説    教   イザヤ書19章23〜25節  ヨハネ福音書10章16〜18節

「宣教の使命」
2018・08・26(説教18341764)

 私たちキリスト者にとって、信仰生活の中で、心に常にかかっている問題は、教会の外にいる人々(未
信者)の存在の問題ではないでしょうか。主イエス・キリストが世に来られ、福音を宣べ伝えられ、救い
の御業を確立なさったはずのこの世界に、どうして、こんなにも多くのキリストを信じていない人々(未
信者)がいるのか、という問題です。これは優しいようで実は難しい問いです。単なる数の問題でもあり
ません。たとえば、あるところに数百人の礼拝出席のある教会がある。私たちはそのような教会を見て「す
ごい」と思い「うらやましい」とも感じるのではないでしょうか。「どのようにすれば、そんなに成長でき
るのか」と思うのではないでしょうか。しかし、そのようないわゆる「大教会」といえども、この世の中
では、本当にごく小さな群れにすぎません。

 横浜指路教会と言えば、神奈川連合長老会で屈指の、いわゆる「大教会」ですけれども、横浜に住んで
いるある人が「あそこは廃墟だと思っていました」と語ったのを聞いて、本当に驚いたことがあります。
日曜日以外にはほとんど人の出入りがないものですから、その人は「あそこは廃墟だ」と思っていたとい
うのです。また、私は講壇交換などで日曜日に電車や車で遠くの教会に行くことがありますが、そのよう
な時、休日の世間というものは本当に、ものすごい数の未信者で溢れかえっているわけです。当たり前で
すね。みんな遊びに出かける人々です。スポーツの試合に出かける学生も多いです。つまり、一歩教会の
外に出れば、こんなにも大勢の人々が、教会とは全く無縁な生活をしているのだということを改めて思い
ますとき、改めて私たちの責任を考えさせられるのです。

 わが国のキリスト教人口は、総人口の約0.6パーセント、つまり千人あたり僅か6人、最近の統計では
もっと低いとも言われています。サッカーで有名なブラジルは、国民のほとんどがカトリック教徒です。
「あなたはカトリックですか」と問えば、千人中999人が「はいそうです」と答える国です。サンパウロ
の中心に聖母マリア教会という大きな教会がありますが、そこには毎日、数百万人の人々が集まります。
毎日数百万人です。あるいは、お隣の韓国では、国民のおよそ25パーセント、4人に一人がクリスチャン
です。ソウルの町では毎朝暗いうちから、教会の早天祈祷会に出席する人で道路が渋滞するのです。これ
を「早天祈祷会渋滞」と呼ぶのです。こうしたことを、私たちはどのように考えたら良いのでしょうか。
そうした国では、キリスト者であることが当然のことですから、私たちのような問題意識は起こらないの
でしょうか?。そういたしますと、今朝のヨハネ伝の御言葉の読みかたも違ってくるのでしょうか?。

 主イエスは言われました。今朝の御言葉の16節です。「わたしにはまた、この囲いにない他の羊がある。
わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群
れ、ひとりの羊飼となるであろう」。これは、主イエスから私たちに、宿題が、ノルマが、課せられている
ということなのでしょうか?。いわば、そのノルマを十分に満たしているブラジル、十分ではないけれど
も合格点に達している韓国のような国がある。しかし、まだまだ前途遼遠な「キリスト教後進国」の私た
ちにとっては、今朝のこの御言葉は、過酷な要求のように響くのでしょうか?。そのように今朝の御言葉
を読むべきなのでしょうか?。

 スコットランドに、牧羊犬コンテストというのがあります。シェットランド・シープドッグという犬が
活躍します。どの犬が、いちばん早く羊の群れを囲いの中に入れることができるか、その速さと手際のよ
さを競うコンテストです。私たちの伝道の務めをこの牧羊犬の働きに譬えるなら、私たち日本の教会は、
間違いなくコンテスト最下位の牧羊犬かもしれません。130年かかっても、千匹の羊の群れの中から僅か
6匹しか囲いの中に入れることができなかった。今朝の御言葉の前に、シッポをたれてうなだれてしまう
ほかない私たちなのでしょうか?。

 たしかに、今朝の御言葉は、そのようなノルマ(成績)を要求するもののように読めなくはないのです。
事実、そのような読みかたを、教会はしてきたのです。しかし本当にそうなのでしょうか。主イエスから
の伝道のノルマとして、今朝の御言葉は読まれるべきなのでしょうか。そうではないと思うのです。長い
歴史の中で、今朝のヨハネ伝10章16節以下の御言葉は、本来のヨハネ伝にはなく、後の時代に付加され
た言葉だと考えられてきました。しかし、そうではないと思います。何よりも、ローマ帝国による初代教
会の迫害という深刻な事態に直面して、各地のキリスト者の群れが、それこそ狼に散らされるようにばら
ばらにされた。その散らされた群れが再び一つになる主の御約束に加えて、まだ信仰を持っていない多く
の人々をも、主はいつの日にかこの「囲い」の中に、教会の中に、救いの群れの中に、導いて「一つの群
れ」として下さる。その望みに初代教会の人々は生き、宣教の使命に生き続けたのです。その希望を御言
葉によって先取りし、喜びつつ、感謝と讃美の礼拝を献げ続けたのです。

 ところが、やがて中世の時代になりますと、ローマ・カトリック教会による解釈として、今朝の御言葉
の「囲い」という言葉がカトリック教会の組織制度、また「ひとりの羊飼」という言葉がローマ教皇のこ
とだと理解されるようになり、そこに、今朝の御言葉がノルマのように解釈される下地が作られたのです。
そればかりではなく、プロテスタント教会をこの「囲い」の外にあるものとして扱い、いつか全てがロー
マ教皇のもとに一つの群れとされる日が来るのだという、教皇至上主義のカトリシズムへと変質してゆき
ました。基本的にはこの理解のまま、ローマ・カトリック教会は今日に至っています。

 しかしもちろん、私たちはそのような理解はしません。と申しますより、主イエスはそのようなことを
語ってはおられない。まず、ここで留意したいことは、主イエスはここで、ついに「一つの群れ」「ひとり
の羊飼」となるであろうと語っておられるのであって、どこにも「一つの囲い」とは語っておられないの
です。このことをC.H.ドッドというイギリスの神学者は「一つの群れではあるが、多くの囲いがある」と
いう言葉であらわしています。主イエスがお語りになった教会の姿は、ある特定の地上の組織制度に統合
されたものではなく、数多くの組織制度が並立しつつ、しかもそこにある全てが「一つの群れ」であると
いう約束なのです。これを言い換えるなら、公同の教会(エクレシア・カトリカ)という基礎の上に多く
の建物があって、そのひとつ一つの建物が長老教会であったり、聖公会であったり、カトリック教会であ
ったり、メソディスト教会であったりする。しかしそのどの建物も「公同の教会」という唯一の基礎の上
に建てられている。その意味において「一つの群れ」「ひとりの羊飼」であるということです。

 だから私たちは、自分の建物だけが完全だと主張し得ないのと同じ意味において、自分の属する教会だ
けが、目に見える囲いだけが「真の教会」であり「主の群れ」であると主張することはできないのです。
ある教会史の大家が「自分の教会だけが完全であると考えることが異端の始まりである」と語っています
が、そのとおりです。教会の公同性、つまり、その教会が真にキリストの御身体となっているか否かは、
その教会が纏っている衣装にあるのではなく、その信仰告白の正しさにあるからです。私たちが常に顧み
て糺すべきは、私たちがいつも、正しい信仰告白に立つ群れとなっているか否かです。言い換えるなら、
私たちがいつも「ひとりの羊飼」なる主の御声のみを、正しく聴く群れとなっているか否かです。それは
何よりも礼拝において現わされます。私たちが真の礼拝を献げる群れに、いつもなっているか否かという
こと、それが大切なことなのです。

 それは具体的に、どのようなことでしょうか?。使徒パウロは第一コリント書14章24節以下にこう語
っています。「しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみ
んなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、
『まことに、神があなたがたのうちにいます』と告白するに至るであろう」。

 ここでパウロが言う「全員が預言をしている」とは、全員が神の御言葉、福音によって生きている姿で
す。全員が福音の喜びに生きる群れとなっている姿です。キリストのみを指し示す群れとなっている姿で
す。そのとき、そのような礼拝の場に初めて入ってきた人がそこで何を見るのか。何を経験するのか。そ
れこそ「彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ」ることで
あると、パウロは言うのです。私たち人間は、誰もが人生の旅路において、大きな重荷を負っています。
それは究極的には罪と死という重荷です。その重荷を、いかなる人間の道も、知恵も、力も、努力も、担
うことはできません。そこで私たちは、意固地になるのです。頑なな心になるのです。自分がその重荷を、
最後の最後まで、責任を負って背負わねばならないと思いこむのです。そこに、自分を審き、他人をも審
く罪が生まれます。その結果、絶望が私たちの人生航路を塞ぎます。そして私たちは例外なく、みずから
の罪の重みに押し潰されてしまいます。罪の本質は、私たちを造り主なる神の愛から引き離すことです。
イエス・キリストの恵みを見えなくすることです。その計略に、私たちは見事にはまってしまうのです。

 しかし、礼拝において、御言葉が救いの出来事として宣べ伝えられるとき、そこに私たちの思いを遥か
に超えた主の御業が現れます。おのれの中に頑なに籠もっていた私たちの思いが、御言葉の真理に触れた
とき、解き放たれ自由にされるのです。ここではもはや、罪の重荷を自分の中に抱え込んでいなくても良
い。それが「彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ」ということです。そして「その
心の秘密があばかれ」るのです。人生の重荷を、主の御手に委ねる幸いが始まるのです。主は言われまし
た。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
この主の御声に従い、私たちはこの礼拝において、御言葉を聴くことにおいて、御言葉の御糧にあずかる
ことにおいて、まさこの主の御手に、私たちの人生の重荷を委ねて生きる幸いに歩みはじめる。あなたは、
私と共に歩むことができる。私があなたの罪のいっさいを、十字架において担い取った。あなたは、わた
しのものだ。わが子よ、わが恵みにおいて強かれと、主は私たち全ての者に語っておられるのです。

 そのとき、私たちは「その結果、ひれ伏して神を拝み、『まことに、神があなたがたのうちにいます』と
告白する」にいたるのです。私たちみずからが、いつもそのような礼拝を献げる群れになるために、十分
な恵みを主から賜わっているのです。これは、私たちのことなのです。私たちが、そのような礼拝におい
て、一人でも多くの同胞に、福音による罪の赦しと、よみがえりと、自由と幸いとを宣べ伝えてゆくので
す。私たち一人びとりを、そのような証人として、主は世に遣わして下さるのです。

 そのように顧みて参りますと、今朝の御言葉はまことに、主イエスの祝福であり、恵みの約束であるこ
とがわかります。ノルマなどではないのです。あなたがたは駄目な、役立たずの牧羊犬だと、叱責されて
いるのではないのです。すでに御言葉において、聖霊において、そして何よりも、主の復活の御身体であ
るこの教会において、私たちに豊かに与えられている祝福によって、いつの日にか、この約束が成就する
時が来るのです。全世界が「一つの群れ」となり「ひとりの羊飼」なる主の御声によって、救いの御業が
完成する日が来るのです。そのとき主イエスは「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わた
しは彼らをも導かねばならない」と仰せになります。御自分の囲いに、この教会にいないからといって見
放されるのではない。まさにいま「この囲い」にいない事実のゆえに「わたしはかれらをも導かねばなら
ない」と主は言われるのです。私たちはここに、使徒ペテロに命じたもうた「わが羊を養え」との主の御
言葉を思い起こします。

 主イエス・キリストはここに、はっきりと、「ない」とか「他の」とかいう言葉によって、教会にとって
否定性を持ち、他者性を持つこの世の人々のことを「わたしは彼らをも導かねばならない」と仰せになる
のです。キリストを否定するから、教会にとって他者だから、どうでも良いというのではないのです。逆
なのです。まさにそのような否定性を持ち、他者である他の人々をも「わたしは、導かねばならない」と
言われるのです。私たちの教会は、この主イエスの御声に仕える群れなのです。キリストを否定し、教会
に対立する、そのような社会に対してこそ、私たちは愛と責任を持っている群れなのです。最初に申し上
げた「数ではない」とはそういうことです。愛と責任は数を問題としません。たとえキリスト者が全人口
の0.6パーセントであっても、私たちは落胆しない。また逆に、たとえキリスト者が全人口の100パーセ
ントになっても、それで十分とはしないのです。私たちがなすべき務め、主に対して果たすべき愛の責任
は、そこに主の愛したもう人間が存在するかぎり、主が十字架を担いたもうた世界があるかぎり、決して
変ることはないのです。そして主は、必ず約束を実現して下さるのです。祈りましょう。