説    教     哀歌3章37〜42節    ルカ福音書5章1〜11節

「主に立ち帰ろう」 於・焼津教会
2018・09・30(説教18391769)

 今朝、私たちは、旧約聖書の哀歌3章37節以下の御言葉を与えられました。「哀歌」とはその名の示す
ように「哀しみの歌」という意味です。「嘆きの歌」とも訳されます。かつてイスラエルの都エルサレムが
敵国バビロニアによって侵略され、滅ぼされたとき、その廃墟の中で生れた「哀しみの歌」が哀歌です。
本来は限りない哀しみの歌が、整った詩歌の形を取るようになったのは、イスラエルの歴史の中で哀歌が、
エルサレム滅亡と復興の記念礼拝における讃美歌として歌わるようになったからです。神を讃美する讃美
の歌声と、私たちの罪を悔いる哀しみの祈りが、ここでは渾然一体となっているのです。

 さて、哀歌は昔の文語訳では「エレミヤ哀歌」と呼ばれていました。つまり明確に預言者エレミヤの預
言の言葉とされていたのです。口語訳ではただの「哀歌」となったわけですが、やはり哀歌はその内容か
ら申しまして、預言者エレミヤとの深い関係を無視することはできないのです。紀元前586年、南王国ユ
ダがバビロニアの王ネブカドネツァルによって滅ぼされ、国中の主だった人々がみな、バビロニアに奴隷
として連れ去られる民族的悲劇が起こりました。有名な「バビロン捕囚」の出来事です。この壊滅的な苦
難の渦中にあって、預言者エレミヤは、そこに単なる歴史の一事件ではなく、神が私たちにお下しになっ
た「審き」の御業を見ました。

 古代の戦争においては、ひとつの国が戦争に負けることは、その国が信じている神の敗北を意味しまし
た。それで、エルサレムの人々はバビロニアから「お前たちの神は負けたではないか」と罵られたのです。
多くの人々は、エルサレム滅亡とバビロン捕囚という屈辱の原因を、政治的な失策、軍事同盟の失敗、経
済政策の間違い、その他さまざまに分析し、敗北の理由をみずからの外側に求めました。しかしエレミヤ
は違いました。エレミヤは、それは私たちが神の御言葉に従わなかったことに対する、神の聖なる「救い
のための審き」であったと語ったのです。敗北の理由は外側にではなく、まさに我々の内側にあるのだと
語ったのです。神が敗北されたのではなく、我々がみずからの罪によって敗北したのだと語ったのです。
神が我々を悔改めへと導き、救って下さるために、この審き(この滅亡)が起こったのだ。それがエレミ
ヤの預言の中心的なメッセージでした。

 エレミヤは、歴史を支配され、我らの罪を正しく審かれ、この暗黒の世界に御自身の独子をさえお与え
になる、神の聖なる救いの御業を信ずる者として、キリストによる唯一の救いという福音を、イスラエル
の人々に宣べ伝えたのです。哀歌にも、エレミヤ書にも、イエス・キリストという文字は一箇所も出てき
ません。しかし今朝の哀歌の御言葉を通して、私たちはそこに十字架と復活の主イエス・キリストの恵み
の出来事を見るのです。川端康成の「雪国」という小説の出だしに「国境のトンネルを抜けると、そこは
雪国であった」という有名な一節があります。分水嶺を挟んで明と暗がはっきり分かれているという経験
です。今朝の哀歌3章で申しますなら、11節から20節までが「暗」の世界、21節から24節が「明」の
世界です。その2つの世界の中心に、まさに救いと滅びの分水嶺としてお立ちになっておられるかたこそ、
十字架と復活の主イエス・キリストなのです。

 この主イエス・キリストをしかと見つめ、待ち望みつつ、それをエレミヤは哀歌3章22,23節において
「しかし」という言葉であらわしています。新共同訳ではこう訳されています。「主の慈しみは決して絶え
ない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たにされる。あなたの真実はそれほど深い」。元々
のヘブライ語の原文では、この御言葉の最初に「しかし」という言葉が入ります。この「しかし」は限り
なく重い「しかし」なのです。私たちの現実を顧みるなら、私たちは自らの罪によって敗北するだけの存
在にすぎません。滅亡と暴虐はまさに私たちの内側にあるからです。それがこの世界のあらゆる悲劇を生
み出しています。私たちはその悲劇に対して何ら解決の力を持ちえません。罪の嵐が全てをなぎ倒してゆ
くのを、手をこまねいて傍観するのみです。それが私たちの現実なのです。

 しかし、そこでこそエレミヤは、キリストの大いなる「しかし」を宣べ伝えます。それは十字架と復活
の主イエス・キリストを指し示す預言者(=主の御身体なる教会)のみが語りうる「しかし」です。この
世界は何処にもこの「しかし」を持ちえません。持ちうるのは「だからこうなったのだ」という現状認識
のみです。「しかし」とは、この世界のいかなる暗黒の現実にもかかわらず、否、それだからこそ、神が御
子イエス・キリストをそこにお遣わしになった。この驚くべき恵みの逆説を知る者のみが語りうる「しか
し」です。エレミヤはただ、それをのみ宣べ伝えているのです。

 私たちはここに、併せてお読みしたルカによる福音書5章1節以下の御言葉を心に留めます。そこにも
まさしく主イエスの「しかし」が告げられています。ガリラヤ湖で夜通し漁をしたにもかかわらず、何も
獲れなかったペテロやヨハネなどの漁師たちに、主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」
と言われました。シモン・ペテロは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでし
た。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。ここに、新しいことが始まるの
です。想像を超えた神の御業が起こるのです。漁に関する経験や知識から言えば、ペテロは主イエスとは
比較にならぬベテラン中のベテランです。漁に関してはずぶの素人にすぎない主イエスが、疲れて帰って
来たベテランの漁師たちに「もう一度、沖に漕ぎ出して、網を降ろしてみなさい」と言っているわけです。
笑止千万な、常識を覆す荒唐無稽な要求です。だからペテロは無視しても構わなかったのです。「何を言っ
てやがる」と一笑に付したって良かったのです。

 しかし、ペテロは主イエスのこの「しかし」に賭けました。この常識はずれの突拍子もない御言葉に、
自分の存在の全てを賭けたのです。だから、ペテロのこの「しかし」は彼の経験や知識から出た可能性や
知恵ではなく、この世界のあらゆる罪の現実に対して大いなる「しかし」をもって迫り来りたもう主イエ
ス・キリストに対する信仰の応答です。そこで御業をなしておられるのは主イエスご自身です。ペテロの
わざではないのです。主イエスは大いなるご自身の「しかし」をもって、ペテロの絶望を希望に変えて下
さったのです。

 私たちはどうでしょうか?。私たちもまた今朝の御言葉によって、ペテロと共に、あるいは、廃墟にた
たずむエルサレムの人々と共に、神が備えて下さった分水嶺(十字架と復活の主イエス・キリスト)の前
に立たしめられているのではないでしょうか。神がお告げになる「しかし」の前に立つ者とされているの
ではないでしょうか。そこで問われていることは、私たちの信仰の応答です。そこに悔改めが起こり、キ
リストとの出会いが起こるのです。今朝のルカ伝5章8節にはこう記されています。「これを見たシモン・
ペテロは、主イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なので
す』と言った」。今は恵みの秋、収穫の秋です。パウロは「今日こそは救いの日である」と語りました。ど
うか私たちはこの聖霊降臨節第22主日礼拝にあたり、みずからを深く省み、来臨したもう主の御前に、
ペテロのように「主イエスの足もとにひれ伏」す者になりたいと思います。悔改めの喜びと幸いに立つ僕
でありたいと思います。「悔改め」とは、神の恵みを見て、神に立ち帰ることです。キリストの「しかし」
に従うことです。それは「主よ、わたしから離れてください」としか言いえない私たちに、主は近づいて
来て下さるかただからです。主をお迎えするのに何ひとつ「ふさわしさ」のない私たちのもとに、主は来
て下さいました。そして十字架を担い、ご自身の全てを献げて下さったのです。

 罪の廃墟に呆然と佇む他にない私たちを、主は恵みの御力によって立たせて下り、分水嶺を越ええない
私たちを罪の支配から解放し、ご自身の恵みのご支配のもとに移して下さったのです。私たちを神の国の
民として下さったのです。そこに私たちの変わらぬ喜びがあり、全ての人に宣べ伝えられている限りない
祝福があります。この祝福が礼拝のたびに宣べ伝えられている福音のおとずれなのです。エレミヤはただ
その祝福を語り、私たちもまた、いま共にその喜びのもとに生きる僕とされているのです。エレミヤは今
朝の哀歌3章40節に「わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう」と申しました。「自らの道
を探し求め」るとは、原文のヘブライ語では「(御言葉により)打ち砕かれる」という意味です。あのペテ
ロのように、自分の経験や判断ではなく、御言葉によって打ち砕かれた者として、キリストの「しかし」
に従うことです。「信仰に堅く立つ」ことです。御言葉によって打ち砕かれ、信仰に堅く立つ者とされて、
どうか私たちは真実に「主に帰る」者の歩みを、ともに歩み始めたいと思います。祈りましょう。