説    教     箴言27章23節   ヨハネ福音書10章22〜30節
          
「御父と同質なる御子」
2018・08・19(説教18331763)

 今朝の御言葉、ヨハネによる福音書10章22節以下には、2つの大切な事柄が記されています。第一は、
神の御手の内にある羊(私たち)は神の所有である。つまり、私たちは、神の変らぬ御支配のもとに生き
る者とされ、決して滅びない者とされている、という約束です。第二に、御子なる主イエス・キリストと
御父なる神とは一体であられる、という福音の事実です。そこで、この2つの事柄は、いっけん別々のよ
うに見えますけれども、今朝の御言葉を丹念に読んで参りますとき、実は、ひとつの事柄の2つの側面を
現していることがわかるのです。すなわち、御子なる主イエスと御父なる神が「一体であられる」=同質
であられる、ということが、私たちが常に神の御支配のもとにあり、神の御手の内にある「羊の群れ」と
されている確かな保障なのです。

 そこで、このことを、私たち改革長老教会では、特に「神の選びの恵み」という言葉で言いあらわして
きました。それは特に、宗教改革者カルヴァンが“キリスト教綱要”という重要な本の中で繰り返し述べ
ていることです。 私たちが礼拝において、イエス・キリストを救い主、神の子と信じ告白していること
が、私たちが神の御手の内にある「羊の群れ」とされていることの、何よりも確かな揺るぎなき“しるし”
なのです。この確かな“しるし”によって、自らをも、また他者をも、そして世界をも、新たに見出す者
とされているということ。ここに、私たちキリスト者の本当の幸い、本当の喜びがあるのです。

 このことを言い換えますなら、御父なる神は御子なる主イエス・キリストを通して、私たちをお選びに
なられたという福音の事実にゆき当たります。それは、御父なる神と御子イエス・キリストとが同質であ
られることによるのです。御父なる神の御心は、完全に主イエス・キリストの御心と一致している。そし
て主イエスがなさったことは、すべて父なる神の御心を行ったことなのです。私たちは主イエスの御言葉
と御業を通して、御父なる神の御心と御業を知る者とされるのです。主イエスを通して、御父なる神を知
る者とされているのです。

 エルサレムの「宮きよめの祭」は毎年12月に行なわれるものでした。新共同訳では「神殿奉献記念祭」
と訳されています。さて、この祭において、あるユダヤ人たちが「ソロモンの廊」を歩んでおられた主イ
エスを「取り囲んで」尋ねました。今朝の24節です。「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。
あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。この「あなたは、キリストなのか」
という問いを、既に私たちはパプテスマのヨハネにおいても見ました。しかし「はっきり言っていただき
たい」というのは、証拠を示してほしい、つまり“しるし”を見せくれ、という詰問です。既に主イエス
は何度も、ご自身が神から来たキリスト=世の救い主であることをお示しになっておられます。ただ、人々
がそれを理解しようとしなかっただけです。否、理解するどころか、多くの人々は、主イエスに対する不
信と敵愾心とをあらわにしたのです。

 ですから主イエスは、続く25節にこうお答えになりました。「イエスは彼らに答えられた、『わたしは
話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わた
しのことをあかししている』」。たとえどんなに優れた事柄も、それを理解しようとする心のないところに
その真価は明らかにはさません。主イエスは私たちに、御言葉を正しく聴く信仰をお求めになります。否、
それ以上に、もし私たちが、主イエスの御言葉を正しく聴き、また、主イエスのなされた御業に接するな
ら、私たちは主イエスのことを心から、わが主、救い主と信じ、告白せざるをえなくなるのです。それ以
外の仕方で、主イエスに相対することはできなくなるのです。「イエス・キリスト」という御名そのものが、
私たちの信仰告白なのです。

 それゆえにこそ、主はこのように言われます。「『あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからで
ある。わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わ
たしは彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手
から奪い去る者はいない』」。

 主がここに、はっきりと示しておられるのは、御父なる神の選びの恵みです。神は私たちを、御子イエ
ス・キリストによって、何の価もないままに選んで下さり、ご自分の民、ご自分の羊の群れとして下さい
ました。羊の群れは一人の羊飼の声に導かれ、その声を聴くことによって生きるのです。羊飼のない羊の
群れは、死んだ群れ、死に定められた群れにすぎません。羊にとって羊飼の声こそ、生命に至らせる「生
命の言葉」なのです。
 これに反して、主イエスの御声を聞こうとせず、それ以外の者の声に従う人々がいました。私たち人間
の唯一の羊飼は、神の御子イエス・キリストあるのみです。すでに主が語られたように「羊飼ではなく、
羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊を捨てて逃げ去る」のです。この「雇人」
とは、主ではなく、実は雇人自身が誰かの僕なのです。そして愚かにも、主イエスの御声ではなく「雇人」
でしかない他の者の声に、私ども人間は耳を傾け、従ってしまうのです。神ならぬものを神とし、救い主
ではないものに拠り頼むのです。キリストに従う道より、この世の幸いを選ぶのです。御言葉に養われる
より、自分を富ませようとするのです。絶対的なものを相対化し、相対的なものを絶対化してしまうので
す。その結果、魂の果てしない放浪が始まるのです。人類の歴史は、神を見失った魂の放浪の歴史です。

 このような私たちに、主イエスははっきりと語りかけて下さいます。同じヨハネ伝15章16節です。「あ
なたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」と!。もし、私たちが自
分の力や自分の意志でキリストを選んだのであれば、それほど不確かな、頼りにならぬものはないでしょ
う。もし私たちの信仰が、私たちとキリストとの関係が、私たち自身の素質や知恵や修養に基づくもので
あるとしたら、そのような信仰は、いつでも、私たちの弱さによって崩れ、失われてゆくでしょう。しか
し、私たちに与えられている信仰は、救いの事実は、そのようなものではないのです。私たちの力や意志
によってではなく、まずキリストご自身が、測り知れない恵みによって、私たちを選び、ご自分のものと
して下さったのです。「わたしがあなたがたを選んだのである」とは、そういうことです。それなら私たち
に求められていることは、徹底的にこの選びの恵みを信じることです。自分を省みて一喜一憂するのでは
なく、私たちの救いのために、十字架にかけられ給いし主イエス・キリストを仰ぎ続けることです。

 それはいつも、今朝の28節の主イエスの約束に立ち帰ることです。「わたしは、彼らに永遠の命を与え
る。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」。この
御声がいま、私たち全ての者に与えられています。あたかも凶暴な「おおかみ」の牙から、まことの良き
羊飼が、生命をかけて自分の羊を守るように、神から遣わされた主イエス・キリストは、私たちを罪と死
の荒れ狂う支配の力から守り、贖うために、あらゆる御苦難を担われ、十字架への道を歩んで下さったの
です。

 そして主は、まさにその御自分の十字架の死を指し示しつつ、そこに私たち全ての者の救いと生命を確
立して下さいました。「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っ
ている」と宣言して下さいました。今朝の御言葉においても「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」と宣
言して下さいました。「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」のです。キリストの御言
葉が、福音の真理が、キリスト御自身が、私たちをあらゆる罪の支配から甦らせ、まことの生命(永遠の
生命)を与えて下さるのです。

 主イエスが唯一の、まことの羊飼であられるとき、私たちはそこに本当の幸い、本当の力を与えられる
のです。主イエスの御声を聴き、主イエスに従う私たちに、もはや罪と死は支配しえません。それゆえに、
主は約束して下さいました。「だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から
奪い去る者はない」と!。この「いつまでも」とは、永遠にということです。主は私たちを、私たち他が
受け継ぐべき永遠の御国に至るまで、堅く保ち、守り、導いて下さいます。これと同じことを使徒パウロ
は、ローマ書8章37節以下でこのように語っています。「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによ
って、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天
使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物
も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのであ
る」。

 私たちは、しばしば思うかもしれません。「もしかしたら自分は、神に選ばれた者でないのかもしれない」
と。「このような小さな、醜い、汚れた、弱い私を、神は選びたもうはずはない」と。そうではありません。
信仰とは望みに反して信じることです。私たちを恵みの御手に委ねることです。「わたしたちの主キリス
ト・イエスにおける神の愛」の前に、私たちは「もしかしたら」などと言えなくなるのです。「自分は神に
選ばれた者ではないかもしれない」と疑うことはできないのです。「どんな被造物も」つまりこの世界のい
かなる力も、キリストにおける神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。いかなるこの世の
力にもまさる、絶大な救いの御力に、私たちは守られているのです。

 西暦381年のニカイア信条に「御子は御父と同質にして」という重要な言葉=信仰告白があります。ど
うぞこれから、ニカイア信条を告白するたびに、今朝の御言葉を思い起こして戴きたいのです。まことに、
主は私たちの滅びの現実のただ中に、真の主、救い主として、来て下さいました。そこで「わたしと父と
は一つである」と宣言して下さいました。永遠なるかたが有限なものとなり、不死なるかたが死ぬ者とな
り、聖なるかたが罪人である私たちと共に住み、私たちのあらゆる破れと滅びのただ中に、父なる神の救
いの御業をもって来臨して下さったのです。御子なる神みずから、神の外に出てしまった私たちを救うた
めに、御父なる神の外に出て下さったのです。それが主イエスの十字架なのです。

 そこに、まさにこの十字架の主によって、私たちはあるがままに、神との永遠の交わりの中に招かれ、
教会に連なることにより、キリストの復活の生命に覆われて、神の御国の民とされ、神の御手の内にある
羊の群れとされて、新しい歩みを始めてゆくのです。今朝のこの礼拝においてもまた、福音の御言葉に押
し出されて、それぞれの信仰の歩みを始めて参ります。その私たちを「キリスト・イエスにおける神の愛
から、何ものも引き離すことはできない」のです。祈りましょう。