説    教    出エジプト記16章15節  ヨハネ福音書4章31〜34節

「生命の御糧」
2018・09・16(説教18371767)

 私たち人間にとって、何が最も大切な糧なのか。何が私たちをして人間たらしめるのか。私たちを生か
すまことの食物とは何であるか。今朝はそのことをご一緒に、今朝のヨハネ伝の御言葉を通して聴いて参
りたいと思います。

 まずなによりも、今朝のヨハネ伝4章31節以下の御言葉から、私たちのあるべき姿勢と共に、私たち
を生かしめる“まことの糧”が何であるかを、しっかりと学び取りたいちと思います。場所は、サマリヤ
のスカルの町はずれにある、ヤコブの井戸のかたわらでした。主イエスの弟子たちが町に食物を買いに行
っている間、そこで一人の女性と主イエスとの「生ける水」をめぐる対話が繰りひろげられました。その
事情を知らずに戻って来た弟子たちが、さっそく主イエスに食物を差し出し「先生、召し上がってくださ
い」と申しますと、主イエスはそれに答えて「いや、わたしには、あなたがたの知らない食物がある」と
おっしゃったのです。

 ところが、この時の弟子たちの対応は、キリストの弟子たるに不甲斐ないものでした。彼らは主イエス
の御言葉から、大切な福音の奥義を悟るべきでしたのに、互いに目配せして議論を始め「だれかが、何か
食べるものを持ってきてさしあげたのだろうか」と言うていたらくでした。このとき弟子たちの言う「だ
れか」とはおそらく、水瓶を置いたまま急いで町に去っていったサマリヤの女性のことであったでしょう。
「あの女性が、自分たちの留守中に、先生に何か食物を持ってきて差し上げたのだろうか」と思ったので
す。要するに、このときの弟子たちには、肉体を養う食物のことしか眼中になかったのです。もちろん、
それも大事なことです。特にユダヤ人にとって異邦の地であるサマリヤの町で、食物を調達するには苦労
があったでしょう。弟子たちにしてみれば、主イエスからねぎらいの言葉ひとつでも期待していたはずで
す。それなのに主イエスは「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」と言われた。戸惑いを覚え
て当然であったでしょう。少なくとも、主の御言葉の意味が、弟子たちには理解できなかったのです。

 そこで、主は弟子たちに、その御言葉の意味を説き明かし給います。それが今朝の34節です。「イエス
は彼らに言われた、『わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざ
をなし遂げることである』」。ここで「わたしをつかわされたかた」とは主イエスの父なる神のことです。
主イエスは神の永遠の独子、御父と同質なるかたです。それゆえ、主イエスがこの世界に来られたことは、
永遠なる神が歴史を救うために歴史の中に介入された「救いの出来事」そのものです。無限なるかた限定
された人としてのお姿をお取りになったのです。それは何ゆえにかと申しますと、私たちを罪から贖い、
御国の民として下さるためです。私たちはみな誰一人として例外なく、神の御前に罪ある存在です。罪と
は、単に道徳的な悪や、道義に反することや、法律に反することばかりではありません。もしそれだけの
意味ならば「自分には罪はない」と言える人もいなくはないでしょう。しかし聖書が「義人はいない、一
人もいない」と語るとき、その意味は「犯罪者はいない」という意味ではなく「神に義とされる人は一人
もいない」という意味なのです。たとえ人の前には義人でありえても、神の御前に義とされうる人は一人
もいないのです。

 パスカルという人は、人間の罪の問題を深く考えた人ですが、実は罪ほど人間にとってわかりにくい事
柄はない、しかし、もし人間に罪なしとすれば、人間はいっそう不可解であると申しています。わが国の
哲学者・森有正もまた、国際社会において21世紀の人類が最も真剣に取り組まねばならない問題は、罪
の問題であると述べています。しかもその最も大切な問題が、最も軽んぜられている現実があるではない
かと問うのです。それは、罪ほど分かりにくいものはないからです。問題の深刻さが巧妙に隠されるから
です。

 そこで、まさしく人間に罪があるからこそ、今日の世界はかくも深く病み、混乱しているのではないで
しょうか。新聞紙面に、人間の罪の結果が報告されない日は一日もありません。今日の新聞はまさに「罪
の回覧板」の様相を呈し、しかもそれは増加の一途をたどっています。主イエスのエルサレム入場の日、
ホサナ、ホサナと、主イエスを歓呼して迎えた群衆が、わずか数日後に、主イエスを呪い「十字架にかけ
よ」と絶叫するに至ったのですが、それと全く同じ罪を、私たちもまた犯し続けているのです。西行法師
に「たそがれに往き来の人の影絶へて道はかどらぬ越の長浜」という歌がありますが、千年一日のごとく
遅々として進歩せず、孤独のうちに黄昏に向かって歩んでゆく人類の姿、それこそ今日の私たちの姿なの
ではないでしょうか。そしてそれは「願わくは花の下にて春死なむ」という自然への回帰では決して解決
できない深刻な問題なのです。

 罪とは一言でいうなら、私たち人間が「神の外に出てしまった」ことです。私たちは宇宙ロケットで地
球の表面からほんの僅か宇宙空間に出ただけで「宇宙に行った」と大騒ぎしますが、この宇宙の創造主な
る神から全人類が離れ落ちてしまった罪の事実に対しては驚くほど鈍感であり、沈黙しているのはなぜな
のでしょうか。罪に対してかくも鈍感な私たちを贖い救うために、神の御子イエス・キリストは、人とな
られて十字架への道を歩まれ、私たち全ての者のために、生命を献げて下さったのです。それは、神の外
に出てしまった私たちを救うために、神ご自身が、神の外に出て下さったことです。神が、神ではないも
のになってまで、私たちを救って下さったのです。それがイエス・キリストの十字架の御姿です。永遠に
して無限なる神が、死ぬべき有限者になられたのです。主イエス・キリストにおいて、永遠が歴史の中に
突入したのです。私たちの罪のどん底の、そのはるかどん底にまで主はお降りになって、私たち自身さえ
知り得なかった私たちの罪を、十字架の死によって打ち滅ぼして下さったのです。

 主はまさに、私たち罪人を極みまでも愛して、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さいました。そし
て主はまさに、そのご自分の十字架への歩みを、ご自分が父なる神から賜わったキリストとしての歩みの
全てを、今朝の御言葉において「わたしの食物」と呼んで下さるのです。「わたしの食物というのは、わた
しをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」と言われるのです。自分
を憎む者のために、自分を呪う者のために、自分の生命を献げるということは、人間にとっては最も困難
な、おそらくは、絶対に不可能な歩みでありましょう。しかし主イエスは、私たちに対する限りなき愛の
ゆえに、罪人の頭でしかありえない私たちを救うために、ご自分の全てを十字架において犠牲にして下さ
った。永遠なる神が、神にはありえない、罪人の呪われた死を、私たちに代わって死んで下さったことに
よって、私たちをその死の淵から立ち上がらせ、復活の限りない生命によって覆い包んで下さったのです。
義とはされえない私たちに、ご自分の永遠の義を与えて下さったのです。それが、聖書が全ての人に語っ
ているイエス・キリストの恵みです。

 それならば、私たちがキリストの御身体なるこの教会に連なることによって、日々あずからしめられて
いる「生命の御糧」とは、十字架の主イエス・キリストご自身にほかなりません。牧師・伝道師は、まさ
にこの生命の糧を盛られた「土の器」として、ただ十字架のキリストの福音のみを携えて、教会へと、ま
た全ての人々へと、神によって遣わされてゆくために召されています。そして、教会に連なる人々もまた、
この「土の器」に神が委ねたもうた、キリストの福音という絶大な宝に、この教会によって、全世界の主
にある民と「共にあずかる」者とされているのです。この「共にあずかる」という意味の言葉から、ギリ
シャ語で“教会の交わり”をあらわすコイノーニアという言葉が生れました。教会とは、キリストの恵み
に共にあずかることによって、全ての人々にキリストのみをさし示し、キリストの救いの御業を宣べ伝え
る群れなのです。

 それゆえ、今朝の御言葉を、さらにいっそう深く、心にとどめる者となりましょう。主は弟子たちに、
否、私たちに明言しておられます。「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」と。主は、この食物
は「あなたがたの知らない」ものだと言われました。この「知らない」とは、私たちが、イエス・キリス
トをほかにして、世界のどこにも見出すことはできない、という意味です。私たちは、私たちを本当に罪
から救い、人間として健やかに生かしめるまことの糧を、イエス・キリストをほかにして、世界のどこに
も見出すことはできないのです。これは、逆に言うならこういうことです。たとえ私たちが、人間として
はどんなに弱く、脆く、欠けの多い「土の器」にすぎなくても、もし私たちがイエス・キリストを信じ、
「イエスは主なり」と告白して、教会に連なって生きるなら、そのとき私たちは無条件に、何の値もなき
ままに、この唯一の御糧にあずかる者とされるのです。私たちの資格や条件や能力や業績は何一つとして、
主の御前では問われることはないのです。ただキリストを信ずる信仰のみが問われているのです。私たち
のために生命を献げて下さった十字架のキリストを、全世界の主にある民と共に、また、天にある贖われ、
全うされた聖徒の群れと共に、わが救い主、わが贖い主として告白する信仰です。この信仰において一つ
に結ばれ、堅固な群れとなり、神の賜わるキリストの御糧に豊にあずかってゆく時にのみ、私たちは、こ
こに、このピスガ台に、本当のキリストの教会を建ててゆくことができるのです。

 この新しい礼拝堂が与えられて、早くも20年が経ちます。この建物が与えられたのも、全ては、ただ
この十字架のキリストの恵みのもとに集い、キリストのみを証してゆく群れとして、一人でも多くの同胞
に福音を宣べ伝えるためです。そしてまさに、私たちはここで、ご自分を「つかわされたかたのみこころ
を行い、そのみわざをなし遂げ」て下さった主が、私たちをも御業のために用いて下さり、私たちの内に
始めて下さった良きわざを、主の日までに完成して下さることを信じます。そのような希望と慰めのもと
に堅く立つ群れとして、主イエスの賜る生命の御糧に豊かに養われ、この礼拝の場所からそれぞれの持ち
場へと、主に結ばれて、慰めと祝福の福音を携えつつ、遣わされて参りたいと思います。祈りましょう。