説    教   エレミヤ書33章10〜11節   ヨハネ福音書3章27〜30節

「主にまみゆる幸い」
2018・08・12(説教18321762)

 英国の詩人アルフレッド・テニスンに「河口をよぎりつ」というソネットがあります。テニスンが死の
前日に書いたこの美しい詩を、三谷隆正が訳しています。「日落ちて星輝けば/われを呼ぶ声す、ほがらか
に。/ああ、河ぐちの悲しみをなみ/すべり出でましおおうみに。/たとえば流れつつ淀むと見えし/満
ち充ちて音もなきうしお/はて知らぬ沖より寄せて/またもとにかえるがごとく。/たそがれて鐘はひび
きぬ/やがて日もくれはてぬべし/願わくはなげきなくわかれて/出でて去なまし。/よしや時と所とを
あとに/わがゆくてはるけかるとも/水先を導く君に/いでてまみえんとこそたのめ」。

 私たちの心に常にあり、片時も離れえない一つの問いは、私たちのこの人生が究極的にどこに向かって
いるのか、という問いではないでしょうか。「人はどこから来て、どこに行く存在なのか」。太古の昔より
人間の心を占めてきた、この難問の先には、しかし必ず私たちの死の問題が立ちはだかっています。「死に
打ち勝つ生はありうるのか」という問いです。それをテニスンは、あたかも波しずかな入江から大海原へ
と漕ぎ出ずる一艘の船になぞらえているのです。「たそがれて鐘はひびきぬ/やがて日もくれはてぬべし
/願わくはなげきなく別れて/出でて去なまし」。しかし、そこでこそテニスンはこう歌うのです。「よし
や時と所とをあとに/わがゆくてはるけかるとも/水先を導く君に/いでてまみえんとこそたのめ」。

 気がつけば「ほがらかに、われを呼ぶ声」が、確かに聴こえているではないか。「恐れるな、わが子よ。
われ常に汝と共にあり。わがものはすべて、汝のものなり」と呼びまつる主の御声が、死の床においてさ
え、私たちの全存在を支え続けるではないか。その御声の主こそ「水先を導く君」なる主イエス・キリス
トです。たとえ「わがゆくてはるけかりとも/水先を導く君に/いでてまみえんとこそたのめ」る人生、
それこそ人間として真に幸いな、希望の人生なのです。「死に打ち勝つ人生」なのです。言い換えるなら、
それは「キリストが主であられる人生」の幸いです。人はキリスト無しには、罪と死を「わが主」とする
ほかない存在です。ただキリストのみが、罪と死に対する唯一永遠の勝利者として、私たちと共にいまし
給うかたなのです。人生の「水先を導く君」なるイエス・キリストなしに、大海に漕ぎ出だすことはでき
ないのです。

 エーミル・ブルンナーという神学者がこう語っています。「私たちはキリストを主としないかぎり、人間
の数だけ主が存在する世界に生きるほかはない」。キリストが主であられない世界、それは人間の数だけ主
が存在する混沌(カオス)の世界です。人間一人びとりが「われこそ主なり」と主張し、同じ主張をする
他の人間に対立し互いに裁き合う、争いと混乱の世界であるほかはないのです。そしてその全ての小さな
「主」を統括している力こそ「罪」なのです。人間はみずからの主であろうとして、実は罪を主とするほ
かない存在なのです。自由を求めつつ、実は死の奴隷であるほかはない存在なのです。そのような、人間
存在にまつわる根本的な罪と死の桎梏を断ち切り、私たちの歩みを希望の大海原へと導くかたこそ、主イ
エス・キリストなのです。今朝の御言葉において、バプテスマのヨハネが証しているのは、まさしくこの
主イエス・キリストの絶大な贖いの恵みです。ヨハネは最後の預言者として、生涯をかけて十字架の主イ
エス・キリストのみを証しし指し示しました。ヨハネの姿は教会の使命そのものです。その意味でバプテ
スマのヨハネは、最後の預言者であったと同時に、最初のキリスト者であり、最初の教会員であった人で
す。

 今朝の御言葉に記された事柄の発端は、あるとき「きよめのこと」で「ひとりのユダヤ人」とヨハネの
弟子たちとの間で「争論が起った」ことでした。そこで弟子たちがヨハネのもとに来て言いますには「先
生、ごらん下さい。ヨルダン川の向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをし
ておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」と、
こう告げたわけです。それで、バプテスマのヨハネが答えて申しますには「人は天から与えられなければ、
何ものも受けることはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者であ
る』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である」。これはたいへん含蓄に富んだ言葉で
す。もともと、ヨハネの弟子たちにしてみれば、自分たちの先生であるヨハネからバプテスマを受けたナ
ザレのイエスが、師匠であるヨハネ以上に多くの人々の人気を集めているのが気に障って仕方がない。追
い打ちをかけるように「イエスが人々にバプテスマを授けている」という噂まで伝わって参りましたから、
これはもう黙っているわけにはいかないということで「先生、あのかたのすることを、放っておいて良い
のですか」と尋ねたわけです。それが今朝の26節です。

 それに対してヨハネは「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」と答えて、弟
子たちの短慮軽率を戒めました。主イエスがそうなさっているのは「天から与えられた」ものを「受けて」
おられるのであって、その行いは神の御心から出たものである。私はあなたがたに「私はキリストではな
い」と言っておいたはずではないか。それを「あかししてくれるのは、あなたがた自身である」のに、あ
なたがたは私をキリストに祭り上げようとしている。そのほうが問題ではないかと、ヨハネは弟子たちを
厳しく戒めているわけです。

 そして、ヨハネは更に申しました。29節以下です。「花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って
彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。彼は必ず栄え、わたしは衰える」。ここに、ヨハネという人の
真骨頂が現れています。ここで「花嫁」とはイスラエルの民、ひいては全ての人々をさしています。花嫁
を娶るのが一人の花婿であるのと同じように、この世界の唯一の主はイエス・キリストであり、それ以外
に主はありえないとヨハネは言うのです。ではヨハネは何かと申しますと、その花婿の「友人」にすぎな
いと言うのです。この「友人」とは「仲人」のことです。ユダヤでは花婿の友人が仲人を務めました。仲
人は花婿と花嫁の仲介役であって主役ではありません。仲人は婚姻が無事に成立したのを見届けて「喜ぶ」
ために存在します。それが「花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ」と記されて
いることです。ヨハネは、自分はそのような者であると言うのです。そこに、ヨハネがキリストに先立っ
て荒野に遣わされた理由がありました。「荒野に主の道を備える」ためです。全ての人々をキリストへと導
くためです。花嫁であるこの世界に、キリストを紹介することこそヨハネの使命なのです。それは同時に、
私たちの教会に委ねられた福音宣教の使命そのものではないでしょうか。福音を宣べ伝えるとは、キリス
トのみを宣べ伝えることです。キリストのみを宣べ伝えるとは、全ての人々に、いま現臨して救いの御業
をなしておられるキリストを紹介することです。キリストとこの世の仲介役になることです。その意味で
教会はキリストとこの世との「仲人」です。仲人である限り教会は、人間が自分自身の「主」ではありえ
ないのと同様に、世界の「主」ではありえません。世界の主、そして教会の主は、イエス・キリストのみ
です。教会は、イエス・キリストを唯一の「かしら」とすることによって、全世界に対して、歴史と世界
の唯一の「主」を証しするものです。まさしく今朝の御言葉に描かれた、バプテスマのヨハネの姿そのも
のなのです。

 それと同時に、教会は、今朝の御言葉あるように「立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ」
群れです。「立って」とは、キリストに仕える者の姿勢です。私たちは教会に、ただ客人として集うのでは
ありません。生きるにも死ぬにも、キリストに仕える生活をなすために集うているのです。「水先の導きな
る君」の御声に従うために集うているのです。それこそ礼拝者としての姿勢であり、私たちは「彼(すな
わちキリスト)の御声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ」者たちなのです。牧師は御言葉の説教のため
に、それこそ生命をかけて準備します。聴く者も自分に対する神の御言葉としてそれを聴きます。御言葉
を中心にしたこの緊張関係のないところに、正しい礼拝の群れは生れません。真の教会は建たないのです。
説教の務めは、キリストの救いの御業に仕えることです。だから説教は宗教講話や道徳訓ではありません。
いわゆる「今日はいいお話を聞いた」という世界であってはならないのです。かつて関西一円に伝道をし
たヘールという宣教師がいました。ヘール宣教師いわく「嘘をつかず、正直に、みんな仲良く暮らしまし
ょう、というような話は、教会の説教ではありえない」。私たちのために、十字架への道を歩まれ、全人類
の罪の重荷を、一身に担って死んで下さった主イエス・キリストのみが「水先の導きなる君」として、死
の大波をも越えしめて下さるのです。

 バプテスマのヨハネの生涯は、常に人々の無理解と混乱の中にありました。そもそも私たち人間は、自
分に都合の良いことだけを聞こうとするのです。いわゆる「耳に心地よい」言葉を求めるのが人間なので
す。しかしヨハネは決して妥協しませんでした。重症の患者に対して、いいかげんな気休めを言うのは、
医者のなすべきことではありません。あるがままの厳しい病気の現実に立ち向かい、これを克服する医療
を施してこそ、はじめて医者の名に値するのです。それと同じようにヨハネも、罪によって死に直面し、
神から離れた人類に対して、気休めの希望などは語りませんでした。ヨハネが宣べ伝えたのは「罪の赦し
を得させる悔改めのバプテスマ」であり「世の罪を取り除く神の小羊」なるキリストのみでした。このよ
うな伝道者、また教会のあるべき姿勢を、使徒パウロは次のように語っています。テモテ第二の手紙4章
1節以下です。「神のみまえと、生ききている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、
キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、
それを励み、あくまで寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教えに耐えられな
くなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そし
て、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも
謹み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務めを全うしなさい」。

 私たちは、いつの日にも変わることなく、この礼拝者、キリスト者たる姿勢において、健やかな群れで
あり続けたいものです。パウロは続く18節でこう語っています。「主はわたし(たち)を、すべての悪の
わざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永遠から永遠にわたって、神にあ
るように、アァメン」。今朝あわせて拝読したエレミヤ書33章10節以下、特に12節と13節にも明確な
約束が告げられています。「万軍の主はこう言われる、荒れて、人もおらず獣もいないこの所と、そのすべ
ての町々に再びその群れを伏させる牧者のすまいがあるようになる。山地の町々と、平地の町々と、ネゲ
ブの町々と、ベニヤミンの地、エルサレムの周囲と、ユダの町々で、群れは再びそれを数える者の手の下
を通りすぎると主は言われる」。

 イスラエルでは今日でもそうですが、羊飼は羊を愛して、その一頭一頭を名前で呼びます。夕方になり、
群れを柵の中に入れる時刻になると、羊飼は一頭ずつ羊の名を呼び、安全な柵の中に迎え入れるのです。
それこそ主イエスが言われたように「わたしの羊はわたしを知り、また、わたしの声を聞き分ける」。その
光景そのままです。群れの中におらず、羊飼のもとにいない羊は、夜の間に死んでしまいますから、羊飼
は心をこめて羊の名を呼ぶのです。そこでこそ預言者エレミヤは語ります。今日の私たちの世界は罪によ
って、あたかも養う者のいない羊の群れのような、哀れな、寄る辺なき状態ですけれども、その私たちの
世界に、真の救い主なるイエス・キリストが来て下さる。主はその全地のあらゆる所で「群れは再びそれ
を数える者の手の下を通りすぎる」一つの群れ、一人の羊飼となって、罪と死の支配は永遠に終わりを告
げる。その確かな救いの約束が、まさに主イエス・キリストの十字架において、私たちのただ中に成就し
たのです。

 まさしく、私たちを極みまでも愛し、ご自身の生命を注ぎ尽くして下さったキリストの御手においてこ
そ「わがゆくてはるけかるとも/水先を導く君に/いでてまみえんとこそたのめ」る者の幸いが、生にも、
死にも、私たちの人生全体の幸いとなる。そこでこそ私たちは「人間はどこから来て、どこに向かう存在
なのか」この太古からの根源的な問いに、確かな答えを見出し得るのです。生きるにも、死ぬにも、否、
死を超えてまでも、私たちは、私たちの真実なる贖い主、イエス・キリストのものであることであります。
「イエス・キリストにおける神の愛」から、いかなる力も、私たちを引き離すことはできないのです。私
たちは、主の御名を讃えます。ヨハネのように、キリストの絶大な恵みを証せずにおれないのです。教会
は、実にそのような信仰の志に生きる者の群れであり、神は全ての人々を、この群れの中へと御招きにな
っておられるのです。祈りましょう。