説    教   レビ記16章6〜10節   ヨハネ福音書14章7〜11節

「御父と御子は同質」
2018・10・07(説教18401770)

 父なる神、御子なるイエス・キリスト、そして聖霊なる神、この三位一体なる神はそれぞれ、旧約聖書、
新約聖書、そして使徒たちの教会という3つの時代に代表されて現されてきました。旧約聖書の時代には
父なる神が、新約聖書の時代には主イエス・キリストが、続く使徒たちの教会の時代には聖霊が、人々の
心にしっかり印象づけられたのです。もちろん、父・子・聖霊なる神は、三位一体なる唯一の神ですから、
旧新約聖書は言わずもがな、続く教会の時代においても、唯一の神として崇められ、礼拝されてきたこと
は申すまでもありません。しかし強調点の置きかたにおいて、使徒たちの教会の時代を受継ぐ現在の私た
ちの時代は「聖霊の時代」であるということが言えるのです。

 そこで、この聖霊なる神はいかなる真理を私たちに告げたもうのでしょうか。それは何よりも“父なる
神と御子イエス・キリストとの関係”なのです。聖霊は自らを証せず、ただ父なる神と御子イエス・キリ
ストを証する(指し示す)かただからです。その意味で私たちの週報に、たとえば今日は「聖霊降臨節第
21主日」と書かれていることは大切です。聖霊によって明らかにされた、父なる神と御子なるイエス・キ
リストとの関係について、聖霊の導きによって思いを深める主日です。そしてこの御父と御子の関係が、
私たちの救いと自由と喜びに直結していることを見いだし、それを福音の大きな音信として聴き取り、ま
すます真実な礼拝者とされてゆきたいと願うものです。

 さて、今朝の御言葉、ヨハネ伝14章7節以下において、私たちの主イエス・キリストはこのようにお
語りになりました。「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しか
し、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ここで主が明確に語っておられることに、私た
ちは改めて驚くのではないでしょうか。ここで主が言われる「父を知っている」とは“神を信じている”
という意味です。ここまでなら私たちにもよくわかります。私たちは神を信じているからこそ、教会に連
なり、共に礼拝をささげています。言い換えるなら、私たちはニカイア信条、そして1890年「日本基督
教会信仰の告白」に堅く立つ群れです。信仰告白をしている者たちです。しかし主イエスはそれに加えて
「(あなたがたは)またすでに父を見たのである」と言われるのです。ここに、私たちは驚き、戸惑いをす
ら感じるのではないでしょうか。私たちの内いったい誰が「父(なる神)を見た」などと言えるのでしょ
うか?。「神を見る」とは大変なことではないか。非常に特別な、稀な、奇跡的な事柄のように私たちには
思えるからです。

 この驚きと戸惑いは、主イエスの弟子たちも同じでした。だからこそ弟子の一人ピリポは主イエスにこ
う申したのです。「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
主よ、私たちには、あなたが言われるように「父なる神を見る」などという大それたことはできません。
ですからどうか、あなた御自ら私たちに父なる神を「示して」下さい。それならば私たちは父なる神を“見
る”ことができるでしょう。そして私たちは「満足」するでしょう。そのようにピリポは語ったのです。
この反応は人間の理性において言うならば、極めて正しい反応であり、ある意味でピリポの回答は模範解
答であるとさえ言えます。昔、わが国でも「見神録」という本を著し、自分は神のお姿を見たと語った逢
坂元吉郎という神学者がいました。しかしこの逢坂元吉郎が語っていることも、自分の力で神を「見た」
という体験談ではなく、ただキリストの恵みにより、聖霊によって「神を見る幸いを与えられた」という
恵みの経験です。自分が「見神」の主体ではなく、主体は常にキリストの側にあるのです。

 そこで、ピリポに対して主はどのようにお答えになったでしょうか?。9節以下の御言葉に注目しまし
ょう。「イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっ
ていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言
うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたがたは信じないのか。わたしがあなたが
たに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっ
ておられるのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられ
ないならば、わざそのものによって信じなさい』」。
 
 ここで主イエスが語っておられることは、大きく分けて3つの事柄です。第一に「わたしを見た者は父
なる神を見たのである」ということ。第二に「わたしが語った言葉は、私の言葉ではなく、父なる神ご自
身の御言葉である」ということ。そして第三に「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じな
さい」ということです。
 
 まず第一の「わたしを見た者は父を見たのである」とは、主イエスご自身、機会あるごとに弟子たちに
語って来られたことです。それにもかかわらず、弟子たちはそれを十分に理解していませんでした。言い
換えるなら、主イエスが真の神の御子であられることを、弟子たちは本当には、信じていなかったという
ことです。実はこのことは、福音の本質にかかわる非常に大切なことなのです。私たちの葉山教会は、全
世界の主にある全ての教会と共に、西暦325年に制定され、381年のコンスタンチノーポリス公会議で確
定されたニカイア信条を告白しています。ニカイア信条の草案を公会議に提示したのは、当時アレクサン
ドリア教会の執事であったアタナシウスという神学者でした。彼はまだ年が若かったため発言権さえ無く、
会議の流れは当代きっての神学者アリウスの主張に傾きつつありました。アリウスによれば、イエス・キ
リストは神ではなく、神に限りなく近い人間である。それを説明するためにアリウスが用いたのが“ホモ
イウーシオス”つまり「類似」という意味のギリシヤ語でした。キリストは神ではなく、神に「類似」し
た存在、つまり限りなく神に近い人間である。これがアリウスの主張でした。

 これに対して、真向から異論を唱えたのがアタナシウスでした。まずアタナシウスには発言権がありま
せんでしたから、彼は皇帝コンスタンティヌスに直訴して2日間の発言を許可されます。この2日間を最
大限に用いて(つまり不眠不休で)アタナシウスはアリウスに反論しました。もしアリウス先生が言われ
るように、イエス・キリストが真の神ではなく、神に限りなく「類似」した人間であるとするならば、キ
リストによる救いとは結局、人間に基づく救いであるということになる。するとその「救い」は人間性と
同様に、死の支配を受け、有限であり、不確実であり、有効性を持たないものになる。そのような「救い」
は真の救いと呼ぶことはできない。それがアタナシウスの反論の核心でした。

 アタナシウスは、イエス・キリストは神に「類似」した人間などではなく、真の神の真の独子でありた
もうと語りました。すなわち、キリストは「真の神」が「真の人」のお姿に受肉された神人であり、私た
ちの罪の赦しと贖いのために、十字架にかかって死んで下さった救い主であることを、聖書に基づいて力
強く証したのです。その時アタナシウスがアリウスの“ホモイウーシオス”(類似)に対して用いたギリシ
ヤ語が“ホモウーシオス”(同質)でした。その結果、アリウスの主張は斥けられ、アタナシウスの原案に
基づいてニカイア信条の原文が制定されることになったのです。私たちはこのニカイア信条に告白された
正統信仰を受継いで、1700年後の今日もこれを旗印として高く掲げ、主イエス・キリストを「真の神の真
の独子」と告白し、このかたにのみ全ての人の罪の赦しと救いがあることを宣べ伝えているのです。

 そういたしますと、第二の事柄「わたしが語った言葉は、わたし言葉ではなく、父なる神ご自身の御言
葉である」という主イエスの御言葉の意味も、おのずと明らかになるのではないでしょうか。主イエスと
父なる神の御心は全く一つであり、両者の間にいかなる齟齬も矛盾もないのです。私たちはその逆です。
私たちは神の御心から常に離れており、御心に叛き、御心を踏みにじり、それを理解しようと務めること
もなく、神から離れた生活を良しとし、自分の利益、自分の幸福、自分の満足、自分の安逸のみを求めて
います。この人生に深い尊い意味があることを忘れ、幸福とは自分の欲望の実現であると心得違いしてい
る私たちです。しかし、主なる神の御心は遥かに高いところにあって、安穏たる境遇に満足しようとする
私たちを、聖なる御言葉をもって励まし、鍛え、養い、強めて、キリストと共なる御国の幸いと祝福を与
えようとしていて下さる。「御国を賜わることこそ、汝らの天の父の御心なり」と告げていて下さるのです。

 第三の大切な事柄として、主イエスは私たち一人びとりに「信仰」を求めておられます。「わたしが父に
おり、父がわたしにおられることを信じなさい」と主が言われたことです。主イエス・キリストと父なる
神が一体であられる。父・子・聖霊なる三位格の神は一体であられる。それを頭や理屈で理解するのでは
なく、信じることが福音信仰の要です。今から160年ほど前の英国にヘンリー・ニューマンという立派な
神学者がおりました。あるときニューマンのもとに「自分は三位一体がどうしても理解できない」という
人が訪れました。ニューマンは彼に答えて「三位一体は理解しようとしてわかるものではない。あなたが
なすべきことは、使徒信条、ニカイア信条告白された信仰に、心からアーメンと応答することだ。そのよ
うにしてはじめて、本当に三位一体がわかるであろう」と答えたそうです。三位一体は福音の奥義ですか
ら、理詰めでわかるものではありません。それは崇高な、聖なる、神の御姿ですから、私たちの理解を遥
かに超えたものです。それは「アーメン」と告白し受入れるほかないのです。「われは、父・御子・聖霊な
る三位一体の神を信ず」と告白する以外にないのです。神の国においては信仰による英知(ソフィア)が
理性的理解に先立つのです。知らんと欲する者はまず信ずべきなのです。信ずるとは、神の御業をあるが
ままに、自分に対する限りない救いの出来事として受入れることです。神の御業に対してアーメンと告白
することです。必要なあらゆる理解は、信仰による英知に付随して伴うのです。だから主は言われました
「まず神の国と神の義とを求めよ。さらばその他のものはすべて添えて与えられん」と。私たちは何より
もまず「神の国と神の義」を求めるべきであります。父なる神が主イエスと共におられ、主イエスが父な
る神と共におられること。言い換えるなら、キリストと父なる神とが同質であられることを信ずる者とし
て、主の御身体なる教会にしっかりと連なり、真の礼拝者となり、福音の喜びと自由に生きる者として、
世の旅路へと遣わされて参りたいものです。

 主はいみじくも11節の後半でこう言われました。「もしそれが信じられないならば、わざそのものによ
って信じなさい」。御父と主イエスとが一体であられることがわからなくなるとき、すなわち、父・御子・
聖霊なる神がわからなくなるとき、あなたは何よりも「わざそのもの」に心を向けなさいと主は言われる
のです。その「わざ」とは、父なる神と御子なるキリストと聖霊が、私たちの救いのため、あなたの救い
のために、なして下さった全ての御業のことです。それこそすなわち、主イエスの御聖誕、その御生涯、
十字架の御苦しみと、死と、葬りと、復活です。神に叛き、神から離れ、神を“見る”ことができなくな
っていた私たちのために、その私たちの全ての罪の赦しと贖いと救いのために、私たちに新しい生命を与
え、自由と幸いと喜びを与えるために、主イエス・キリストは、私たちのために十字架に死んで下さいま
した。そこにおいて起こった全ての救いの出来事、まさに主が私たちのためにして下さった「御業」その
ものを、信じる者になりなさい。そして、私の愛と主権の内を歩む者になりなさい。そのように主は、い
つも、どこでも、私たちに呼びかけておいでになる。そして、私たちと共にいて、私たちをして、真の神
の御姿を見つつ、まことの神の導きと祝福のもとを、生きる者とならせて下さるのです。

 「わたしを見た者は、父を見たのである」。これこそ、御父と同質なる御子の恵みにおいて、いま私たち
に与えられている限りない恵みと祝福なのです。キリストを信じて生きる私たちは、すでに父なる神を見
ているのです。三位一体なる神の永遠の愛の交わりの中に入れられているのです。それがこの教会です。
教会とは三位一体なる神の永遠の交わりの歴史に於ける現れです。私たちはこの教会生活、礼拝者たる歩
みの中でこそ、いつも、神を見つつ歩む者とされているのです。祈りましょう。