説    教   詩篇103篇15〜18節  ヨハネ福音書17章14〜16節

「主イエスの祈り」

2018・07・08(説教18271757)  私たち人間には、心の中に誰しも「これこそ私の最大の願いだ」という切なる願望があるのではない でしょうか。その内容はそれこそ十人十色ですけれども、私たちの心の中にはいつも、隠された「願い」 が潜んでいて、それが実現されるか否かに、私たちの人生の目的、また意味そのものがあるように思わ れるのです。言い換えるなら、私たち人間は何を「人生の最大の願い」とするかによって、人生の意味 そのものが大きく変わってくる存在なのです。小さな願いしか持たない人生はいきおい小さなものとな り、大きな願いを持つ人生はおのずとスケールの大きなものになるに違いありません。  しかしながら、人生の意味と願いとの関係は、実はそれほど単純なものではないのです。昔、豊臣秀 吉が天下人となった自らの人生を省みて「露とおき露と消えぬるわか身かな難波のことは夢のまた夢」 と詠いました。権勢を誇り天下を手中におさめたかに見える自分の人生も、譬えて言うなら、朝日を受 けてたちまち消えゆく露のような儚いものにすぎない。秀吉が嘆じたのはその身の儚さであり世の無常 でありました。  ですから、人生の願いは、ただ人の目に大きく見えれば良いというものではないのです。大切なのは その内容なのです。内村鑑三や新渡戸稲造の母校である札幌農学校、今日の北海道大学農学部の初代校 長として招聘されたW.S.クラークというアメリカの植物学者がいました。この人は敬虔なクリスチャ ンでして、教え子たちに農学を教授するのみならず、敬虔なピューリタン信仰の炎を残してゆきました。 彼のバイブルクラスから育った人々がいわゆる「札幌バンド」を形成し、わが国における有力なキリス ト教の母体の一つとなっていったのです。  さて、このクラークは来日わずか一年で札幌を去るのですが、生徒たちとの別れぎわに「青年よ大志 を抱け」という言葉を残したことは有名な逸話です。ところがこの言葉には大切な続きの部分があるの です。「青年よ大志を抱け、キリストにありて」というのが、クラークが残した本来の決別の言葉でした。 しかしなぜかこの「キリストにありて」(in Christ)は無視されて、前半の「大志を抱け」(boys be ambitious!)だけが後世に伝えられたのです。しかし、それではこの言葉の真意は伝わらないのです。 むしろ大切なのは「キリストにありて」なのです。  「青年よ、キリストにありて大志を抱け」。わが国におけるキリスト教の北辺の地における母体が、こ の真のフロンティア精神によって育まれたことの意味は大きなものでした。例えば、私たちの教会の大 先輩である宮崎牧師も、そのような北海道の精神的風土の中からキリストに出会い、牧会者へと導かれ ていったかたです。そこでこそ私たち今日のキリスト者に問われていることは、では私たちはいつもそ のような「キリストにある祈り」をもって生きているかどうかということです。歴史の遺産を単なる過 去の物語に終わらせず、いまの私たちの中に生かしているかどうかということです。  そこで「キリストにある祈り」とは、どういうことでしょうか。それは私たちにとってどのような「祈 り」なのでしょうか。それを明らかに示しているものが今朝のヨハネ伝17章14節以下の御言葉です。 すなわち、主イエスがこう祈っておられることです。「わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを 憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。わたしがお願いする のは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたし が世のものでないように、彼らも世のものではありません」。  私たちはここに、改めて襟を正して、主イエスのこの御言葉に耳を傾けねばなりません。「わたしが世 のものでないように、彼らも世のものではありません」。この「世のものではない」とは「この世に属す るものではない」または「この世に存在の根拠を持つものではない」という意味です。たしかに私たち はキリスト者であっても、生活の場をいつもこの「世」に持っています。私たちはこの世において仕事 をし、家庭を持ち、人間関係を営み、生活をしているわけです。言い換えるなら、この世に生活の場を 持たないキリスト者の生活はありえない。人間は精神だけでは存在せず、いつも肉体を持つのと同じよ うに、私たちはこの世においてこそ、はじめて信仰生活を正しく全うすることができるのです。  しかしながら、私たちの生活の場がこの「世」にあるということと、私たちがこの「世」に属すると いうこととは、全く意味が違うのではないでしょうか。それは譬えて言うなら、私たちが旅行に出かけ るとき、帰るべき自分の家があるのと無いのとでは、まったく旅行の性質が違ってくるのと似ています。 実際にあったことですが、ある婦人が親しい友人たちと一緒に温泉旅行に出かけました。宿に着いてゆ っくりと温泉に浸かり、さて楽しい夕食というところで、その夫人の家が火事で焼けてしまったという 電話がかかってきた。その報せを受けた瞬間から、もうその婦人の顔からは血の気が失せ、楽しいはず の旅行が失意のどん底に変ってしまったのでした。  そこで、私たちの人生もそれと同じではないでしょうか。私たちの人生もまた、帰るべき魂の故郷、 主なる神のみもとがあってこそ、はじめて意味を持つ、本当の人生になるのです。もし魂の故郷を持た ぬまま、あるいは喪失したまま人生を続けてゆくなら、それこそ旅の途中で家を失ってしまった人と同 じで、私たちは居ても立ってもおれなくなるのが本当なのです。もはやそれは旅行ではなく放浪であり ます。帰るべき家を見据えてこそ人生という旅は意味を持つのです。  それならば、今朝の御言葉の意味もおのずと理解されるのではないでしょうか。主イエスは「彼らは (つまり私たちは)世のものではありません」と言われました。つまり、私たちはこの「世」の生活と いう旅路の中を歩みつつ、帰るべき故郷を、天の御国を備えられているのです。それがこの「世」に生 活の場を持ちつつ、この「世」に属さない私たちキリスト者の歩みです。私たちは帰るべき天の御国の 家を、主イエス・キリストが十字架による贖いによって備えて下さったことを知るゆえに、この「世」 にありながら、しかもこの「世」に属するこの世の僕ではなく、キリストに属するキリストの僕として、 キリストの御業に仕える者とされているのです。  このことは実は、私たちの人生の本質そのものに関わる大切な事柄です。よく私たちは「命あっての 物種」と申します。人間にとって生命ほど大切なものはない。生命が全てに優先する。そうした生命最 優先の価値観を、余り深く考えずに受け容れています。本当にそれで良いのでしょうか?。本当に生命 は、何よりも尊いものなのでしょうか。ある意味で「命あっての物種」という価値観に支配されたこの 日本の風潮の中で、ではなぜ毎年3万人もの人々が、自らの手で生命を断つ現実があるのでしょうか。  不慮の事故で首から下が不随となり、絶望の淵でキリストに出会って洗礼を受け、以後の人生の全て を、口で絵と詩を書くことに献げた、星野富弘という詩人がいます。この人の詩にこういうものがあり ます。「命がいちばん大事だと思っていたころ、生きているのが辛かった。命よりも大切なものがあると 知った日、生かされているのが嬉しかった」。ここに、私たち人間の人生を本当に支えるものが如実に示 されていると思うのです。それこそ「命よりも大切なもの」の存在です。それは私たちのために十字架 にかかって下さった主イエス・キリストの恵みです。なぜならば、ただ主イエス・キリストのみが、私 たちの全ての罪の重みを背負って、呪いの十字架にかかって下さり、ご自分の生命の全てを献げ尽くし て下さったかただからです。  最近の生命倫理の問題の中で最大の焦点になっているものは、遺伝子レベルにおける生命の人為的な 操作が果たして許されるか否かという議論です。これは、近年における遺伝子工学、生命工学の急速な 発展によって俄かに起った新しい問題です。イギリスのドーキンスという学者によれば、人間の身体は 遺伝子の乗物(ビークル)に過ぎない、つまり人間という生物は「利己的な遺伝子」の乗物なのだ。遺 伝子の運び屋に過ぎないのだ。そのような価値観が急速に生じた結果「人間の価値=遺伝子の価値」と いう図式が定式化しつつあるのが遺伝子工学の立場から見た人間理解の現状です。ですから人ゲノムの 解析によって、将来は障害のない子供だけを産むことができるようになる。それが人類の幸福なのだと いう価値観へと変化しているのです。  敢えて断言します。こうした価値観からは、人間の存在理由は決して解明されないのです。もし私た ちが遺伝子の運び屋にすぎず、またその遺伝子の操作によって理想的な人間が誕生するというなら、個々 の人生の価値は遺伝子への奉仕だという結論になるからです。事実ドーキンスは「人間が他の人間のた めに犠牲になることほど不合理で愚かなことはない」と言いました。こうした価値観に人間の未来はあ り得ません。人生の価値と意味は科学的な方法論によっては解明されないのです。それを明らかにする のはただ神の御言葉のみです。  主イエス・キリストは、まさに絶対他者でしかない私たちのために、しかも罪人のかしらなるこの私 という一人のために、十字架におかかりになって生命を献げ尽くして下さった救い主なのです。この十 字架の出来事は、遺伝子工学者の目には愚かの極致に見えることでしょう。神の御子イエス・キリスト は、まさに私たちの罪という名の無限の無意味さのただ中に、ご自分の全てを献げ尽くして下さったの です。この十字架の主イエス・キリストの限りない恵みこそ、私たちの人生を真に支え導く、真の慰め と力であり、また人生の根拠そのものなのです。ここにおいてはじめて、私たちは「キリストにありて 大志を抱く」主の僕とされてゆくのです。まずキリストみずから私たちを訪ね求め、私たちに出逢って 下さり、私たちに御声をかけて下さった、その恵みの出来事の中で、私たちは本当にいま、この世の旅 路の中で、それぞれの人生の歩みの中で、永遠の神の家の家族とならせて戴いているのです。「キリスト にありて」こそ聖なる「志」を抱く僕とならせて戴いているのです。  あのマグダラのマリヤも、ラザロも、ステパノも、パウロも、スカルの井戸端の女性も、主の弟子た ちも、みなその幸いに生かされた人たちです。主が御手を触れて立たしめて下さった人々です。「ただ神 の御業がかれの上に現れるためである」と、主が宣言して下さった人々です。私たちもまた、その一人 とならせて戴いているのです。私たちの人生をこそ、主は限りなく愛し、祝福して下さっているのです。 だからこそ、主は今朝の17章15節において祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らをこの世 から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」。祈りましょう。