説     教    詩篇81篇5〜6節   ヨハネ福音書10章31〜39節

「キリストの事業」
2018・09・09(説教18361766)

 「主イエスの事業」という言葉は、イギリスの神学者ジョン・オーマン、またピーター・フォーサイス
が好んで用いた言葉です。この「事業」とは、会社や組織を興すことではありません。主イエスの事業は、
この世のいかなる事業とも比較できない、私たち人間の唯一の救いの御業です。この世の事業には、始ま
りがあり、必ず終わりがあります。しかし、主イエスの事業には決して終わりがありません。この世の事
業には限界があります。しかし、主イエスの事業に限界はなく、それは全ての人を神の御国に導くもので
す。私たちは主イエスの「事業」について、今朝の御言葉を通して福音を聴いて参りましょう。

 今朝の31節に「ユダヤの人々」とあるのはパリサイ人(パリサイ派の律法学者)たちのことです。彼
らは主イエスを「打ち殺そうとして、また石を取りあげた」のです。パリサイ人らは、主イエスの命を奪
わんと虎視眈々と画策していましたが、ここに絶体絶命の事態が起こるのです。今や彼らの手には大きな
石が握られているのです。初代教会において、有名なステパノの石打ちの刑がありました。エルサレム教
会の執事ステパノは、わざにも言葉にも力と愛に満ちた素晴らしい神の僕でした。しかしこの慈愛の使徒
をパリサイ派の律法学者たちは、キリストを「神の子・救い主」と告白した咎で石打ちの刑に処したので
す。

 エルサレムの門の外で、石で打たれつつ、ステパノは天を仰いで祈りました。主イエスが父なる神と共
に「栄光の御座」に座したもうのを見て、神を讃美しました。ステパノは自分を殺す人々のために赦しと
祝福を祈りながら死にました。そのときパリサイ人らの荷物の番をしていた青年こそ、後に使徒パウロと
なった「パリサイ人サウロ」でした。そこで、このサウロの目にステパノの殉教の死は「眠り」と映りま
した。使徒行伝7章60節を見ると「こう言って、彼(ステパノ)は眠りについた」と記されています。
これがパリサイ人サウロの心に焼きついたステパノの殉教の姿です。「眠り」とは「終わりではない」とい
うことです。

 正義感と怒りに燃え、ステパノを殺害した人々の事業は終わり、しかも神の国において何の価値も持ち
えません。しかし石で打たれつつ、自分を殺害する人々を赦し祝福して死んだステパノの「事業」は決し
て終わらず、永遠なる御国においてこそ輝きをますのです。この強い印象を心に刻まれたサウロは、やが
てダマスコへの途上において復活の主イエス・キリストと出会い、主の御声を聴くことによって、みずか
ら主を信ずる者、キリストの使徒パウロへと変えられてゆきました。ステパノはキリストの「事業」に仕
える僕であり、死の力もその事業を止めることはできませんでした。ただキリストの事業だけが、罪と死
の支配を打ち破り、私たちに永遠の生命を与える唯一の祝福であり力なのです。パリサイ人サウロも、ス
テパノの殉教を通して、その事業に与かる者とされたのです。

 そこで、改めて今朝の御言葉に戻りましょう。主イエスを石打ちの刑に処し、殺害しようとしたパリサ
イ人らの企みに対して、主イエスは静かに、しかし毅然として言われました。「わたしは、父による多くの
よいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。こ
の「父によるよいわざ」という言葉は「父なる神と共に行なう救いの事業」という意味です。つまり主イ
エスは、ご自分の御業がいつも父なる神との共同事業であることを明確になさったのです。ところがパリ
サイ人らはその意味を悟らず、あまつさえ33節では、身勝手な理屈を並べて自分たちの行為を正当化し
ようとしています。「ユダヤ人たちは答えた、『あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからでは
なく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである。』」。

 「よいわざ」をしたことが死に価する罪ではないとは、何と支離滅裂な理屈でしょうか。「よいわざ」が
罪であるはずありません。この「よい」とは「神に喜ばれる」という意味だからです。そこでパリサイ人
らは、主イエスが行った「よいわざ」では主イエスを殺す理由にならないので、そこに“神を汚す罪”を
持ち出してきました。もちろん主イエスが“神を汚す者”であるはずはありません。窮した彼らが持ち出
したのは、主イエスは自分を神の子だと偽っているという「神聖冒涜罪」でした。すなわち33節に「あ
なたは人間であるのに、自分を神としているからである」と彼らが語っていることです。この「あなたは
人間であるのに」とはパリサイ人らが勝手に決めつけたことです。主イエスは同じヨハネ伝10章25節に
おいて「あなたがキリスト(神の子)であるなら、そうとはっきり言っていただきたい」と詰め寄るパリ
サイ人らに対して「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってし
ているすべてのわざが、わたしのことをあかししている」と言われました。主イエスが神の子であると信
ずべき「しるし」は、主イエスがなさっておられる「すべてのわざ」に現れているのです。

 それなのに、なお主イエスをキリストと信じようとしないのは、彼らパリサイ人らの心が、神の言葉に
対して閉ざされており、信仰がないからです。神の言葉を耳では聞いても、心では聞いておらず、信じて
いないからです。「論語読みの論語知らず」ならぬ「聖書読みの聖書知らず」にパリサイ人らはなっていま
した。旧約聖書の律法に関しては、驚くほど詳しい知識を持ちながら、それは単なる知識だけで、聖書を
神の福音として聴き、受け入れ、信じることをしなかったのです。それこそ25節に「わたしは話したの
だが、あなたがたは信じようとしない」と主イエスが言われた通りでした。そこで主イエスは、パリサイ
人らが愛読する聖書の御言葉、特に詩篇82篇をお用いになって、彼らの根本的な誤りを指摘なさいます。
詩篇82篇6節、すなわち今朝の34節以下です。「あなたがたの律法に『わたしは言う、あなたがたは神々
である』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書
の言は、すたることがあり得ない)父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言
ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか」。

 この詩篇82篇6節について、グンケルというドイツの神学者は「使徒的な務め」をあらわしていると
解釈しています。つまり、それは主イエスが言われるように「神の言を託された人々」のことなのです。
私たちで言うなら教会に集う人々のことです。そのような人々でさえも「神々」すなわち“神の子”と呼
ばれているとするなら、まして「父が聖別して、世につかわされた者」は当然“神の子”と呼ばれるべき
ではないかと、主イエスは言われるのです。このようにして、主イエスは、パリサイ人らの殺意と悪企み
に対しても、親が子供を優しく、また時に厳しく諭すように、彼らを悔改めへと助け導いて、福音を信じ
受け入れることができるように心を砕いて下さいました。あのイスカリオテのユダに対しても、主は彼を
「友よ」とお呼びになったのです。

 今朝の御言葉のうちにも、私たちはその主の慈愛の御心を明確に読み取ることができます。特に37節
以下です。「もしわたしが父のわざを行なわないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行な
っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしに
おり、わたしが父におることを知って悟るであろう」。主は言われるのです。私が語った言葉、私が行なっ
た事柄、それら全てをあなたがたが見て、それが天の父なる神の御業ではないというのなら、私を信じな
くてもよい。しかし、もしそれが神の御業であると思うのなら、たとえ私を信じなくとも、そのわざ=「神
の事業」そのものを信じて、神に感謝と讃美と栄光を帰する者になりなさい。そのように主は言われるの
です。主イエスは少しも、ご自分の栄光、ご自分の誉れをお求めになりません。主が求めておられるのは、
福音を信ずることによって、私たちが救われることです。私たちの罪が贖われ、赦されて、私たちが新た
な永遠の生命に甦ることです。この御心はパリサイ人らに対しても少しも変りはないのです。

 まさに主イエスは、今朝の御言葉を通して、パリサイ人らを福音の真理に招いておられるのです。主の
切なる願いは私たちの救いです。私たちが本当に神を信じ、御言葉によって新たにされ、罪に打ち勝つ新
たな生命に生きる者になることです。キリストの使徒とされたパウロは、そのためなら、わが同胞イスラ
エルの救いのためなら、たとえこの身が呪われて神から離されても厭わないと申しました。燃えるがごと
き愛と熱心をもって、キリストの恵みのみを証する生涯を、殉教の死に至るまで忠実に全うしたのです。
エルサレム教会の執事、殉教者ステパノを通して現されたキリストの事業を、パウロもまた喜んで受け継
ぐ者とされたのです。パウロだけではありません。初代教会の使徒たちにはじまり、二千年後の今日に至
るまで、あらゆる時代のあらゆる場所で、キリストの事業が受け継がれてきたのです。

 それは、御言葉を宣べ伝え、真の教会を形成し、キリストの事業を、福音を、全世界の人々に宣べ伝え
ることです。この世界を今もなお支配しているかに見えるあらゆる罪の力に対して、キリストの十字架の
みが、決定的に、最終的に、そして永遠に、勝利したもうたことを宣べ伝えることです。行くべき道を見
失い、目的地を喪失した人類の歴史に対して、真の主がいつも「よき羊飼」として、御言葉と聖霊によっ
て、私たちを導いておられることを宣べ伝えることです。希望を失い、絶望に捕らわれ、死の支配の下に
ある全ての人々に、キリストに結ばれ、贖われた者の、真の幸いと希望、生命と祝福を宣べ伝えることで
す。この「キリストの事業」にまさる偉大な事業はありません。私たちは今まさに、この主の御身体なる
教会に連なることによって、そのキリストの事業のために、共に心を合わせて労する者とされているので
す。

 山梨県の清里高原に、清泉寮というキリスト教の施設があります。八ヶ岳山麓の荒地を開拓して、豊か
な農場を作りました。記念館にはインターナショナルの大きなトラクターが残されています。その創設者
であったポール・ラッシュという宣教師が、日本の青年たち、否、全ての日本人に対して、ひとつのメッ
セージを残しました。それは「汝の最善をなせ、しかして全てにおいて一流であれ」(Do your best, and it 
must be first class.)という言葉です。ヨハネ伝5章17節「わたしの父は今に至るまで働いておられる。
わたしも働くのである」この御言葉により、ラッシュ宣教師は開拓と伝道に生涯を献げたのです。なによ
りも使徒パウロはローマ書15章5節にこう記しています。「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、
キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたし
たちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」。

 私たちはキリスト者であっても、人間としてみな驚くほど考え方や価値観が違います。十人十色・百人
百色です。しかしそこに、私たちを一つに結ぶ堅い絆があるのではないでしょうか。それは、私たちは皆
ひとしく「キリストの事業」に仕える僕とされている事実です。それこそパウロが言うように、復活の主
の御身体なる教会に招かれ、生命なるキリストに連なって生きる者として、キリストにありて、互いに同
じ思いを、同じキリストの事業に共同参加する僕たちとされ「心を一つにし、声を合わせて、わたしたち
の主イエス・キリストの父なる神をあがめる」群れとされていることです。私たちの人生そのものが、互
いに個性も多様性もあるがままに、主によって豊かに用いられて、キリストの事業に仕える僕とならせて
戴いているのです。

 かつて訪ねた高知教会で聞いたことです。昔、片岡健吉という長老がいました。自由民権運動の指導者
で、衆議院議長を務めた人です。同じ教会の中に、政治上は正反対の立場に立つ人物がいた。ところが、
礼拝を終えて帰るとき、この2人は固い握手を交し合い「あなたと私は、政治の上では正反対の立場であ
るが、互いに神の栄光のため、キリストの事業に邁進しましょう。そしてこの国のために、大いに励みま
しょう」と、互いの健闘を祈り合ったというのです。ただ教会のみが、このような真の交わりを生み育む
場所です。私たちはそのことを、今朝の御言葉と合わせて、神の祝福として心に留めたいと思います。

 終わりに、今朝の最後の39節に、主イエスが、捕らえようとするパリサイ人らの手をのがれて「去っ
て行かれた」と記されています。これは、十字架への道をまっしぐらに歩むためです。この「去って行か
れた」とは、彼らから離れたことではなく、十字架へと向かわれることによって、彼らの罪を担われたこ
とです。主は今もなお、教会により、御言葉と聖霊により、救いの事業を行っておられるのです。その「キ
リストの事業」に、共に心をひとつにして仕えてゆく私たちでありたいと思います。祈りましょう。