説    教     詩篇24章9〜10節    ヨハネ福音書6章1〜4節

「栄光の王」
2018・09・23(説教18381768)

 今朝、与えられた御言葉の最初を見ますと「そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖
の向こう岸へ渡られた」と記されています。「ガリラヤの海」とはガリラヤ湖のことです。非常に大きな湖
で「海」と呼んでも不自然ではありません。主イエスの時代には当時のローマ皇帝の名を冠して「ティベ
リア湖」と呼ばれていました。ヘブライ語では「琴の海」(ヨム・キンネレート)と申します。湖の形が竪
琴に似ているからです。日本語にしたらさしずめ「琵琶湖」となるでしょうか。

 そこで、このガリラヤ湖の周辺は、砂漠地帯であるイスラエルには珍しく、緑滴る美しい山並みに囲ま
れた、長閑な田園地帯が拡がっています。湖の南側に今日でもティベリアスという町がありますが、そこ
から見たガリラヤ湖の景色は本当に美しいです。私は30年ほど前に現地を訪れたとき、ちょうど3月の過
越祭の季節でしたが、緑の丘いちめんに色とりどりの花が咲いていたことを思い起こします。二千年前の
主イエスの時代も変わらぬ風景であったことでしょう。まさにその花の丘を登り降りされて、主はガリラ
ヤに来られたに違いありません。そして「湖の向こう岸へと渡られた」のです。

 この「向こう岸」と言うのはたぶん、湖の西のカペナウムという村をさしていると思われます。おそら
く主イエスはティベリアから舟で対岸のカペナウムに渡られたのでしょう。そこは弟子のペテロやヨハネ
の故郷でもあった村です。ところが2節を見ますと「すると、大ぜいの群集がイエスについてきた」と記
されています。主イエスが舟から降りるのを待ちかねたように、夥しい群集が主イエスを取り囲んだ様子
がわかります。それは、彼らは主イエスが「病人たちになさっていたしるしを見たから」だと記されてい
ます。同時に、これらの人々はみな、主イエスが同じガリラヤのご出身であることを知っていました。い
わば同郷人である主イエスが、エルサレムで素晴らしい「しるし」を現わされた。パリサイ人や律法学者
たちの度肝を抜いた。日ごろ「異邦人のガリラヤ」などと呼ばれ、エルサレムに対し忸怩たる思いでいた
ガリラヤの人たちにしてみれば「してやったり」という思いがあったことでした。彼らにとって主イエス
はまさに「時の人」「郷土の英雄」でした。それなればこそ、地域周辺の村々こぞって主イエスを歓迎した
のです。湖のほとりの小さな村カペナウムは時ならぬ歓迎ムードに沸き立ったのです。

 そこで、この大歓迎にいちばん感激したのは主イエスの弟子たちでした。彼らは家を棄て、職を棄て、
故郷を棄てて、主イエスに従って来た人たちです。それはいわば“賭け”のようなものでした。彼らには
「一旗上げずにいかで故郷に戻れようか」という思いがありました。主イエスは弟子たちにとって「立身
出世」を適えてくれる「王」となるべく期待されていたのです。そうしたところ、故郷カペナウムに帰っ
ていきなりのこの大歓迎に弟子たちは感激したのです。「ああイエス様の弟子でよかった」と心から思った
ことでした。「先生もなかなかやるじゃないか」と思ったことでした。輝かしい未来が開かれたように思っ
たことでした。主イエスの弟子であることに、はじめて誇りを感じたのです。このような時、人間はどう
いう行動を取るでしょうか。自分の人生に巡ってきた千歳一遇の機会を無駄にせず、これを捉え活かして、
成功した人生を歩みたいと願うのではないでしょうか。実際、弟子たちはそのように考えました。恐ろし
いほどの民衆の歓迎を追い風として、今こそ世界に旗揚げすべき時だと思ったのです。乱世に人々が求め
るのは、強力なリーターシップを持つ指導者です。弟子たちには主イエスこそ、まさにその理想的指導者
であると思えました。「主よ今こそ旗揚げすべき時です!」。弟子たちには漲る熱き胸の思いがあったので
す。

 ところが、どうでしょうか。肝心の主イエスは動きたまわない。それどころか今朝の続く3節を見ます
と「イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた」と記されているのです。「山」は町とは
正反対の、人のいないところです。御言葉は淡々と「弟子たちと一緒に座につかれた」と記していますが、
そこに至るまでの弟子たちの心中は穏やかではなかったでしょう。ペテロなどは慌てて主イエスの袖を引
き「主よ違います。どこに行くのですか?」と叫びたい思いではなかったでしょうか。「どうして山なんか
行くのですか?。こんなに大勢の群集が歓迎してくれているのに、どうしてここに留まり、王として旗揚
げして下さらないのですか?」。そうした思いで一杯であったと思うのです。

 ここに私たちは、今朝の3節において、弟子たちと主イエスとの間に生じた断絶と、その断絶を乗り越
えさせたものの2つを読み取ることきができます。まず第一に、十二人弟子たちが主イエスに従った理由
は、元々は信仰でした。信仰なくして、どうして家を捨て、職を捨て、故郷を棄ててまで、主イエスに従
うことができるでしょうか。しかし弟子たちの信仰は、主イエスが自分たちの要求どおりに動いてくれる
ことが前提の、いわば自己中心的な信仰に過ぎなかったのです。私たちキリスト者にとって、信仰の歩み
とは、キリストに従うことのはずです。信仰とは、日毎に新たにキリストに従う歩みであって、その中心
はいつでもキリストです。言い換えるなら、日に日に新しく主イエスの御跡に従う「新しさ」があるのが
本当の信仰の歩みです。

 讃美歌294番に「みめぐみゆたけき/主の手にひかれて/この世の旅路を/あゆむぞうれしき/たえな
るみめぐみ/日に日にうけつつ/みあとをゆくこそ/こよなきさちなれ」とありますが、私たちの信仰の
歩みは「御恵み豊けき主の手にひかれて、この世の旅路を(日に日に)歩む」ものです。ところが私たち
はしばしば思い違いをするのです。自分が主の手を引かなければ、主はとんでもない所に行ってしまうだ
ろう。自分のほうが主イエスよりも正しく物事が見えているに違いない。そのような傲慢かつ自己中心的
な思いが、私たちの信仰を支配することがあるのではないでしょうか。

 否、とんでもない。自分はかつて一度も、そんな傲慢な思いを持ったことはないと私たちは言うかもし
れません。それは、この時の弟子たちも同じでした。弟子たちは、自分たちが偉そうに主イエスを指図し
ようなどとは思わなかったのです。ただ彼らが思ったことは「先生、この群集の願い求めは無視できませ
んよ」ということでした。「人々の声を無視したら先生の未来はありませんよ」という思いでした。時代の
要求、社会の要求、人間の要求、そこに天の声が現れているではないか。「天の声、人をして語らしむ」(天
声人語)が大切ではないか。ポピュリズムが大事ではないか。これを差置いてキリストたる道はありえな
いではないか。弟子たちが感じたのはそういうことです。それで、群集を尻目に山に登ろうとする主イエ
スのお姿に困惑したのです。自分たちの思い描く未来の設計図が壊れてしまうと感じたのです。だから、
主イエスの行く手を阻もうとする思いさえ生じたのです。

 私たち一人びとりに問われています。私たちはいま本当に、群集を尻目に山に登られる主イエスに、喜
んで従ってゆく僕たりえているでしょうか。自分が主イエスの行く手を支配するのではなく、主イエスの
御跡に自分が従い行く喜びを、いつも自分の喜びとしているでしょうか。同じ福音書の中に、主イエスが
ご自分の身にやがて起こる十字架の出来事を予告なさった時のペテロの反応が記されています。ペテロは
主イエスの袖を引いて「主よ、とんでもないことです。さようなことがあってはなりません」と主イエス
を諌めたのでした。弟子たちの、否、私たち人間の最大の躓きは、いつも「十字架」なのです。主イエス
はこの世の王となるべきかたではないのか。偉大な指導者ではないのか。それなのに十字架にかかって死
んでしまうとはどういうことか。「そんなことは絶対にあってはならない」とペテロは思ったのです。それ
で、主イエスの袖を引いたのです。主イエスを叱ったのです。

 それに対して、主は何とお答えになったでしょうか?。「サタンよ、引きさがれ」と言われたのです。「わ
たしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と仰せになったのです。
まことに厳しい言葉です。しかしこの厳しさなくして信仰に生きえない私たちなのです。ペテロは何を叱
られたのかわからなかったかもしれません。同じように私たちもまた、自分でも知らぬうちに主イエスの
袖を引くような傲慢の罪を犯しているのではないでしょうか。それならば私たちこそ、目をしかと上げて
主イエスの御姿を凝視せねばなりません。あっけにとられる群集を尻目に、ひとり山に登られる主イエス
の御姿を。今はわからないかもしれない。戸惑いも、恐れもあるでしょう。しかし私たちに求められてい
ることは、いま、主イエスに従う僕になることです。主イエスの御手に引かれて行くことです。その後の
ことは、主にお任せすればよいのです。

 今朝の6章3節には「イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた」と記されています。
続く4節には「時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた」とも告げられています。このあと、
もう2回か3回あとの過越には、主イエスはエルサレムで十字架にかかっておられるのです。ですから「過
越」を「間近」に「山に登って、…座につかれた」とは、主イエスみずから、ご自分がこの世の支配者(王)
ではなく、キリストとして、つまり全人類の罪の贖い主として、世に来られたことを示されるためです。
主は「仕えられるためにではなく、仕えるため」に世に来られました。その「仕えるため」とは「すべて
の人の罪の贖いとなるため」ということです。

 この世界のあらゆる所で、あらゆる仕方で、私たち人間の罪の結果が猛威をふるっています。人類の歴
史は罪の働いた歴史そのものです。そして、それは本当には、ただ人間どうしの問題に終らないのです。
罪の問題はなによりも、神に対する問題なのです。まず真の神との和解なくして、人間の罪の問題の本当
の解決はないのです。すると、それは私たちの力ではどうしても解決できない問題です。それが解決でき
ると考えることこそ、傲慢なことなのです。主イエスの手を引くことなのです。私たちはそういうことを
するのです。自分の判断を優先させ、御言葉に聴くことをしないのです。キリストの御姿を凝視せず、自
分に拠り頼むのです。キリストではなく、自分を人生の主とするのです。たとえ、この全世界を完全に支
配する王が現れたとしても、たった一人の人間の罪の問題さえ、解決することはできません。箴言にある
ように、城を攻め取ることはできても、罪を克服することはできないのです。まして私たちにはなおさら
です。それなら私たち人間にとって真の「王」真の「指導者」とは、私たちを罪の支配から解放し、真の
自由と平和へと導いて下さるかたのみです。私たちを創造主なる神との真の和解へと導いて下さるかたの
みです。それは真の神の独子、主イエス・キリストです。主イエス・キリストのみが「真の人にして真の
神」なるかたです。このかたのみが、私たちを極みまで愛して、私たちの罪と悲惨のただ中に来て下さり、
そこで私たちの罪を担われ、十字架に死んで下さいました。それゆえにこそ、主イエス・キリストは、全
人類のまことの「王」と称せられるのです。

 私たち改革派教会の歴史の中で、キリストの三つの職と書いて「キリストの三職」が重んじられてきま
した。それは「預言者、祭司、王」の三職です。すなわち、キリストは、まことの神の聖なる御心を正し
く世に告げたもうかたであるゆえに「まことの預言者」と呼ばれ、私たちの罪を贖い、神との和解を与え
て下さるかたであるゆえに「まことの祭司」と呼ばれ、私たちを永遠に恵みをもって支配し、保ち、導い
て下さるゆえに「まことの王」と呼ばれるのです。そしてこの「まことの王」とは、仕えられるためでは
なく、仕えるために、すなわち、全ての人の罪の贖いとして十字架におかかりになるために世に来て下さ
いました。この「まことの王」なるキリストの玉座は、王宮の中ではなく、ガリラヤ湖畔の緑の丘の上で
した。そこで主は全ての人々に「まことの糧」「生命の糧」を与えて下さいました。罪の赦しと、永遠の生
命と、義を与える「まことの糧」を、主イエスみずから弟子たちにお命じになって、群集に配らせ給うた
のです。私たちの教会の聖餐式の原型です。
 
 そこに打ち立てられたものは教会です。この教会において主ははっきりと言われる。「あなたを抜きにし
て、私は神の国を考えない」と!。私たち一人びとりに言われるのです「あなたこそ、私が招いたその人
である」と。ここにおいて、実に全ての人々が、キリストの祝福のもとに招かれています。罪の赦しと義
を与える「まことの糧」にあずかり、人間を真に人間たらしめる祝福にあずかり、世の絶えざる悩みと試
練の中にあって、私たちを最後まで支えてやまない、十字架の主・キリストの恵みのもとに、主はご自身
の教会を通して、世にある全ての人々を等しく招いておられるのです。それゆえ、いま私たちは共に詩篇
24篇9節を心にとめたいと思います。「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がは
いられる。この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である」。主は今こそ、私たちの歴史と
生活のただ中に「まことの王」として来臨しておられます。私たちは「こうべ」を上げ、まなざしを上げ
て、主をお迎えし、主の御手に引かれてゆく信仰の歩みを、雄々しく続けて参りたい。その志においてこ
そ、真に健やかな群れでありたいと思います。祈りましょう。