説    教    ホセア書11章1〜9節   ヨハネ福音書12章31〜33節

「キリストの愛」
2018・07・29(説教18301760)

 「『今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこ
の地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう』。イエスはこう言って、
自分がどんな死にかたで死のうとしていたかを、お示しになったのである」。今日の主日礼拝において、私
たちはこの大切な主の御言葉を与えられました。主イエスはここに「今はこの世がさばかれる時である」
と仰せになります。この主イエスの御言葉は直訳するなら「今こそ、世に対する、神の正しい審き、ここ
にあり」という意味になります。

 「今こそ、世に対する、神の正しい審き、ここにあり」。こうお聴きになると、ずいぶん口語訳の印象と
は違うのではないでしょうか。この「ここにあり」とは「揺るがず厳然として在り続ける」という意味の
ギリシヤ語です。何が「揺るがず厳然として在り続ける」のでしょうか?。それこそ主イエスが「どんな
死にかたで死のうとしていたか」つまり主イエスの十字架の死による、私たち全ての者の救いの出来事で
す。

 さて、古代ユダヤの律法では、誰かがある人を訴えて審く場合、必ず複数の証人を必要としました。こ
の形式は実は現代の裁判制度にも、そのまま受け継がれています。しかし主イエスの十字架と御言葉は違
うのです。主イエスの十字架と御言葉は、父なる神の聖なる救いの御意志を世に現すものですから、それ
は真理そのものであって、他の誰かによって支えられたり、補われたりする必要はないのです。主イエス
が福音の御言葉をお語りになるとき、そこには「世に対する、神の正しい審き」が「揺るがず厳然として
在り続ける」のです。それこそ私たちの救いの喜びと直結するのです。この福音の真理の現われを、主イ
エスは「今こそ、世に対する、神の正しい審き、ここにあり」と仰せになったのです。

 私たちは「審き」と聞きますと、暗い、ネガティヴなイメージしか持たないのではないでしょうか。特
に、人が人を審くことにおいてはなおさらです。しかし主イエスが「神の正しい審き」と言われるとき、
その「審き」は、私たちの救いと自由に直結している福音の真理なのです。主なる神は、私たちを罪と死
の支配から贖い、真の救いと自由を与えるために、そのためにこそ「世を審き」たもうのです。「神の正し
い審き」とは、実に私たちの“救い”のための「審き」である。これは聖書全体を貫いている明確な音信
です。聖書で「審き」と言うとき、それは例外なく「救いのための審き」なのです。

 これを子供の教育に譬えて申しますなら、本当に子供を愛する親や教師は、その子供や生徒が正しい道
から離れて、悪い方向に向かおうとしているとき、それを決して見過ごしにはしません。叱責し、戒め、
愛の鉄槌をふるってでも、子供を正しい道に導こうとするのではないでしょうか。そこで「あなたの勝手
だよ」と言うのは、子供の自由を尊重しているのではなく、悪しき放任主義にすぎません。そこで、こう
した愛の導きは、それを受けた子供の側から見れば、厳しい「審き」に見えることでしょう。しかしそれ
はその子の成長にとって、どうしても必要な「審き」です。それが無いことこそ大きな不幸です。最近は、
子供を上手に叱れる親が少なくなっていると聞きました。それは言い換えるなら、必要な「愛の審き」と
そうでない「審き」を区別できる大人が少なくなってきているということです。それは根本的には、主な
る神の「愛の審き」を知らないところから来ている問題ではないでしょうか。一見、自由奔放に見えるア
メリカの子供たちも、家庭での躾は日本とは比較にならないほど厳しいものがあります。それは社会全体
がキリスト教の基礎の上に建っているからです。「正しい審き」のない社会は決して人間に自由と幸福をも
たらさないことを知っているのです。私たちはどうでしょうか。聖書の中の「審き」という言葉を、私た
ちはいつも正しく理解し受け止めているでしょうか。

 いま私たちこそ、正しく聴き取らねばなりません。「今こそ、世に対する、神の正しい審き、ここにあり」
との主イエスの恵みの宣言を!。これは端的に申すなら、私たち全ての者の救いのために、神の御子イエ
ス・キリストがこの世に来て下さったことです。そして、私たちの罪の全てを担って十字架への道を歩ま
れたことです。言い換えるなら、本来は私たちが受けねばならなかった「神の審き」を、主イエスが私た
ちの身代わりになって担って下さった。それがあの十字架の御苦しみと死と葬りの出来事なのです。です
から主イエスはここに、ご自分の十字架の苦しみと死をお指しになって「今こそ、世に対する、神の正し
い審き、ここにあり」と宣言しておられるのです。

 私たちは、自分が神の御前に、決して立ちえざる罪人であると、心の底から思っているでしょうか。「罪
人」という言葉を、余りにも軽く用いていないでしょうか。私たちが「罪人」であるということは、謙遜
の表現でも、言葉の遊びでもありえないはずです。それは実は「神の正しい審き」によって永遠の死を宣
告されるほかはない、そのような存在であるということです。讃美歌258番に「世にある人みな、力のか
ぎりに、いそしみ励みて、正しく生くとも、聖なるみかみの、恵みを受くるに、たれかは足るべき」とい
う歌詞があります。宗教改革者ルターが愛唱した讃美歌です。私たちは本心からそう感じているでしょう
か。私たちの救いは私たちの中にはなく、ただ神の御子イエス・キリストの十字架にのみあると、確信す
る僕になっているでしょうか。

 私たちは、主イエス・キリストの十字架の内に、私たちの罪と死に対する、主なる神の「正しい審き」
を見ます。そこに神の聖なる御子が、人となられて、否、滅ぶべき罪人となられて、釘付けられ、血を流
し、息絶えたもうたのです。「わが神、わが神、何ぞわれを見捨てたまひし」。それは本来、私たち罪人が
叫ばねばならなかった絶望の叫びでした。主イエスはその、私たちが叫ぶべき絶望の叫びをさえご自分の
ものとして、身代わりに背負って下さったのです。私たちが十字架の主の内に、私たちの罪と死に対する
「神の正しい審き」を見るとは、そのような意味においてです。まさにそこにこそ、私たちを、罪と死の
支配から救うための「神の正しい審き」が現れているのです。だからこそ主は言われました。「今こそ、こ
の世の君は追い出されるであろう」と。この「この世の君」とは、人間を神の愛の御支配から遠ざけ、束
縛していた「罪」の支配にほかなりません。使徒パウロもエペソ書6章12節においてこう語っています。
「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、ま
た天上にいる悪の霊に対する戦いである」。「血肉」とは“人間”という意味です。私たち主の教会に連な
る者は、人間に対して戦いを挑むのではない。私たちの戦いの相手は、常に罪と死の支配であり、その支
配に対して、主イエス・キリストが決定的に勝利しておられる。この主の勝利に連なる群れとして、全力
を尽くして礼拝者として生き、御言葉の糧にあずかり、キリストの愛と恵みの主権のもとに生き続ける。
それこそ私たち教会に連なる者たちの挑むべき戦いなのです。

 そして、主は続けてこうも仰せになります。「そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての
人をわたしのところに引きよせるであろう」。まことに大きな慰めに満ちた御言葉です。主イエスが「地か
ら上げられる」とは、十字架の死と葬り、そして復活と昇天の出来事をあらわします。つまり、私たちの
救いと生命のために主がなして下さった全ての御業です。主が救いの御業を終えて、天の父なる神のみも
とに帰られるとき、そこに驚くべき救いの御業が、全世界に現わされると宣言して下さったのです。それ
は「すべての人をわたしのところに引きよせる」ことです。これは主が父なる神のみもとから聖霊をお遣
わしになって、この世界のいたる所に、ご自身の復活の御身体である“教会”をお建てになるということ
です。

 主イエス・キリストの救いの御業は2000年昔の過去の出来事なのではなく、今もこれからも、そして
永遠に続くところの、教会における聖霊による救いの御業なのです。御言葉と聖霊において現臨しておら
れるキリストによって、私たち一人びとりが生きておられる復活の勝利の主イエス・キリストの救いの御
業に結ばれた僕とされているのです。この「すべての人」とは、主イエス・キリストを信じ告白して、教
会に連なるすべての人という意味です。ヨハネ伝3章16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この
世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 主イエス・キリストにおける神の愛、これをあらわすために、使徒パウロはアガペーという新しいギリ
シヤ語を編み出しました。これはキッテルというドイツの聖書学者が語っていることですが、実はこの“ア
ガペー”というギリシヤ語は、新約聖書に現われる以前にはたった一度、古代ギリシヤの詩に現われたこ
とがあるだけの非常に珍しい言葉であった。その詩人は、どうしても人間の愛(エロースやフィリア)で
は表わしえないものを「神の愛」に感じたのです。それをパウロは再発見して新約聖書の中に取り入れた
のです。それは「すべての人をわたしのところに引き寄せる」神の愛です。相手に愛するに価する価値が
あるから愛する愛ではなく、相手に何も価値がなくても、その価値なき者をあるがままに極みまでも愛し、
自分自身を献げる愛、それがパウロの言う“アガペー”(神の愛)なのです。

 よく私たちは、愛の一つの理想として「無償の愛」と言いますが、実は「無償の愛」ほど難しいものは
ないのです。私たち人間の愛は必ず、相手に価値を求める「有償の愛」だからです。だから、その価値が
なくなったとき、愛もまたなくなるのです。しかしキリストの愛は違います。ここにこそ本当の無償の愛
があるのです。それは価値追及的な愛ではなく、価値創造的な愛です。そのキリストの愛を聖書はアガペ
ーと呼ぶのです。
それは預言者ホセアが、神の愛に叛いたイスラエルの民を、その叛きの罪にもかかわらず極みまでも愛し
て下さった神の愛を知った喜びに繋がります。

 主イエスは、御前に立ちえざる私たちを、そのあるがままに愛し、赦し、受け入れたもうたがゆえに、
あの呪いの十字架を負うて下さった。そこでご自身が、徹底的に傷つき、破れ、血を流し、死ぬ者となっ
て下さった。そこに私たち全ての者の救いがあります。私たちは十字架において、この世の最も低き所に
降りて来て下さった神に出会います。その神をこそ「わが主、救い主」とお呼びします。だからこそ今朝
の御言葉の最後の33節を心に留めましょう。「イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとして
いたかを、お示しになったのである」。私たちに対する限りない愛のゆえに、主は永遠の滅びとしての死を、
ご自分のものとして下さった。その主の死によって、私たちは救われ、贖われ、甦らされて、主の復活の
御身体なる教会に連なり、主の愛の内を、歩む者とされているのです。祈りましょう。