説     教     詩篇23篇1〜6節   ヨハネ福音書10章7〜15節
          
「主はわが牧者なり」
2018・09・02(説教18351765)

 今朝お読みしたヨハネによる福音書10章7節に「よく、よく、あなたがたに言っておく。わたしは羊
の門である」との主イエスの御言葉があります。今朝はこの御言葉から、いま私たちに与えられている福
音の真理を汲み取って参りたいと思います。主イエスがおられた西暦1世紀の前半はユダヤの歴史にとっ
て「終末の時代」でした。ローマ軍によるエルサレムの占領という国家的壊滅が迫り、国内の政治や思想
や生活は刻一刻と滅亡に向かいつつありました。ちょうど川の流れが滝に近づくにつれて速さをましてゆ
くように、当時のユダヤの人々の生活もまた、歴史の終末に向かって急転しつつあったのです。そこで、
そのような世情不安の時代には、必ず様々な主義主張、思想や団体が現れ、互いに自説を主張して譲り合
わなくなるものです。当時のユダヤにも、パリサイ派をはじめとして、サドカイ派、熱心党、ヘロデ党、
エッセネ派など、様々な団体が「われこそは真理なり」と主張して、互いに鎬を削っていたのです。

 中でもパリサイ派(パリサイ人)は言うまでもなく宗教的伝統主義者でした。モーセの律法や古来の伝
承を忠実に守り、自らは神の選民なりとの自覚に立ち、外国の文化や風習を軽蔑するグループでした。そ
れに対してサドカイ派は、合理主義・世俗主義的な考えから、むしろギリシヤ的な文化や習俗を積極的に
受け入れ、体制に順応することを旨としていた団体です。また熱心党はそれとは正反対に、熱烈な愛国主
義者たちによる政治的テロリズム集団で、ちょうど今日のイスラム過激派のように、武力でローマの支配
を打ち砕くことを目的としていた人々です。さらにエッセネ派というのは、そのような煩わしい現実の世
界から離れて、人里離れた野山に隠遁生活を送っていた宗教団体であり、バプテスマのヨハネとの関係が
近年注目されるようになった団体です。

 このような数々の、互いに矛盾し対立する多くの党派・団体が、自分の行きかたこそ人間を救い、国家
を建て直す道であると主張していたのが、主イエスの時代の社会情勢でした。従ってこの時代は、民衆の
側から見れば「船頭多くして船、山に登る」でありまして、国民はどれが真の指導者であるかわからず、
迷うばかりであったのです。ですから主イエスはマタイ伝7章13節に「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、
羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内実は強欲なおおかみである」とお教えになりました。
そして同じマタイ伝9章36節には「イエスは、群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている
のをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」とあります。様々なこの世の主義主張、情報や価値観の
坩堝の中で、真の救いをどこにも見出すことができず「弱り果てて、倒れている」民衆の姿こそ、主イエ
スの時代の人間の姿でした。そしてそれはそのまま、現代の私たちの社会をも現わしているのではないで
しょうか。私たちのこの21世紀の社会こそ、ますます人間が行く道を見失い、途方に暮れ、弱り果てて
いる、そのような社会なのではないでしょうか。

 主イエスは、人を惑わす偽りの指導者の特徴を、ヨハネ伝10章1節においてこのように教えておられ
ます。「よく、よく、あなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からではなく、ほかの所からの
りこえて来る者は、盗人であり、強盗である」。この「ほかの所から」というのは「父なる神に拠らない」
という意味です。神に拠らず、ただ人間の知恵や力から来る救いは虚しいのです。羊の群れが真の牧者を
必要とするように、人間にも真の牧者が必要なのです。救い主が必要なのです。そこでこそ、主イエスは
今朝の御言葉の7節に「よく、よく、あなたがたに言っておく。わたしは羊の門である」と言われました。
羊にとって、私たち人間にとって、この「門」とは信仰を意味します。しかもただの信仰ではなく、主イ
エスが「狭き門」と呼ばれたもの、つまりパウロが「信仰による神の義」と呼んだ、主イエス・キリスト
を「わが主、救い主」と信じ告白する、まことの信仰告白です。だからこそ、主イエスはここに「わたし
は羊の門である」と言われたのです。

 この世の偽りの指導者、にせ預言者たちは、このキリスト告白という唯一の正しい「門」から出入りせ
ず、「ほかの所から」囲いを「のりこえて」侵入するのです。つまり彼らはキリスト以外の所から、神に拠
らず、自分の力によって、キリスト告白以外の方法をもって、囲いの、社会の内側に入り込み、そこで人々
の心を捕らえ、扇動しようとするのです。そのような指導者たちを主イエスは「盗人であり、強盗である」
と言われます。彼らには真理がないので、虚偽や策謀や利益によって民衆の心を支配し、扇動しようとす
るのです。そこに、彼らの「偽り」であることが現れているのです。羊の所に来るのに「門からではなく、
ほかの所からのりこえて来る者」は、決して真の牧者、真の救い主(キリスト)ではありえないのです。

 偽りの指導者の性質はそれだけではありません。彼らは人々に生命を与えず、かえって人々の生命を奪
う者です。それが10節以下の御言葉です。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするため
にほかならない」。偽りの指導者はいつも「民衆のため」という大義名分を背負って現れます。主イエスの
時代のパリサイ人らが、まさにそのような「偽りの指導者」でした。彼らは律法を人々に守らせようとし
ましたが、人々の重荷を負い、彼らを救うために、何一つしなかったのです。この偽りの指導者には、節
操と責任感がありません。それは、本来、羊は彼らのものではないからです。つまり10章12節を見ます
と「羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。
そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからで
ある」とあるとおりです。真の羊飼いと偽の羊飼い(雇人)との違いは、平穏無事である時には見分けが
つきません。しかしひとたび「おおかみ」が来襲するような非常事態になりますと、たちまち真偽が明ら
かになります。雇われた偽の羊飼いらは「おおかみが来るのを見ると、羊を捨てて逃げ去る」からです。
羊よりも自分のほうが大切だからです。主イエスの時代の祭司やレビ人たちは、ちょうどこのような者た
ちでした。

 それでは、真の牧者とは、どのようなものでしょうか。それは全ての点で、偽りの牧者とは対照的です。
まず、真の牧者は正しい唯一の門から、すなわち、キリストを信ずる信仰から出入りし、人々をキリスト
によって、キリストのもとへと教え導くものです。だから主イエスはこの10章の2節以下に「門からは
いる者は、羊の羊飼である。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く」と仰せになりました。「そし
て彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊
はその声を知っているので、彼について行くのである」と言われるのです。真の羊飼い、人々に救いを宣
べ伝える者は、盗人や強盗のように、囲いをのりこえてではなく、キリスト告白という唯一の「門」から
入って来るのです。門番である教会の長老会は、そのために礼拝を整え、教会に仕え、正しい教理を保ち、
主の御声が一人びとりの魂に届くように心を配ります。それが牧会の務めです。牧会とは、主の御声が群
れ全体に響き渡るように務めることです。そして「羊は彼の声を(主イエスの御声を)聞く」のです。キ
リストの御糧にあずかる群れとなるのです。そして真の牧者は私たち一人びとりの名を呼びます。かけが
えのない「あなた」として私たちを招きたまいます。私たちはその御声に安心して従ってゆくのです。そ
こには少しの強制もなく、作為も、策謀もありません。キリストに対する全き信頼と核心が支配するとこ
ろに、策略や政治的支配は必要ではないからです。それがないから、政治的支配を行使しようとするので
す。

 ウィリアム・テンプルというイギリスのすぐれた聖書学者が、今朝の御言葉についてひとつの実例を紹
介しています。パレスチナ地区のある井戸のほとりに、幾組かの羊飼いと羊の群れが正午の休みをとって
いた。やがて羊飼いが立ち上がり、自分の羊の名を呼ぶと、羊たちはそれぞれの羊飼いのあとに、間違い
なくついて行った。その場に居合わせた旅行者が、ためしに羊飼いの着物を借りて羊の名を呼んでみたけ
れども、羊に何の反応もなかった。次に、羊飼い自身が声を出したら、羊はすぐその声に反応してついて
いった。

 次に、真の羊飼いは、人々を真の救いと生命へと導きます。10章9節10節にこうあるとおりです。「わ
たしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が
来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊に命を得さ
せ、豊かに得させるためである」。真の羊飼いは、羊をあらゆる危険から守り、彼らを憩いの水際、緑の牧
場に導き、生命を豊かに得させるのです。聖書を読みはじめてしばらくした人が異口同音に言うことは、
聖書には、この世の道徳訓や処世訓という、いわゆる「感動話」が殆どなく、ただ主イエス・キリストの
ことだけが書いてあるということです。それが正しい読みかたです。なぜなら、私たち人間の罪と死の問
題は、道徳訓や処世訓ではとても間に合わないからです。罪と死という、いわば鉄壁不動の障壁を打ち砕
いて、私たちに真の自由と生命と幸いを与えるのが福音であり、聖書はその福音を私たちに伝えている神
の言葉なのであります。だから聖書の中心は主イエス・キリストのみなのです。主の御名以外に私たちの
救いはないからです。

 最後に、真の牧者は羊のために生命を捨てるものです。今朝の11節です。「わたしはよい羊飼である。
よい羊飼は、羊のために命を捨てる」。よい羊飼い、真の羊飼いは、羊の群れに危険がおよぶ時、自分の生
命を投げ出して羊を守り、その生命を救うのです。それは羊を知り、その群れを限りなく愛しているから
です。だから主イエスは14節にこう言われました。「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わ
たしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っ
ているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである」。ここに主は、ご自分と私たち
との関係を、天の父なる神とご自分との永遠の聖なる関係になぞらえて下さるのです。私たちは、主イエ
スに対しても、父なる神に対しても、何ら相応しい関係を持ちえない存在です。しかし主イエスは、限り
ない愛によって私たちの罪を贖い、その死と滅びの障壁を、ご自分の生命を捨てて打ち破って下さり、そ
の救いの御業によって、信ずる者を一人残らず義として下さるのです。義として下さるとは、永遠の昔か
ら、御父とご自分との間にあったその関係をもって、私たちをご自分に結び合わせて下さったことです。
私たちはこの主イエスの御声を聴き、主イエスにお従いし、主イエスの道を歩むことにおいてのみ、天の
父が御子イエスを完全に知られ、また主イエスが御父を完全に知っておられるのと同じように、完全に私
たちが神によって知られている幸いに生きる者とされるのです。それがパウロの言う「義」なのです。ま
さにそのために、主イエスは私たち全ての者の贖いとして十字架にかかって下さいました。「よい羊飼は、
羊のために命を捨てる」これこそ主イエスの御姿そのものです。顧みて、私たちは、主イエスのために、
何かを捨てているでしょうか?。主イエスのために、大切なことをも捨てることを学ぶのが、生きた信仰
の生活です。私たちは、そのような生活をしているか改めて問われるのです。主イエスは私たちのために、
本当に全てを捨てて下さった。そのようにして、私たちの罪を贖って下さいました。私たちを極みまでも
愛し、十字架の死を選び取って下さったのです。そこに、私たち全ての者の唯一の救いがあるのです。

 「わたしは羊の門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろ
う」。この「門」イエス・キリストを通って永遠の生命、神との完全な交わりに、私たちは入らせて戴いた
のです。そこから、この世のそれぞれの務めへと、主の祝福を受けて、御言葉による平安を戴いて、遣わ
されてゆくのです。祈りましょう。