説    教   エレミヤ書21章11〜12節  ヨハネ福音書12章47〜48節

「審判者キリスト」

2018・07・15(説教18281758)  われらの主イエス・キリストは、今朝、私たち一人びとりにこの御言葉をお語りになります。「たとい、 わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきた のは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである」。ここに、主イエスは言われるのです。 ご自分が「この世」に来られたのは「この世をさばくためではなく、この世を救うためである」と!。 これこそが今朝、私たち全ての者に与えられている福音の御言葉です。  さて、ここに「この世」とあるのは、同じヨハネ伝3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほど にこの世を愛して下さった」とある、その場合の「この世」と全く同じ言葉です。それはすなわち、私 たちのこのあるがままの世界のことを指しているのです。そしてこの、あるがままの世界とは、あるが ままの私たち自身のことです。その、あるがままの私たち自身とは、罪も汚れもあるがままの、救いを 受くるに足らぬ私たちのことです。すなわち、神の御子イエス・キリストは、罪と汚れに満ちた、救い の可能性のない、あるがままの私たちのため、その私たちを限りなく愛し、救って下さるために「この 世」に来て下さったかたなのです。  そこで改めて心を向けたいのは、では私たちは「この世」という大切な言葉について、正しく知りえ ているのでしょうか?。そもそも私たちは、本当に自分が主なる神の御前に、救いを受くるに価せぬ存 在であると、心の底から承服しているでしょうか。むしろ私たちは、自分は神に愛されて当然の者であ ると、心のどこかで驕り高ぶり、自分自身を頼みとしているのではないでしょうか。そのとき、実は私 たちは、主イエスが「さばかない」と約束された「この世」の罪の重さも、また「この世」に対する主 イエスの恵みの確かさも知らず、ただ、自分の正しさや清さに、なお拠り頼む存在として、ここに集う ていることになります。自分はキリストなしでも、けっこう正しく、清く、生きてゆくことができると、 自惚れているのです。だから、祈ることもしないのです。祈ることがあったとしても、それはただ、お ざなりな義務にすぎないのです。そのような者に、私たちはなってはいないでしょうか。  実は私たちは、今朝の御言葉を、安易な思いで、当然のごとくに聴くことはできないはずなのです。 「ああ良かった。やっぱり主イエスは、愛に満ちたおかただ」というような、甘えた気持ちで、受け止 めることはできないはずなのです。しかし私たちは、今朝の47節のような御言葉に出会うと、勝手に 自分を慰めてしまうのではないか。「この御言葉は、自分にはよく分かる。簡単に理解できる」と思いこ むのではないでしょうか。  そのとき実は、私たちは、御言葉を聴く僕の立場ではなく、御言葉を与えるキリストの側に立ってい ます。あたかも、十字架の予告を聴いて、あわてて主イエスの袖を引き「主よ、とんでもないことです。 左様なことがあってはなりませぬ」と誡めたあのペテロのように、キリストを訓戒する者として、神の 前に立ちはだかっているのです。  そのような私たちであるからこそ、そして、そのような身勝手な「この世」であるからこそ、主イエ スは今朝の47節に続いて、48節の大切な御言葉をお語りになりました。すなわち「わたしを捨てて、 わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの 日にその人をさばくであろう」と。  では、ここに主イエスが言われる「わたしの言葉を受けいれない人」とは、どのような人のことでし ょうか。この「受けいれない」という字は「信じない」という意味です。すなわち「わたしの言葉を受 けいれない」とは、主イエスの御言葉を“信じない”人のことです。耳では聞いていても、心では聴い ていない人のことです。それが「わたしを捨てて」と主が言われた、あるかままの「この世」の姿です。 そして最も大切なことは、その「この世」の姿こそ、ほかならぬ私たち自身の姿なのです。だから47 節でみずからを安心させてはならないのです。むしろ48節のほうにこそ、より多く心を傾けねばなら ないのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。47節では、主イエスはたしかに「わたしがきたのは、こ の世をさばくためではなく、この世を救うためである」と仰っておられる。ところが次の48節になる と、一転して「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある」と 言われる。主イエスは、矛盾したことを語っておられるのでしょうか。私たちに理解不能なことを仰っ ておられるのでしょうか。  そうではないのです。47節も48節も、まさしくここに集う、あるがままの私たちに語られている福 音(喜びのおとずれ)なのです。それは具体的に申しますと、48節に示されている恐るべき「さばき」 を、主イエスご自身が、私たちの身代わりとなって受けて下さったことによって、はじめて47節の祝 福が、私たち一人びとりに告げられているのです。この恵みを知った私たちは、もはや安易な思いで47 節を読むことはできなくなるのです。  主は48節において「わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある」と言われま した。この「さばくもの」とは「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」と 言われたように、主がお語りになった“御言葉”そのものを指しています。御言葉が私たちを「さばく」 とは、聞き慣れない表現ですが、正しい審きをお与えになるかたは、父なる神のみですから、この「さ ばくもの」とはすなわち、父なる神のことです。つまり「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその 人をさばくであろう」と主が言われたのは、父なる神の正しい審きが、今すでにキリストの御言葉によ って「この世」に現れているのだということです。  そういたしますと、本当の問題は“御言葉”だということがわかります。それこそ私たちが心を注ぐ べき唯一の事柄です。同じヨハネ伝12章30節において、天からの御声に接して様々な解釈をする人々 に対して、主イエスは「この声があったのは、あなたがたのためである。今はこの世がさばかれる時で ある」と仰せになりました。主なる神の御言葉である福音が宣べ伝えられることは、この世に正しい審 きの「時」が来たことを、全ての人々に示すことでした。その「さばき」とは、主なる神の御姿が、は っきりと私たちに示されることです。神の聖なる現臨が明らかになることです。太陽が昇ると全てのも のが光に照らされるように、私たちの隠れた悪しき行いや思いさえも、そこでは全て明るみに出される のです。  私たちは、そのような神聖な審きに、耐えることができない存在です。あの預言者モーセでさえ、主 なる神の御顔の前に立ちえませんでした。まして罪人なる私たちは、御言葉の光に照らされるとき、審 きを受けるほかないものではないでしょうか。使徒パウロの言う「義人なし、一人だになし」とは、ま さに御言葉に照らされ、聖なる神の現臨の前に顕わにされた、人間のあるがままの姿です。それこそが、 主イエスが今朝の御言葉に言われる「この世」の実態なのです。そして、まさにその現実の中でこそ、 主イエスは「わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである」と宣言して 下さったのです。  それは、どういうことなのでしょうか。審かれるしかない「この世」を、ましてや私たちを、審くた めではなく、救うために主イエスが来られたとは、どういうことでしょうか。それこそ、まさしく、神 の御子にして永遠に聖なるお方である主イエスが、私たちが受けるべき審きを、御自分の身に引き受け て下さったという、あの驚くべき福音の出来事に基づく音信なのです。それは十字架の出来事です。キ リストが担われた十字架は、本来は私たちが受けねばならなかった審きでした。それを神の子みずから、 身代わりになって負って下さったのです。そればかりではない。御言葉に叛き、神を信ずることなく、 おのれの正しさを頼みとしていた私たちの傲慢な歩みが「この世」にあらゆる審きを生み出しているの ですが、その、私たちが生み出した全ての審きをさえも主イエスは担って、十字架上に死んで下さった のです。  実に主イエスは、私たち一人びとりに語っておられます。「あなたの受くべき審きは、私が身代わりに なって全て引き受けた。あなたが死ぬべき永遠の死もまた、私が身代わりになって死んだ。だから、あ なたはもはや審きを恐れる必要はない。終りの日の審きの座においてさえ、あなたは私の義を身に纏っ て、喜びと平安の内に立つことができる。だから、安心して行きなさい。私の平安の内を歩みなさい」。 そのように主は、私たち全ての者に語っていて下さるのです。  カール・バルトやボンヘッファーらと共に、ドイツ告白教会(Bekennende Kirche am Deutschland) を組織し、第二次世界大戦の時代に、ナチズムの支配に対して、正統的信仰を掲げて敢然と戦いを挑ん だ神学者のひとりに、マルティン・ニーメラー(Martin Niemeler)という人がいました。異色の経歴 を持つ人でして、第一次世界大戦の頃、ニーメラーは潜水艦Uボートの艦長でした。戦後、一念発起し て神学校に入り牧師になった人です。このニーメラー牧師が自分自身のかつての体験を顧みて、著書の 中でこういうことを語っています。  当時の潜水艦はよく事故をおこした。ちょっとしたミスで浮力を失い、海底に沈んで、浮き上がれな くなることがあった。ニーメラーもそうした潜水艦事故を経験しているわけですが、浮上能力を失った 潜水艦は、自分の力では浮上できないわけです。百パーセント外からの救助を待つほかはない。それと 同じだとニーメラーは語っています。私たちもまた、自分自身の内側には、自分を救ういかなる力も持 たない存在である。本当の救いは、私たちの内側に根拠を持つものではないのです。私たちの真の救い は、ただ神の御子イエス・キリストにあるのです。私たち自身の中には、浮力は少しもないのです。私 たちはただ罪の海底に沈むだけなのです。  しかし、まさに主イエス・キリストは、そのような私たちを救うために、その海底にみずから降りて 来て下さった。そして、私たちを下から支えて、引き上げて下さった。そのために、私たちは救われた のですが、譬えて言うなら、主イエスは、私たちの身代わりになって、海底に沈んで、死んで下さった のです。それが、あの十字架の出来事なのです。  私たちのために、審きを引き受けて下さったとは、そういうことです。審判者なるキリストは、私た ちの罪を背負って、厳しい審きを引き受けて下さったのです。私たちはほんらい、みずからの罪の重み によって、どん底まで沈んでゆくほかない存在であった。そのような救われえぬ私たちを、主イエスは、 御自分の全てを投げ出して、救って下さったのです。そのために、主みずから、どん底にまで降って来 て下さったのです。それが、あのゴルゴタの丘における十字架の御苦しみと死、そして葬りの出来事な のです。  「恐れるなかれ、小さき群れよ、御国を賜わることこそ、汝らの天の父の御心なり」と、主は言われ ました。主イエスはまことに、天国から最も遠く離れていた私たちを、天の御国の民として下さるため に、全ての審きを受けて下さった審判者なのです。祈りましょう。