説    教    詩編32編1〜2節   ガラテヤ書3章13〜14節

「十字架の主」

 平塚富士見町教会にて 2018・06・24(説教18251755)  2010年3月10日の未明のことです。ご記憶のかたもあることでしょう。鎌倉は鶴岡八幡宮の大銀杏が 大音響とともに倒れる事件がありました。私は農学校の出身ですから、あの大木が突然倒れたことに興味 を持ち、翌日に観に行きました。実際に見て倒れた理由がわかりました。幹の中身が空洞になっていたの です。それで全体の重さを支えることができず、突然あのように倒れてしまったのです。  それと同じことが、私たち人間にも言えるのではないでしょうか。私たち人間の存在と人生を、本当に 支えるものは、いったい何でしょうか?。「人間」という字は「人の間」と書きます。しかしただ横の関係 =人間関係だけでは、私たちの人生は成り立ちません。大切なのは縦の関係=主なる神との関係です。も しそれを失えば、ちょうど樹木の幹が空洞になるのと同じように、私たちの人生も倒れてしまうほかはな いのです。垂直にして見えざる神との関係こそ、私たちの人生の内実であり基礎であらねばなりません。  九鬼周造という哲学者は「人間は垂直の絶対者との関係なくしては、ついに根源的偶然性に媒介された 存在にすぎない」と語りました。これと同じことをパスカルは「贖い主なる神との関係なくして、われら はついに宇宙の孤児であるにすぎない」と語っています。あなたの人生は空洞であってはいけない、宇宙 の孤児であってはいけない、神との関係、垂直の関係こそが、充実したものでなければならない、そして 本当の生命を得るものであらねばならない。それこそ、聖書が私たちに告げていることです。そのために、 私たちに求められていることは何でしょうか?。  生ける聖なる神との関係を、罪によって失ってしまった私たちは、自分の中に救いの可能性を持たない のです。救いはただ神にのみあるのです。神との関係を修復して頂き、霊の生命を回復するために、絶対 に必要なもの、それは「罪の贖い」です。主イエス・キリストは、まさにその一番大切な私たちの「罪の 贖い」のために、この世界に来て下さった神の独子・救い主なのです。言い換えるなら、私たちは人生と いう幹を空洞としないために、主イエス・キリストによる「罪の贖い」を絶対に必要としているのです。  ローマ書3章23節にはこうあります。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。これと同じ幸 いを、旧約聖書・詩編32篇1節に、詩人である預言者はこのように語っています。「いかに幸いなことで しょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、 心に欺きのない人は」。ここにのみ私たちの救いがあるのです。それは主なる神が恵みとして信ずる者すべ てに与えて下さる、生きた現在の救いの出来事です。測り知れないほど大きな私たちの「罪咎」ですけれ ども、その「罪咎」が主によって「赦され」ること、そして「覆われる」ことに、私たちの本当の救いと 幸いと自由があるのです。それこそが十字架の主イエス・キリストによる「罪の贖い」の恵みです。  そこで、私たちが主キリストの義に覆われ、主の十字架の恵みによって生きる者となる幸いを、パウロ は「キリストを着る」と語りました。ちょうど消防士が防護服を着て炎から身を守られるように、私たち は十字架の主イエス・キリストを信仰によって「着せて」戴いて、罪の結果たる滅びから身を守って戴く のです。だから詩人は「主に咎を数えられず、心に欺きのない人は(幸いである)」と歌いました。これは 「キリストを着た人こそ真に幸いである」という意味です。そして「キリストを着る」とは、主が私たち の救いのためになさって下さった全ての救いの御業を“アーメン”と信じて教会に連なることです。とて も具体的なことです。教会に連なり、キリスト者として歩むことです。その時、私たちは「心に欺きのな い人」にならせて頂けるのです。  この「心に欺きのない人」とは、すごい言葉ではないでしょうか。私たちは本来、これだけは言えない 存在なのです。自分の生活態度や考えかた、思想や価値観、判断力や人との付き合い、このような外面的 な物事、つまり水平の人間関係に対しては、自分のことを「心に欺きのない者です」と言える人も、ある いはいるかもしれません。しかし垂直の「主なる神の御前に」自分が「心に欺きのない者です」と、いっ たい誰が言いうるでしょうか?。パウロはローマ書3章10節に「正しい者はいない。一人もいない」と 申しました。この世界に70億人の人間がいるとしても、自分の力で、単独で、神の前に「義とされる」 人は一人も存在しないのです。  昨年は宗教改革500周年という記念すべき年でした。宗教改革が起こった根本的な理由は、人間が、そ して当時の教会が、キリストの恵みを抜きにして、自分の力や功績を頼みとして「自分は心に欺きのない 者だ」と言い始めたからです。その現れが免罪符でした。免罪符は正式には「贖宥券」と言います。この 「贖宥」とは「人間は自分の功績(また聖人の功績)によって救われる」という教えです。それを公式化 したものが「贖宥券」(免罪符)でした。ルターはそこに神に背く罪の本質を見ました。教会という大木の 幹が空洞化しているのを見たわけです。それで1517年10月31日にヴィッテンベルク城教会の扉にラテ ン語で書かれた「95箇条の提題」を提示して、ローマ教皇庁に対して公開質問状を突き付けたのです。  そこで、今日はその「95箇条の提題」の第一命題を心に留めましょう。このような文章です。「我らの 主イエス・キリストが“汝ら悔改めよ”と言いたもうたとき、主は、信ずる者の全生涯が悔い改めの連続 であることを欲したもうたのである」。この「悔改め」とはギリシヤ語で言うなら「メタノイア」つまり神 に立ち帰る喜びです。「キリストを着る」幸いです。大切なことは、この主語が「我らの主イエス・キリス ト」であることです。主は私たちにただ一つのことを望んでおられる。それは私たち信ずる者の「全生涯 が悔改めの連続であること」です。言い換えるなら、私たちが日々十字架の主の恵みに堅く立つ僕になる ことです。ただそこにのみ、私たちの真の救いと生命があるからです。  皆さんの中にも、ときどき、こういうことを言ったり、思ったりする人がいないでしょうか?。「いま家 庭の中に、職場の中に、大きな悩みがある。自分のようなダメな人間は、とても礼拝に出席する気持ちに なれない。礼拝をしばらく休ませてもらおう」。これは要するに、キリストではなく自分を頼みとすること です。「自分の問題を自分で解決してからキリストのもとに行こう」と言うわけです。私はいつも「それは 逆ですよ」と申します。例えて言うなら「病気が治ってから医者に行こう」と言うのと同じ矛盾です。こ れは順序の問題だけではありません。「悩みがあるなら、その悩みを丸ごと抱えたまま、礼拝に出席して下 さい。なぜなら、主は義人を招くためではなく、罪人を招くために、世に来て下さったからだ。主はある がままのあなたを、限りなく愛し、招いていて下さるのです」。主語は、救い主は、いつもキリストです。 私たちではない、あなたではない、誰かでもない、私たちの救いのために、まさに「死に引導を渡された かた」が私たちと共におられる、それが大切な唯一のことです。  まさに、その福音の告知として、今朝のガラテヤ書3章13節が与えられていることを覚えましょう。「キ リストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」。 神は私たちを罪と死から贖い、救いを与え、永遠の生命に甦らせて下さるために、私たちのために「呪い」 の十字架を担われ、私たちの罪の極みに連帯して下さった救い主なのです。それが、十字架の主イエス・ キリストのお姿なのです。神の御子みずから、私たちの罪の「呪い」を、永遠の滅びとしての死を、引き 受けて下さった。絶望をさえ担い取って下さった。私たちを「律法の呪い」すなわち罪と死の支配から解 放して下さった。ここに聖書が宣べ伝える福音の神髄があります。「十字架の主」なるイエス・キリストの お姿があるのです。  十字架の主が、私たちの人生を根底から支える、堅固な幹となって下さった。その主が、いま私たち一 人びとりに約束して下さるのです。「あなたの罪は私が贖った。さあ、私と共に立ち上がり、安心して行き なさい」「私は永遠にあなたと共にある」と!。祈りましょう。