説    教   出エジプト記23章1〜3節  ヨハネ福音書7章45〜53節

「信仰生活の場」

2018・07・22(説教18291759)  主イエスを捕らえて連れて来るようにと、祭司長やパリサイ人らに命じられた「下役ども」は、しかし 彼らの命令に反して、主イエスを連れて来ることをしませんでした。そのため、祭司長やパリサイ人らは 非常に憤り、彼らに「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」と問い質した、そういうことが、今朝の最 初の45節に記されています。「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。この言葉はいっけん乱暴でない ように見えますけれども、彼らにしてみれば、怒髪天を衝くような思いで口走ったことでした。彼らにし てみれば、主イエスを捕縛し、暗黙裡に処刑する絶好の機会を、みすみす逃してしまったわけです。それ で、祭司長らの憤懣やるかたなき思いは、命令に叛いた「下役ども」へと向けられたのでした。  要するに祭司長・パリサイ人たちは、毎日大勢の群衆が、主イエスのお語りになる御言葉に耳を傾けて いるのが面白くなかったのです。自分たちの権威が侵害されている思いがしたのです。自分たちは律法の 専門家・宗教のエキスパートである。その自分たちの権威をさしおいて、なぜ民衆は、名もなく、教育も、 名誉も、権威もない「ナザレ人イエス」なる人物の話に耳を傾けているのか。それはきっと民衆が「律法 をわきまえない」「呪われた」無知蒙昧の輩であるからに相違ない、そのように律法学者らは考えたのです。 「下役ども」が自分たちの命令に叛いたのも、それと同じように、彼らが無知蒙昧の輩だからだと考えた のでした。  しかし「下役ども」は祭司長たちに申しました。「この人の語るように語った者は、これまでにありませ んでした」と。彼らは、主イエスがお語りになる“福音の真理”に心打たれたのです。神の御言葉のみが、 私たち人間に、真の自由と平安、喜びと祝福を与えます。パリサイ人らの語る言葉には、それはありませ んでした。彼らは律法を語るけれど、重荷を負うて苦しんでいる人に、指一本でも貸そうとはしなかった からです。しかし主イエスが語られる言葉は違いました。それは直接に、人間の魂の最も奥底にある、根 本的な飢え渇きに触れ、それを潤す慰めに満ちたものでした。そのことに、彼ら「下役ども」は心打たれ たのです。神の御言葉の力に接して、頑なな心を開かれたのです。だからこそ、彼らは自分たちの立場や 身の安全をも忘れて、敢えて祭司長・パリサイ人らの命令に叛いたのです。主イエスを捕らえることをし なかったのです。むしろ主イエスに、思う存分に御言葉を語って頂きたいと願ったのです。それは彼ら自 身が、もっと主イエスの御言葉を聴きたいと願ったからです。  そこで、今朝の47節をご覧になりますと、パリサイ人たちが彼らに怒りを爆発させている様子がわか ります。「パリサイ人たちが彼らに答えた、『あなたがたまでが、だまされているのではないか。役人たち やパリサイ人の中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。律法をわきまえないこの群衆は、のろ われている』」。特にこの最後の言葉は彼らの本心を現わすものです。「律法をわきまえないこの群衆は、の ろわれている」。ここで「この群衆」と訳された元々の言葉は「地の民」(アム・ハ・アレツ)という言葉 です。旧約聖書のエズラ記4章4節に由来があります。紀元前6世紀後半、バビロン捕囚後のエルサレム 第二神殿建設事業のさい、その建設事業を様々な形で妨害した「地の民」なる輩がいたことをエズラは記 しています。そこから「地の民」という言葉は「神の御計画を妨害する者」「救われざる民」「穢れた人間」 という意味で用いられるようになりました。パリサイ人らはまさにこの言葉を用いて「下役ども」をはじ め、主イエスの御言葉に耳を傾ける「群衆たち」を呪ったわけです。  これは要するに、彼らが呪うのは、自分たちの命令に背く人間であって、神の御言葉に叛く人間ではな かったことです。ここに祭司長・パリサイ人らの決定的な誤りがありました。つまり彼らは、神の御言葉 を聴く人間ではなかったのです。だからこそ、神の御言葉を喜んで聴く人たちを「地の民」と称して呪っ たのです。もちろん群衆も、皆が全て正しく主イエスの御言葉を聴いていたわけではありません。興味本 位で集まっていた人たちも大勢いたことでしょう。しかし少なくとも「この人の語るように語った者は、 これまでにありませんでした」という、主イエスに対するこの思いだけは、みな一様に抱いていたのでは ないでしょうか。そしてそこから、新しいことが、神の救いの御業が始まってゆくのです。私たち人間の 思いを遥かに超えた、新しい神の御業です。  今朝の御言葉の後半50節以下に、ニコデモという人が登場して参ります。同じヨハネ伝の3章に出て くるニコデモです。彼は「パリサイ人のひとり」で「ユダヤ人の指導者」でした。ニコデモという名は「勝 利の民」という意味です。何が勝利するのか、神の御言葉が勝利するのです。その名の示すごとく、ニコ デモは自分の地位や権威よりも神の御言葉を重んじた人です。それである日、夜陰に乗じて主イエスのも とを訪ね、御教えを請うたということが3章に記されているわけです。そのニコデモが、再びここに登場 して参ります。彼は仲間のパリサイ人たちが聖書の御言葉に叛いていることを嘆いて、彼らに良識ある判 断を求めたのです。すなわち51節以下を見ますと「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を 聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」とニコデモは申し出 たのでした。これは今朝併せて拝読した旧約聖書・出エジプト記23章1節に出てくる律法の規定です。「あ なたは偽りのうわさを言いふらしてはならない。あなたは悪人と手を携えて、悪意のある証人になっては ならない。あなたは多数にしたがって悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において、多数にしたが って片寄り、正義を曲げるような証言をしてはならない。また貧しい人をその訴訟において、曲げてかば ってはならない」。  ニコデモは言うのです。われわれがいま「ナザレ人イエス」に対してしようとしていることは、まさに この律法に叛くことではないのか?。われわれは「ナザレ人イエス」について、正しい、偽りなき、片寄 らない知識を持っているだろうか。もしそうでないのなら、まずわれわれ自ら「ナザレ人イエス」の語る ことを聞き、その「したことを知った上で」はじめて「さばく」べきではないのか。それがニコデモの主 張でした。ところがこの当然の主張に対しても、祭司長・パリサイ人らは聞く耳を持ちませんでした。す なわち最後の52節にはこう記されています。「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラ ヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。ガリラヤからは預言者(神の御言葉を語る者) は決して現れない。これが頑ななまでの彼らの信念であり思い込みでした。彼らにとっては、神の訪れよ りも人間の権威が、御言葉よりも出身地が、正しい行いよりも自分たちの権威が、聖書よりも自らの思想 が、より重要であったのです。自分自身が真理を判定する基準となっていたのです。自分が基準なのです から、自分に逆らう者は全て、悪であり、罪なのです。「地の民」であり、呪われた輩なのです。  それは、何と恐ろしいことでしょうか。しかも、これは他の誰彼の問題ではなくして、まさにここにい る私たち自身が、かくも恐ろしい罪をみずからの内にも持つのではないでしょうか。それは自分を基準に して他者を審く罪です。御言葉が勝利するのではなく、自分の勝利を人生の目的とする罪です。この罪か ら自由である者は一人もいません。使徒パウロはこのことを「義人なし一人だになし」と申しました。「わ れは罪人のかしらなり」と申しました。「かしら」とは「第一等の者」という意味です。比較なしえないと いう意味です。罪を論ずるとき、他と自らを比較して論ずるのは、罪そのものが全然わかっていない証拠 なのです。何よりも罪の問題は、人間相互の倫理・道徳の問題に留まるものではありません。それは必ず、 神に対する絶対の問題とならざるをえないのです。罪の問題が絶対の問題であるということは、人間では 解決不可能だということです。人間は相対的な存在ですから、絶対的な問題は扱いえないのです。それは、 絶対者なる神のみが解決できるのです。私たちの罪の問題は、神の子イエス・キリストなくして、絶望と 死に向かうほかはないのです。  それならば、主イエス・キリストが、この罪の世界に来られたということは、絶対に絶望と死に向かう ほかはない私たちを、このかたが、絶対に救って下さるという音信であります。私たちの罪を絶対的に十 字架において担って下さった、神の御子イエス・キリストのみが、私たちを絶対に、絶望と死から救って 下さるのです。まさしく主は十字架において、私たちの絶望と死を担い取って下さったからです。それが キリストの十字架です。  主イエスの時代、ガリラヤは「暗黒の地」と呼ばれていました。それならば、まさに「地の民」である 私たち罪人のもとに、私たちの場である「暗黒の地」そのものに、神の御子は訪ねて来て下さったのです。 「異邦人を照らす光」となって下さったのです。救いのありえない処に、真の救いをもたらして下さった のです。だから、私たちはここに集うているのです。主が御自分の生命をもって贖い取って下さった主の 教会に、何の価もなくして招かれ、連ならしめられているのです。この世界と、私たち自身の、罪にまみ れた現実は果てしないものです。しかしまさにこの私たちの生活の場、この世界そのもの、私たちのある がままの人生そのものを、主は私たちの「信仰生活の場」として救って下さった。祝福して下さったので す。ご自身の十字架による罪の贖いという絶対の救いの恵みをもって、私たちを今ここで、歴史と人生の ただ中で、御国の民として下さったのです。だから私たちもニコデモと共に「勝利の民」とされているこ とを喜び、主イエス・キリストのみを証しする真の教会を、ここに形成してゆく僕たちとされているので す。  信仰生活ということを考えるとき、私たちのおかす一つの大きな危険は、私たちが信仰生活の場をユー トピアにしてしまうことです。いま現在の自分の生活とは全く違う、理想的な架空の世界を想定して、そ こが自分の生きるべき「信仰生活の場」であると思いこむことです。実はその時、私たちは自分を「主」 にしています。自分を神にしているのです。ユートピアという言葉は、本来ギリシヤ語のエウトポス(何 処にもない土地)という意味です。何処にもない土地を求めさ迷う私たちは、せめて自分を基準にして他 を審くことでしか安心立命を得られないのです。自己中心主義(エゴイズム)はユートピア追求に絶望し た現代人の行き着くかりそめの安住の地です。その意味では、祭司長・パリサイ人らも私たちも全く同じ なのです。  どうぞ、今朝の御言葉からしっかりと学びましょう。私たちはユートピアなどに惑わされる必要はない のです。なぜか。それは永遠の神の御子・主イエス・キリストみずから、私たちの日常生活のただ中に来 て下さり、そこで私たちの罪を担って、十字架にかかって下さったからです。そして永遠に私たちと共に おられるかたとして復活して下さったからです。十字架と復活の主が私たちと共にいて下さる、いま現在 のあるがままのこの私たちの人生こそが、まごうことなき「信仰生活の場」なのです。その限りない祝福 と幸いを、いま私たちは主の御身体なる教会に連なることにより、たしかに戴いているのです。そこに、 私たちの信仰生活が成り立ちます。主イエス・キリストにお従いする、私たちの新しい生活が始まってゆ きます。主の御口から御言葉を聴きつつ、御言葉に養われつつ、御国へと向かって歩んでゆく、私たちの 新しい歩みが始まってゆくのです。  教会をあらわす英語チャーチ(Church)は、もともと「主の家」を意味するキュリアコン(Kyuriakon) というギリシヤ語に由来しています。ドイツ語のキルヒェ(Kirche)も同じです。この「主の家」の主人 はイエス・キリストです。私たちのために人となられ、十字架におかかりになり、死して葬られ、復活し て下さった主イエス・キリストです。このかたに連なって生きる「主の家」の家族とされて、礼拝者とさ れて、私たちははじめて、与えられた自分の人生、生活そのものが「信仰生活の場」とされている幸いと 喜びに生きる者とされるのです。  そして、ここでこそ私たちは「この人(主イエス)の語るように語った者は、これまでにありませんで した」と、今朝の46節に記されている、あの「下役ども」の驚きの声を、自らの讃美の歌声として持つ 者とされているのです。「これまでになかった」とは、ここに驚くべき新しい救いと祝福が現れているとい うことです。私たち自身の生活と人生のただ中に!。いま私たちは、その幸いと喜びに、共にあずかる僕 たちとされているのです。祈りましょう。