なわれた奇跡の中で、私たちに最も印象ぶかいものの一つは、主ガリラヤ湖
の畔で何千人もの人々に食物をお与えになった、いわゆる「給食の奇跡」と呼ばれる出来事ではないで
しょうか。今朝お読みしたマルコ伝の中にも6章30節以下と今朝の8章1節以下の2箇所に、この「給
食の奇跡」が詳しく告げられています。 そこで、このいずれの場面にも共通することは、その奇跡が
共にガリラヤ湖の東岸に位置する「デカポリス」と呼ばれた地方で行われていることです。今日でもそ
うですが、主イエスのおられた時代、ガリラヤ湖の東岸「デカポリス」地方は本当に淋しい場所でした。
「デカポリス」とは「十の街」という意味なのですが、その名に反してそこには人家や町などは全く無
く、ただ湖に沿った崖の中腹に見捨てられた墓地などがあるばかりの、いわば辺境の地でした。

 そこで、今朝の御言葉の少し前の7章31節を見ますと、主イエスは「ツロの地方を去り、シドンを
経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた」とあります。これはツロからガリラヤ湖
に行くにはとても不自然なルートです。というよりも、淋しいデカポリスを敢えて通ろうとする旅人は
いませんでした。だから主イエスは意図的に通常のルートではない、敢えてデカポリスを通る道をお選
びになってガリラヤ湖に来られたということがわかるのです。これは何を意味するのでしょうか?。

 それは、主イエスは私たちの魂の大通りばかりではなく、淋しく見捨てられた、辺境の地をお訪ね下
さるかたなのです。主イエスがこの「給食の奇跡」を2度までも行いたもうたのは、主ご自身よほどそ
こに深い御心を注いでおられたからでしょう。そして、その主の御心に応えるように、マルコ伝とマタ
イ伝は「五千人」と「四千人」という人数の違いこそあれ、内容においては殆ど同じこの2つの奇跡を
少しも省略することなく、まことに丁寧に書き記しているのです。それは既に初代教会の人々が礼拝の
たびごとに、この「給食の奇跡」の出来事を深く心にとめていたことを示すものです。

 何よりも主イエスご自身、私たちと共に食事をすること、私たちに食物をお与えになることを、大き
な喜びとして下さいました。「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて救うためであ
る」と主ははっきり宣言して下さいました。あの取税人ザアカイの物語においても、主はその食卓にお
いて救いの御業を現わして下さったのです。失われていた者が見いだされ、死んでいた者がよみがえり
の生命にあずかったのは、主が共に囲んで下さった食卓においてでした。十字架の出来事ののち、エマ
オへの道を急ぐ2人の弟子に御姿を現わして下さったのも、夕べの食卓における出来事でした。そして
主の復活の証人となった弟子たちに、主はしばしばご自身を現わしたまい、そこでも食卓を共にして下
さいました。主イエスと共に食卓を囲むことは、主イエスに贖われ、主イエスの与えて下さる御糧に共
にあずかり、主イエスと共に生きる教会の交わり(聖徒の交わり)の姿を具体的に現すものです。

 カール・バルトという神学者は、教会の礼拝堂には一個のテーブルと人数分の椅子があれば十分であ
ると語っています。復活の主の証人となった弟子たちが最初に整えた初代教会の礼拝において、礼拝堂
の中心に置かれたものはまさに聖餐の食卓(一個のテーブル)のみでした。そこから聖書(神の言葉) が朗
読され、説教(御言葉の解き明かし)がなされ、そしてパンと葡萄酒(主の御身体と御血潮)が配られたので
す。私たちのこの礼拝堂は幸いなことに八角形ですが、初代教会においても、全会衆が主の食卓を取り
囲むようにして「生命の御糧」なる神の御言葉にあずかったのです。初代教会の人々がこのように“主
の食卓”を囲んで喜びと感謝の礼拝を献げたとき、その中にはかつてこのデカポリスにおける「給食の
奇跡」を実際に経験した人たちが含まれていたに違いありません。それらの人々はそれこそ幾度でも、
主の御手から親しく生命のパンを戴いたあの日の喜びを生き生きと語ったに違いないのです。また、主
の弟子とされた使徒たちは、聖餐の食卓に仕える幸いの中で、かつて主の御手から配るようにと委ねら
れたパンや魚の感触を繰返し思い起こしたことでありましょう。

 私たちが礼拝で聖餐の恵みにあずかるとき、聖餐制定の御言葉として第一コリント書11章23節以下
を必ず朗読します。「主イエス渡されたまふ夜、パンを取り、祝してこれを裂き、しかして言ひたまふ。
これは汝らのためのわが身体なり。わが記念としてこれを行なへ」。お気づきになった人もあると思いま
すが、今朝お読みしたマルコ伝8章6節にもこれとほぼ同じ御言葉があります。「そして七つのパンを
取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群集に配った」。
ここに改めて示されている幸いは、私たちが教会において共にあずかる御言葉の生命の糧は、それは現
臨したもう主ご自身が祝福し、与えて下さるものだということです。そしてその祝福の基こそ、主が私
たちの罪のために担われた十字架にほかならないのです。

 主イエスは何よりもご自身みずからを“贖いの犠牲”として献げ尽くされることにより、ご自身その
ものを、私たちの受くべき「生命のパン」としてお裂きになったのです。聖餐において配られるパンは、
私たちのために裂かれた主の御身体であり、ぶどう酒は、私たちのために流されし主の御血潮です。こ
の事実は、いっけん長閑に見えるガリラヤ湖畔での「給食の奇跡」が「墓場」のある場所で行なわれた
事実を改めて私たちの心に示すものです。私たちがそこで戴く“生命の御糧”は主の厳かな十字架の贖
い(私たちのための神の傷ましき手続き)に裏付けられているのです。僅かに七つのパンで数千人もの
人々の空腹を満たされたというだけの出来事ではないのです。

 何よりもそれは、この奇跡の御業に接する私たち一人びとりへの、主イエスからの問いかけなのです。
主は愛する弟子たち一人びとりにいま問いかけておられる。今朝の御言葉を終わりの21節まで読むと
はっきりわかります。この中で主は繰返し「なぜ悟らないのか」と問うておられる。特に最後の21節
を見ますと「まだ悟らないのか」という鋭い問いになっています。弟子たちにとって、まことに厳しい
思い出が結びついている出来事、それがこの「給食の奇跡」なのです。

 振り返って、マルコ伝を俯瞰してみますと、既に4章において主イエスは「神の国の譬」を弟子たち
に説き明かされました。「種まきの譬」と呼ばれる有名な物語です。その11節で主は弟子たちにこう言
われました。「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語ら
れる。それは、彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされること
がないためである」。ここにも「聞くには聞くが、悟らない」という言葉が出てきます。つまり今朝の8
節に至って主イエスは「あなたがたも、ほかの人たちのように、悟らない者なのか」と、弟子たち一人
びとりに問うておられるのです。キリストを信じ、主に従っているはずの私たちもまた、いつの間にか
パリサイ人やヘロデの仲間と同じように、福音を聴くことなく、御言葉に砕かれることのない「悟り」
のない者になってしまってはいないか。主か問うておられるのはまさにそのことです。

 それゆえにこそ、今朝の8章17節以下には、まことに厳しい主の御言葉が繰返されています。「なぜ、
パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍く
なっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。また思い出さないのか」。
私たちは驚くほどです。これほどの厳しい問責を主イエスが弟子たちになさっていることに。主イエス
はお問いになる。あながたはただパンを食べて空腹を満たしただけなのか。もしそうならば、あなたが
たもまたあのパリサイの輩と何の違いもないではないか。「悟りなき人々」と何の変わりもないではない
かと、主は言われるのであります。

 いったい弟子たちは、何を見損ねたのでしょう。何を聴き損ねたのでしょう。先ほど、このマルコ伝
の6章と8章の「給食の奇跡」は殆ど同じ御言葉だと申しました。しかし丁寧に読んでみますと、実は
今朝の8章の御言葉には特筆すべき事があることに気が付きます。それは主イエスが弟子たちをみもと
に呼び寄せて、食物がないまま荒野の中で弱り果てている群集を限りなく憐れみ、弟子たちに「この群
集がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。もし、彼らを
空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱りきってしまうであろう」と言われたことです。主はここでは
っきりと飢えた群集を「かわいそうである」と言われました。文語訳の聖書では「我この群集を憐れむ」
となっています。

 まことに主は「大勢の群集をご覧になって、飼う者のない羊の群れのような、その有様を深く憐れま
れた」のです。既に主イエスの宣教の御業そのものが、大いなる憐れみの現われなのです。旧約聖書の
イザヤ書やエレミヤ書では「憐れみ」とは、愛する者の滅びをわが身に引き受ける「苦難」を意味しま
す。腸(はらわた)を引き裂くほどの激しい愛が「憐れみ」なのです。失われた者を見いだすために、死
せる者を甦らせるために、自分の存在の全てを注ぎ尽くすこと、それを聖書では「憐れみ」と呼ぶので
す。

 あのルカ伝10章25節以下の「よきサマリヤ人の譬」の中でも、傷つき倒れ、死に瀕したユダヤ人(敵
でしかない者)を救うために、一人のサマリヤ人が「憐れに思って近づき」その人に救いの手を差し伸べ
るのです。このサマリヤ人の姿こそ、私たちに対する主イエスの無償の愛と憐れみの御心を語るもので
す。その主の「憐れみ」が歴史の中に受肉と十字架を通して現わされるとき、そこに確かな私たちの「救
い」が起ります。神から離れ、失われていた私たちが見出され、復活の主の生命を戴いた者として、新
たな平安の人生がそこに始まるのです。つまり、主は私たちを断じて空腹のまま帰らせたまわない。ご
自身の生命そのものを、私たちの生命の御糧として、与え尽くして下さるのです。そのためにこそ、弟
子たち(私たちの教会)を主の大いなる「憐れみ」に仕える僕としてお用い下さるのです。

 弟子たちから見れば、自分たちが持っているものは「パンが七つ」にすぎませんでした。飢えた大群
衆を前にこれが何の役に立つかと思ったことでした。弟子たちは自分たちの乏しさと辺境デカポリスの
寂しさだけに囚われ、自分たちの可能性だけを斟酌し、諦め、絶望し、不平不満を述べはじめるのです。
十字架の贖いの主が、勝利のキリストが、共にいます恵みを見失っているのです。自分たちの力だけに
頼り、主の御力に頼ろうとはしないのです。「まだ悟らないのか」と主が問われるのは、そのためなので
す。この弟子たちの姿は、私たち自身の姿でもあります。私たちもまた御言葉を聴き続ける生活の中で、
いつの間にか御言葉の力を侮り、自分の現実はこうで、御言葉は役に立たないと、不平不満を述べはじ
めることがないでしょうか。キリストが「主」であられることを忘れてしまうのではないでしょうか。
キリストを傍観する立場に自分を置き、悔い改めなしに御言葉を聴く者になっていないでしょうか?。

 まさにそこに、そのような私たちの魂のデカポリスにこそ、キリストの「憐れみ」が現れているので
す。まさに私たちの現実のただ中で「まだ悟らないのか」と語りたもう主のみが、私たちの一切の罪を
背負うて十字架への道を歩んで下さったのです。主は私たち一人びとりに明確に語って下さいます。「あ
なたのためにこそ、私は永遠の生命の食卓をここに備えている」と!。まさに主はこの食卓を備えるた
めに十字架におかかり下さった。この食卓の主はキリストご自身です。そこで問題なのは、もはや私た
ちの弱さや乏しさなどではない。弱いならば、その弱さのままに、乏しいならば、パン七つのままに、
私のもとに来ればよいと、主は語っていて下さるのです。

 それゆえ、いま私たちは、主イエスが生命を献げ尽くして備えて下さった生命の御糧のもとに、私た
ちの生命ある限り、否、死を超えてまでも、共に連なり続けて参ろうではありませんか。主はいま、私
たちに豊かに「生命の御糧」を与えて下さるのです。祈りましょう。