説    教     詩篇116篇8節   ヨハネ福音書11章31〜37節

「主イエス涙したもう」
2018・10・21(説教18421772)

 私たちはどのような時に涙を流すでしょうか。悲しい涙、嬉し涙、悔し涙、意味もなく流れる涙…。私
たち人間には、色々な種類の涙があります。フランス改革派教会の長老の家庭に育ち、後に“アフリカの
使徒”と呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァーが自伝の中で、5歳の時の涙の思い出を書いています。
ある日とても泣きたくなることがあって、家の外を歩いていたとき、心配そうに見つめる大人の視線に気
がついた。その視線と目が合った瞬間、思わず大声をあげて泣きそうになった。ところがそのときシュヴ
ァイツアー少年は心の中ではっきりと声がしたのを感じました「それは、恥ずかしいことだ」。人に見られ
るため、人の同情を引くために涙を流すことは「恥ずかしいことだ」。この心の声を意識した時から、自分
は二度と自分のために(人に見られるために)涙を流すまいと心に堅く誓ったとシュヴァイツァーは語っ
ています。

 これはもちろん特別なことでしょう。5歳の少年が抱いた感情としては極めて異例のことで、天才シュ
ヴァイツァーならではの経験と言えるかもしれません。しかし、私たちの流す涙にはたとえ大人であって
も、しばしば「自分のため」という要素が入り混じっていることは事実なのではないでしょうか。それを
「恥ずかしいこと」と思えるか否かは別として、私たちは自分のために涙を流すことはあっても、純粋に
人のため他者のために涙を流すということは、意外と少ないのではないかと思うのです。

 今朝、拝読したヨハネ伝11章28節以下において、私たちは非常に印象ぶかい御言葉に出会います。そ
れは35節に主イエスが「涙を流された」と記されていることです。実は新約聖書の中で主イエスが「涙」
を流されたと記されている箇所は、今朝のこの御言葉とルカ伝19章41節の2箇所だけです。原文は「ダ
クリュオー」というギリシヤ語です。まずルカ伝19章41節には、十字架を目前にされた主イエスが、オ
リブ山の上からエルサレムの市街を見渡したまい、そこでエルサレムに住む全ての人々のために涙を流さ
れたことが記されています。「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、
『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠
されている』」。主はこのように言われて、エルサレムの全ての人々の救いのために涙を流されたのです。

 そして二番目の「ダクリュオー」が今朝の御言葉です。弟子たちにとって、それは非常に印象ぶかい出
来事でした。主がベタニヤ村の人々に案内されて愛するラザロの墓の前にお立ちになったとき、主の目か
ら涙が流れたことを、弟子たちと居合わせた人々は観たのです。36節を見ますと、ユダヤ人たちはその主
イエスの「涙」を見て「ああ、なんと彼を(ラザロを)愛しておられたことか」と語り合ったと記されて
います。しかしそれと同時に37節にはこうも記されています。「しかし、彼らのある人たちは言った、『あ
の盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか』」。

 ここには、主イエスの前での私たち人間の偽りなき姿が現れています。主イエスの目から流れる「涙」
に人間的な感動を覚えつつも、そこでなお不信仰の心でしか主イエスを見つめていない私たちの姿です。
ひとつの例を挙げましょう。私たちはルカ伝10章の「善きサマリヤ人の譬」を読んで何を感じるでしょ
うか。強盗に襲われて道端に倒れ、死を待つばかりのユダヤ人の旅人がいた。祭司もレビ人もその旅人を
見て見ぬふりをして去って行った。ただひとり不倶戴天の敵であるサマリヤ人だけが、その傷ついたユダ
ヤ人に心から同情し、駆け寄って傷の手当てをし、宿に連れて行って夜どおし介抱し、翌朝宿の主人に少
なからぬ金を渡して「どうかこの傷ついた人の世話をして下さい。もしお金が足りなかったら帰りがけに
私が必ず支払います」と言い残し、名前も告げずに立ち去って行ったのです。主イエスは言われます「誰
がこの傷ついた人の“隣人”になったと思うか」と。答えは明白でしょう。この最後のサマリヤ人こそ、
傷ついた人の“隣人”になったのです。そして主は「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われま
す。

 これを聞いて私たちは思うのです。そうだ、自分を中心に物事を考えてはいけない。いつも人の立場に
なって考えなければならない。人には親切にしてあげなくてはならない。主イエスというかたは、なんと
素晴らしい人類愛の教師であろう。自分も主イエスに倣って愛のわざに生きたいものだと。そのときなお
私たちは、この譬えの最も大切なメッセージを聞き失っています。それは、このサマリヤ人は主イエスの
御姿そのものであるということです。そして、傷つき倒れ死を待つばかりの旅人は私たちの姿だというこ
とです。ユダヤ人にとってサマリヤ人は不倶戴天の敵でした。同じように私たちは「罪」によって神に敵
対し、徹底的に御言葉に背き、滅びるばかりの者でした。そのような私たちのもとに「罪」という名の隔
ての中垣を越えて、全てを献げて駆けつけ、ご自分の御傷をもって私たちを癒し、ご自分の死をもって私
たちを活かして下さったかた(主イエス・キリスト)がおられる。それこそが「善きサマリヤ人の譬え」
の中心的メッセージなのです。

 すると、どういうことになるのでしょうか。主が言われる「あなたも行って、同じようにしなさい」と
は、単なる博愛主義や道徳の勧めではなく、主イエスを信じ、主イエスを仰ぎ、主イエスに従う、キリス
ト中心の信仰生活への招きなのです。神の隣人ではありえなかった私たちが、主イエスの十字架による罪
の贖いによって、神の愛する「子」とならせて戴いたという恵みの宣言なのです。だから、そこに響き渡
っている主の御声は「あなたにはこれができるか?」という行いへの誡めではなく「あなたは私を信じる
か」という信仰への招きであり、十字架と復活によって、罪と死のあらゆる支配に勝利され、その勝利の
中に教会を通して私たちを連ならせて下さる、主イエスの恵みの主権を明らかにするものです。そりと同
じように、主イエスの流された「涙」は、単なる博愛主義から来たものではありません。

 主イエスはご自分のために涙を流しませんでした。主イエスの涙はいつも 私たちの罪からの救いと生
命のための「涙」であり、漠寂たる死の現実に対して流された惜別の涙とは違うのです。私たちは死の現
実に対して沈黙するしかありません。主イエスをお迎えしてさえ、なおそこで私たちは「あの盲人の目を
あけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」と呟くほかはない者たちなのです。
そこでこそ大切な唯一のことは、私たちにとって全ての言葉が空しくなる“死”という現実のただ中に、
ただひとり主イエスのみが、生命の御言葉をもって、生命の主そのものとして、いまここに来て下さった
という事実です。主はそこで御自分の御傷をもって私たちのあらゆる傷を癒し、ご自分の死をもって私た
ちを罪と死から贖い、何の功もなき私たちを“永遠の生命”(三位一体なる神との、永遠の愛の交わり)へ
と回復して下さるのです。主イエスは、まさにそのような私たちの救いのために、熱き「涙」を流して下
さった。ご自分のために一度も涙されたことのないかたが、ただ私たちの「罪」という名の墓前で「涙」
を流して下さった。この事実こそ、私たちに対する主イエスの救いの確かさ、そして真実なることを証し
ているのです。

 墓には何の希望もないはずです。墓は私たち人間にとって人生の、いや生命の終着点です。終着点とは
もうその先に線路はない(希望はない)ということです。だからこそマリアもマルタと同様に主に申したの
です。32節です「マリアは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、
『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう』」。残念ですが遅
いのですと訴えるのです。だから全ての人々が「涙」に暮れているのです。33節にこうあるとおりです。
「イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく
感動し、また心を騒がせ、そして言われた、『彼をどこに置いたのか』。彼らはイエスに言った、『主よ、き
て、ごらん下さい』」。 主イエスが「涙を流された」のは、まさにそこにおいでした。死んでから四日間
も墓の中に「置かれ」ていたラザロに何の希望がありうるか。しかし主イエスは、まさにその絶望と虚無
のただ中で「涙」を流したもうたのです。

 33節に、主イエスが「激しく感動し、また心を騒がせ」とあるのは、直訳すれば「苛立ち、心を乱され
た」ということです。ある人がこの御言葉を「主イエスは武者震いをされた」と訳しています。まことに
ここで主イエスは武者震いをしておられる。私たちを、そして世界を支配している罪と死の力に対して、
主イエスのみが救いの権威をもって対峙しておられる。私たちを滅びへと引きこむ罪の力に対して、主イ
エスのみが決然と立ち向かっておられる。誰が墓の前に立って「武者震い」しうるでしょうか。うな垂れ
るのではなく毅然としてまなざしを墓に注ぎ、罪と死の支配に対して永遠に勝利された唯一の主として、
主は私たちのために「激しく感動し、また心を騒がせ」「涙を流された」のです。

 旧約聖書の詩篇102篇9節に「わたしは灰をパンのように食べ、わたしの飲み物に涙を交えました」と
あります。私たちはここに、主イエスのゲツセマネの祈りを思い起こすのです。永遠なる神の子が徹底的
に謙りたまい、人となられて全人類の罪の重荷を背負われ、あのゲツセマネの園に臨みたもうたことです。
そこで主は祈られました「父よ、できうればこの杯をわれより取り去りたまえ。されどわが意にあらで、
ただ御心をなしたまえ」と。主はまさに「灰をパンのように食べ……飲み物に涙を交え」て下さったので
す。私たちの罪の贖いのために「涙」したもうた主は、ご自分が飲むべき苦難の杯にその「涙」を混ぜて、
最後の一滴までも飲み尽くして下さったのです。それがあの十字架の出来事です。するとどうなのでしょ
うか。まさに今朝の35節の御言葉は、十字架の主イエス・キリストの贖いの恵みを示しているのです。
聖書が示す真の神は、私たちのためにあらゆる苦難を担われ「涙」を流され、その「涙」の杯(十字架)を
飲み尽くして下さったかたなのです。みずから私たちの罪のどん底にまでお降りになって、そこで私たち
の全存在の重みを受け止め、生命へとよみがえらせて下さる神なのです。

 私たちは、そのかたを「まことの神」「主イエス・キリストの父なる神」「世界の創造主」「救い主」と信
じ告白し、全世界にある主に結ばれた公同の聖なる、唯一の使徒的なる教会と共に、ただ神にのみ栄光あ
れと讃美と感謝を献げつつ、御子イエス・キリストが聖霊によっていま世界になしたもう救いの御業に、
教会に連なることによって共にあずかり、主に仕える僕とならせて戴いているのです。主は「涙」をもっ
て私たちのただ中に福音を告げて下さいました。何の希望もなく見捨てられていたラザロの墓に向かって、
主は「涙」と共に生命の御言葉を語り告げて下さいました。そこに私たちの思いを遥かに超えた救いの出
来事が起こります。墓の中に復活の出来事が起こります。「ラザロよ出できたれ」との主の御声に応えて、
私たちの「墓」から復活の喜びの声が響きわたる時が来るのです。神の国における永遠の喜びと祝福に、
死にたる者たちがあずかる時が、いま来ているのです。まさにここに連なっている私たち一人びとりが、
涙したもう主の救いの御業に、いま共にあずかる者とされているのです。祈りましょう。