説    教   出エジプト記3章1〜6節  ヨハネ伝福音書5章37〜40節

「聖書の中心」
2018・08・05(説教18311761)

 あるとき主イエスは、エルサレムのベテスダの池の回廊で、38年間も病気で寝たきりであった人をお癒
しになりました。しかしその癒しが安息日に行われたことを非難するパリサイ人たちが、たちまち主イエ
スに論争を挑みかけて来たのです。すなわち同じヨハネ伝5章16節を見ますと「ユダヤ人たちは、安息
日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた」と記されています。これに対して主イエスは17
節に「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」とお答えになり、父なる神の
救いの御業をあまねく世に現されることが、ご自身の使命であることを明確になさいました。

 ところが、この確かな答えを聞いたにもかかわらず、パリサイ人・律法学者たちは18節にあるように
「イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされた」
と難癖をつけ、ついに「イエスを殺そうと計るようになった」のでした。ここに彼らのキリストへの敵意
はいっそう露わになり、十字架への道は決定的なものになったと言えるのです。

 しかし、大切なことは、このような憎しみと敵意の渦中にあっても、なお主イエスは、彼らの心を最も
大切な一つの問いへと導いて下さったことです。それは「永遠の生命」を問う問いでした。主イエスはご
自分の身の危険をさえ少しも顧みたまわず、むしろあらゆる機会をとらえて、ご自分に敵対する人々をも
神の祝福のもとに導いて下さるのです。その尊い導きが豊かに現れている御言葉こそ、今朝の5章38節
以下です。「また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしを
するものである」。

 主イエスの時代のユダヤ人たちには、全ての人々が関心を懐いていた一つの大きな問いがありました。
それは「どうすれば永遠の命を受けることができるか」という問いでした。福音書の中に記された、一人
の青年が主イエスに向かって「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と問
うた出来事、またある律法学者が「先生、何をしたら永遠の命が受けられましょうか」と尋ねた出来事、
それらはみな当時のユダヤの人々の共通の関心がどこにあったかを如実に示すものです。

 しかし当時の多くのユダヤ人にとって「神の国」は多分に政治的なものでした。つまり支配者であるロ
ーマ帝国の圧政から自由になって、ダビデ王朝時代の繁栄を回復することが「神の国」の実現であると考
えられていたのです。その実現のためにこそ、メシヤ(キリスト)が来るのだと考えていたのです。この
ような、生ける神との関わりを見失い、政治的な選民主義に陥った「永遠の生命」の思想はやがて、自分
が「何をしたらよいか」という社会的倫理思想へと変質し、功績主義にすり替わってゆきました。「何をし
たらよいでしょうか」という問いはまさにその功績主義を現しています。

 主イエスがお教えになった「神の国」すなわち聖書が語る「神の国」とは、そのような政治的な理想国
家の実現や功績主義ではありません。それは「神の永遠の御支配の実現」という意味であり、いつどの時
代、どの民族にもあてはまることなのです。私たちの身も魂も、罪と死の支配から贖われ解放されて、神
の恵みの永遠の御支配のもとに移されること、そして私たちが主の御身体なる教会により、復活の生命に
結ばれた神の僕となること。それが主イエスの語られた「永遠の生命」なのです。

 このことを明らかにされるために、主イエスは今朝の5章39節に「あなたがたは、聖書の中に永遠の
命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」と言われました。
その背後にはパリサイ人たちが「永遠の生命」を求めて熱心に聖書を調べていたことがあります。実際に
聖書を「調べる」彼らの姿勢には徹底的なものがありました。ラビ(ユダヤ教の教師)になるために、旧
約聖書すべてを暗記することが求められたほどです。しかし彼らの聖書の読みかたは枝葉末梢にこだわっ
た律法主義となり、聖書の本質である福音を読み取るものではなかったのです。「論語読みの論語知らず」
になっていたのです。聖書の中心使信をつかむことができなかったのです。

 キリストの使徒となる以前のパリサイ人サウロも、そのような誤った聖書の読みかたをしていた一人で
した。パウロはピリピ書3章6節において、かつての自分は「律法の義について落ち度のない者」であっ
たと語っていますが、それは聖書を「神の国」に入るための自分の努力目標として読み、その要求を満た
しえた、ごく一部の限られた「落ち度のない」者だけが「神の国」に入れるのだと考えたのです。そうす
ると、聖書の御言葉は、生命の恵みへの招きではなく、人間の功績を要求する律法にすぎなくなってしま
います。聖書はもはや福音ではなく、単なる律法の書になってしまうのです。

 そもそも、聖書の中心はどこにあるのでしょうか。聖書は何をこの世界に語るのでしょうか。その最も
大切なことを、主イエスは「この聖書は、わたしについてあかしをするものである」という御言葉によっ
て現しておられるのです。さて、私たちは新約聖書については、それがキリストについて「あかしをする
もの」だと納得できます。それなら旧約聖書はどうなのでしょうか。旧約聖書には「キリスト」という言
葉は一箇所も出てきません。しかも主イエスが今朝の御言葉で語っておられる「聖書」とは旧約聖書のこ
となのです。では、旧約聖書がキリストを「あかしする」とは、どのようなことなのでしょうか。

 私の書斎にドイツのベルリン大学で旧約学を教えていたヘングステンベルクという人の「旧約聖書に証
されたキリスト」という本があります。約100年ほど前のものですが、今でも圧倒されるほど素晴らしい
内容の神学書です。この中でヘングステンベルクは、旧約聖書の全体が十字架と復活の主イエス・キリス
トの「証言に満ち満ちている」と語っています。一例をあげますなら、アダムとエバの失楽園において、
神が彼らに授けられた「皮の着物」はキリストの義による罪の贖いを証しています。また、アブラハムが
独子イサクを犠牲として献げたことは、神の独子イエス・キリストの十字架による人類の贖いの出来事を
証し、ヤコブの子ヨセフの誠実な麗しい人格は、来るべきキリストの御性質を証しています。シナイ山に
おいてモーセに贖罪所の定めが示されたことも、また、荒野で上げられた青銅の蛇も、キリストの十字架
による罪の赦しを証しているものです。預言書や詩篇などにはさらに多くのキリスト預言が証言されてい
ます。数え上げるならきりがありません。それに加えて旧約聖書は、直接にキリスト預言とは言えない部
分においても、キリスト以外に人間の救いはないということを直接的・間接的に証言しているのです。

 このことをカール・バルトは「旧約聖書は待望という形で、新約聖書は想起という形で、ともに十字架
の主イエス・キリストを証言している」と申しました。証言の仕方、矢印の方向は違いますが、旧約も新
約もともにキリストによる救いを指し示しているのです。また、パスカルはパンセの中で「イエス・キリ
スト、彼を二つの聖書は、旧約はその希望として、新約はその模範として、いずれも中心とみなしている」
と語っています。私たちの教会で、これは改革長老教会の伝統ですが、必ず旧約と新約が読まれるのはそ
のような理由からです。聖書は旧約と新約のいずれも、主イエス・キリストを「あかしする」ものなので
す。だからこそ、それは「聖書」(唯一の書、バイブル)と呼ばれるのです。

 聖書を、おのれの努力目標(律法)として読んでいたとき、パリサイ人サウロの魂には喜びも平安も自
由も確信もありませんでした。「ああわれ悩める人なるかな」という不安と絶望だけがあったのです。その
サウロが聖書の読みかたを一変させられたのは、復活のキリストとの出会いでした。聖書の中心が十字架
の主イエス・キリストであることを示されたとき、画竜点睛を得たごとくに「聖書がわかった」のです。
聖書の中心はキリストであり、旧約聖書もキリストのみを「あかしするもの」であると知ったとき、サウ
ロにとって聖書の御言葉は、もはや人間の努力目標などではなく、確かな信仰と祝福への招きとなりまし
た。人間は自分の行いの義によってではなく、ただイエス・キリストを信ずる信仰による「神からの義」
によって救われ「神の国」の民とされるのです。そこには何の資格も条件も問われないのです。大切なの
はただ「イエスは主なり」と告白する信仰だけです。

 サウロは、否、パウロは、いまこそ知りました。「論語読みの論語知らず」ならぬ「聖書読みの聖書知ら
ず」に陥っていたパリサイ人たちは、せっかく生命の泉に至る地図を手に入れたのに、その泉のもとに行
こうとしなかった人に似ています。今朝の40節には「しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしの
もとにこようともしない」との主イエスの御言葉が記されています。このことは二千年前のユダヤ人の悲
劇でのみならず、今日に至るあらゆる人間の根本的な悲劇でもあるのではないでしょうか。「永遠の生命」
は昔も今も変わりなく、十字架の主イエス・キリストのもとにのみあるのです。

 万葉集に「山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく」という歌があります。「人知れぬ
山奥にひっそりと生命の泉が湧いている。私は死んだ妻を生き返らせるために、その泉の水を得たいと願
うけれども、その場所がわからないので途方に暮れている」という意味の、高市皇子という人の歌です。
そしてこれは、近代日本の文化人・教養人の共通した嘆きでもありました。しかし、私たちは、知らない
のですか?。そうではありません。私たちはいま、この礼拝において、はっきりと知らしめられているの
です。永遠の生命の泉は、ただ十字架の主イエス・キリストにあることを!。この無上の恵みを知る者と
して、いま私たちは礼拝者としてここに集い、全能の父なる神の御名を讃美しつつ、キリスト告白の幸い
と喜びに新しく立つ僕とされているのです。「汲みに行かめど道の知らなく」ではなく、いまあなたのため
に、主があなたのもとに来て下さった幸いを知る者として、心を高く上げて信仰の道を歩んで参りたいと
思います。祈りましょう。