説    教   イザヤ書40章1〜5節  ヨハネ福音書11章38〜44節

「ラザロの甦り」
2018・10・28(説教18431773)

 この世界にもし“意味のない行い”があるとすれば、今朝の御言葉に記された主イエスの行いこそ、
まさにそれだと思われたことでした。実際それは多くの人々の目に、否、弟子たちの眼にさえも,全く
“意味のない行い”だと映りました。マルタとマリアの必死の訴えにもかかわらず、主イエスがベタニ
ヤの村に来られたのは、ラザロが死んで墓に納められ既に3日後のことでした。「時すでに遅し」と村
中の人々が想いました。いまさらラザロの墓に主イエスが行かれたからとて、そこにいったい何の意味
があるのかと全ての人たちが思ったのです。

 譬えて言うならそれは、病人が死んで3日も経ってから、ようやく医者が駆けつけて来たようなもの
です。誰がその医者の来訪を喜ぶでしょうか。そこに何の意味があるのでしょうか?。現に人々は37
節にあるように「あの目の不自由な人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できな
かったのか」と口々に語り合ったのでした。そこには主イエスといえども「人間の死の現実の前には無
力なのだ」という人々の諦めの気持ちが現れています。人々は主イエスの涙をも、死んだラザロへの哀
惜の涙としか理解できなかったのです。

 しかし主イエスは、そのような人々の思惑の中を、愛するラザロの墓へと毅然として歩まれます。38
節を見ますと「イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた」とあります。「激しく感動して」とある
御言葉を「イエスは武者震いをせられたり」と訳した人がいます。的確な訳です。罪と死に勝利された
唯一の真の神の御子として、いま主イエスはラザロの遺体を埋葬した墓地に来られ、そこで「武者震い
をされた」のです。その墓は「洞穴であって、そこに石がはめて」ありました。古代イスラエルの墓は
ちょうど「ほら穴」のような仕組みになっていて、その奥に香料を塗り亜麻布で包んだ遺体を安置しま
した。洞穴の入口は大きな円盤型の石でしっかりと封印しました。「そこに石がはめてあった」というの
は、その大きな石のことをさしています。直径2メートルほどもあるその石は大人4人がかりでようや
く動かせる、とても重いものでした。

 ですから主イエスが「石を取りのけなさい」と命じたもうたとき、人々は耳を疑ったことでした。イ
スラエルの、いな人類の歴史はじまって以来、誰がそのようなことを命じたでしょうか。思わず姉のマ
ルタは主に申しました。「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。事実ラザロの遺
体は腐敗を始めており、石の隙間からは死臭が漏れていたのです。まさにその死臭の中で、主イエスは
「墓の入口を開けなさい」とお命じになるのです。人々の驚きと戸惑いのただ中で、主はマルタに言わ
れます。40節です。「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。同じヨ
ハネ伝11章23節以下を見ますと「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と主はマルタに言われ、それ
に対してマルタは27節に「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子である
と信じております」と告白しています。いま主イエスはマルタにその信仰告白を改めて問い直されるの
です。

 あなたはいま、その告白に健やかに立っているか。あなたはいま、なにに心を奪われているのか。主
は改めてマルタに問いただされます。事実マルタはあたり一面にたちこめる死臭に心を奪われ、圧倒的
な死の現実の前に茫然自失していました。主イエスの御姿が見えなくなっていたのです。主イエスの御
声が聴こえなくなっていたのです。私たちにも同じことがないでしょうか。日々の生活の中で、悲しみ
や苦しみに心が押し潰されるとき、思わぬ苦労や悩みに心が乱されるとき、私たちは主イエスにではな
く、震え慄く自分の姿にのみ心奪われ、動かしえぬ墓石のような現実の前に呆然と立ち尽くしてしまう
のではないか。私たちこそ主の御姿を見失い、主の御声を聴きえない者になっているのではないか。昔
から「苦しい時の神頼み」と申しますが、むしろ私たちの本当の問題は「苦しい時の神離れ」になって
しまうことです。苦しみや悩みの中でキリストに拠り頼むのではなく、逆にキリストから離れ信仰を失
ってしまう、そのような私たちの罪の姿こそ本当の問題なのです。

 「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」と、主イエスはマルタに宣言して下さいました。「神の栄
光」とか「神の主権」という言葉は、現代社会には人気が無い文言です。人受けがする言葉ではありま
せん。それよりはキリストの「愛」や「優しさ」を語って欲しいと願うのが現代人です。しかし聖書は
紛れもなく「神の栄光」を私たち全ての者の“救い”の出来事として語ります。私たちの真の救いは、
私たちが「神の栄光」「神の主権」のもとに新たにされることにあるのです。キリストの「愛」キリスト
の「優しさ」は、罪と死の現実に対して無力な「愛」や「優しさ」ではなく、まさに「神の栄光」「神の
主権」における永遠の「愛」であるゆえに、それは死に打ち勝ちたもう勝利の御力なのです。たちこめ
る死臭をもものともせず、墓の入口を「開けなさい」とお命じになるかたの「優しさ」なのです。

 ヨハネ伝をよく読みますと、主イエスは「栄光を受ける」という言葉を、ご自分の十字架の死をさし
て語っておられるということがわかります。それはご自分のための「栄光」ではなく、私たちの罪の贖
いと永遠の生命のための「栄光」なのです。それならば「神の栄光を見るであろう」と主がマルタに言
われたのは、まさにあなたは兄弟ラザロの“救い”の出来事を見るであろうという意味です。信仰とは
「望みに反してなお信ずること」です。神の御手に自分を明け渡すことです。キリストの御業を受け入
れることです。そのように、いまマルタは信じる者として立つのです。キリストに自分を明け渡す者と
して、愛するラザロの墓前に立つのです。「わたしはよみがえりであり、命である」と告げたもうた主の
御言葉を信じるのです。

 いまや人々は、主が命じたもうたように、ラザロの墓を封印していた大きな石を「取りのけ」ます。
私たちも主の御言葉によって、心の封印を開いて戴こうではありませんか。実は、死んでから四日も経
ち「死臭」を放っていたラザロの姿こそ、まぎれもなく私たち自身の姿なのです。この「死臭」とは私
たちの「罪と死の香り」です。私たちは「キリストの香り」ではなく「罪と死の香り」を放っていた存
在でした。死臭芬々たる存在でした。死んでから「四日間」も墓に置かれていた存在でした。それは私
たちの救いの可能性がゼロであることです。「四日」という日数はユダヤ人にとって「死の完成」を意味
しました。同じように私たち人間も罪によって、完全な死の支配のもとにいる存在なのです。死の主権
が、私たちの上に勝利の凱歌を上げているのを、如何ともなしえないのです。まことに、その恐るべき
罪と死の支配のただ中で、ただ主イエスお一人が「目を天にむけて」祈って下さいます。その祈りはこ
うです。「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞
きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あ
なたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。父なる神と御子なる主イエスとの間
には完全な一致があります。御父の思いは主イエスの御心であり、主イエスの思いは父なる神の御心で
す。その主イエスが私たちに神の限りない愛をはっきりと教えて下さるために、主はそこに福音の御言
葉を用いて下さいました。

 父と御子と聖霊との完全な愛の交わり、すなわち神の永遠の主権こそが私たちを死の主権から解き放
ち、自由な者とし、まことの生命を与えるものなのです。いま主イエスはその“神の主権”を私たちの
ただ中に確立して下さる唯一のキリストとして、愛するラザロの墓前に立ち祈りを献げたまいます。そ
してまさにその主権において高らかに宣言されるのです。43節以下です「こう言いながら、大声で『ラ
ザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたま
ま、出てきた。イエスは人々に言われた、『彼をほどいてやって、帰らせなさい』」。

 ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主人公であるラスコリニコフは虚無的な思想に捕らわれ、無意
味な殺人を犯します。しかし自責の念に駆られ、彼は自分の行いを悔いるのです。そんなときソーニャ
という少女に出会います。ある晩ソーニャは聖書のこの御言葉をラスコリニコフに読み聴かせるのです。
聴き終えたラスコリニコフはソーニャに訊ねます「これは本当のことなのか。本当に主はこのことをな
さったのか」。ソーニャは喜びに心を躍らせつつ答えます「ええ、そうですとも、みんな本当のことです。
神様はあなたをも、同じようによみがえらせて下さいます」。まさにその瞬間、ラスコリニコフの魂の放
浪は終わりを告げるのです。キリストの主権に結ばれて自らの罪を神に告白し、キリストに贖われた新
しい人生がそこから始まっていったのです。主イエスの御声が、私たちを支配している墓のような「罪」
の現実に宣べ伝えられるとき、そこに「神の栄光」が現われるのです。私たちの「救い」が起こるので
す。生命なき者がキリストの新しい生命に甦らされ、神を讃美なしえぬ者が神の御名を讃めたたえ、何
の希望もありえなかった者が主の御力によって立ち上がり、主と共に歩む者とされてゆくのです。

 主は墓から出てきたラザロを抱き「彼をほどいてやって、帰らせなさい」と人々にお命じになりまし
た。死装束は人々が着せたものです。しかしラザロはいまキリストの限りない“義”の衣を着た者とし
て甦りの生命に生き始めます。キリストを着た者にもはや死装束など必要ないのです。そしてそこでも、
ソーニャがラスコリニコフに語ったのと同じ救いが私たちの身にも起こります。私たちはキリストの十
字架によって全ての罪を贖われ「義の衣」を着せて戴いた者たちなのです。そのような者としてこの教
会に連なっているのです。死の主権はキリストの前に砕かれたのです。キリストの恵みの主権のみが、
私たちの永遠の生命なのです。

 ラザロの復活の出来事は、主に結ばれた私たち一人びとりの復活の出来事です。このとき墓から出て
きたラザロも、やがては年老いて死にました。しかしその死はもはや彼を支配する最後の力ではありえ
ず、ラザロはキリストに贖われた者として、永遠の生命、復活の生命に満たされ、初代教会に仕えて生
きる者となったのです。肉体の死をも生命に変えて下さるキリストの生命に生かされて、ラザロは主の
キリストの身体に連なる者とされたのです。肉体を生かすものが霊であるならば、キリストの身体を生
かすものは聖霊です。教会を教会たらしめる聖霊によって、ラザロは、否、私たちは、キリストによる
「永遠の生命」をいま与えられているのです。

 私たちはいま、何を着てここに集うていますか?。今なお死装束を身につけていることはないでしょ
うか?。主は私たちを墓から呼び出して下さるのです。ここで私たちが着せて戴くのは「キリストの義」
です。なぜなら、いまあなたのために墓に主の御声が響いているからです。「ラザロよ、出できたれ」と。
そこに私たちみずからの名をあてはめる幸いを与えられています。私たちこそ主の御声を聴いて喜びの
生命を歩む者とされているのです。そこに私たちの本当の幸いがあり、いかなる時にも変わることのな
い慰めと平安があるのです。祈りましょう。