説    教    詩篇71篇16〜18節  テモテ第二の手紙4章1〜8節

「神の御前に」

2018・06・17(説教18241754)  「テモテへの第二の手紙」は第一の手紙と同様、キリストの使徒パウロが、その生涯の最後にローマの 獄中より、愛する同労者・若きテモテに書き送った手紙です。ですからこの手紙はパウロの絶筆であると 考えられています。事実パウロはテモテへの第二の手紙を書いた数ヵ月後、西暦68年にローマで殉教の 死をとげました。その意味でこの手紙は、死を目前にした使徒パウロの、伝道に賭ける熱意が迸る内容で す。  とりわけ、今朝お読みした4章1節以下8節までの御言葉は、伝道の戦いを最後まで忠実に担い続けて くれた、同労者テモテに対するパウロの懇ろな勧めと共に、唯一の贖い主なるイエス・キリストの御業、 そしてキリストを世に遣わしたまいし父なる神に対する、限りなき感謝と讃美とが満ち溢れているところ です。  さて、この手紙の受取人・テモテなる人物について、私たちは聖書の御言葉から、彼がガラテヤ州のリ ストラの出身であったこと、ギリシヤ人を父としユダヤ人を母として、敬虔な信仰を持つ母方の祖母ロイ スから、先祖伝来の信仰の良き賜物を受継いだ人であったことを知ることができます。この経緯について は、パウロ自身がこの手紙の1章3節以下に次のように記しています。「わたしは、日夜、祈の中で、絶 えずあなたのことを思い出しては、きよい良心をもって先祖以来つかえている神に感謝している。わたし は、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。また、あなた がいだいている偽りのない信仰を思い起こしている。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母 ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している」。  同時にパウロは、テモテに対して1章6節以下に、このように勧めています。「こういうわけで、あな たに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、 神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。だから、あなたは、 わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはなら ない。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。神はわたしたち を救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、 神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そ して今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである」。  ここにパウロは、テモテの信仰を「偽りのない信仰」と呼んでいます。この「偽りのない」とは、直訳 すれば「神の御前に裏表がない」という意味です。表面だけの信仰ではなく、生活のどこを切り取っても、 そこに“キリストの僕”たる信仰生活が現れる、そのような信仰をテモテは持っているとパウロは評して いるわけです。このパウロは、さらにテモテに対して、いま自分がローマの獄中に囚われていることによ って、伝道の働きが停滞してはならないと強く戒めています。それは7節にあるように「神がわたしたち に下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊」だからです。神の聖霊に促され導かれて、パ ウロはテモテに「むしろ、神の力に支えられて、福音のために(いつも)わたしと苦しみを共にしてほしい」 と勧めています。そして、それは少しも私たちの能力や資格によるものではなく、ただ神が御子イエス・ キリストにおいて与えて下さった、測り知れない救いの出来事による「神の賜物」なのだと、力強く語っ ているわけです。  テモテという青年は、性格的に非常に温和な人であったようです。後年、彼の性質が優しすぎることが コリントの教会で問題視されたことがあったほどです。厳しい伝道の戦いには相応しくないと考える人も いたのです。しかしパウロは、テモテの内に秘められた、伝道への燃えるような情熱を見抜いていました。 使徒行伝14章19節に、パウロが第2回伝道旅行のおり、ルステラにおいて迫害を受けたことが記されて いますが、そのときパウロによってキリストを信じ、洗礼を受けたのがテモテの一家でした。当時まだ少 年であったテモテは、やがてガラテヤ教会の交わりの中で大きく成長し、パウロの伝道を助ける忠実な同 労者へと成長してゆきます。  マケドニア、コリント、エペソ、そしてガラテヤと、苦しい伝道旅行の全行程を、テモテはパウロと共 に忠実に歩み、その「偽りのない信仰」によってキリストのみを証し、御言葉のみを宣べ伝え、あらゆる 苦難を忍び、また私生活においては3章10節にあるように、常にパウロの「教え、歩み、志、信仰、寛 容、忍耐」に倣い、その全生涯を同胞隣人の救いのために神の僕として献げ抜いたのでした。テモテは使 徒パウロの殉教の後にエペソ教会の初代監督となり、さらに22年間にわたる伝道の働きののち、ドミテ ィアヌス帝の迫害のもと、62歳で殉教の死をとげたと伝えられています。  さて、そこで今朝の4章1節以下の御言葉ですが、特に5節までの大切な勧めの中で、パウロはテモテ にこのように語っています。「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスの まえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても 悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教え に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを呼 び集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなた は、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務めを全うしなさい」。  この御言葉は、今日においてこそ、私たちが正しく受け止めるべき御言葉です。ここにパウロは「神の みまえ」という言葉を用いています。これはラテン語で申しますと「コーラム・デオ」という言葉で、宗 教改革者カルヴァンが大切にした、私たちキリスト者の基本的な生きかたです。教会とそこに連なる私た ちは、いつも「神のみまえ」に生き続ける群れであらねばなりません。私たちの生活は「神の御前」にの み本当の平安と幸いと喜びがあるからです。人間はいくら豊かな生活をしても、健康と寿命に恵まれても、 神の御前の自分の罪の解決なくして決して平安と幸いと喜びはないからです。創世記3章において、神の 御言葉に叛いたアダムとエバは、神の御顔を避けて隠れる者になりました。神の御前にあるべき生活から 離れて、神との関係を喪失した孤独な生活になった、そこに私たち人間の罪の本質があるのです。  それならば、ここでパウロが勧めている「神の御前に」とは、既にそのこと自体が私たちの限りない救 いであり、平安と幸いと喜びであることが、わかるのではないでしょうか。私たちは神の御前にあるどこ ろか、神から離れてしか生きえなかった存在でした。神の御前に立ちえざる者でした。その私たちが、十 字架のキリストによる完き罪の贖いによって、「神の御前に」生きる真の平安と幸いと喜びを「神の賜物」 として戴いたのです。それがいまここで私たちに与えられている救いの出来事です。  この救いの喜びを知る者として、パウロは今朝の4章1節に「生きている者と死んだ者とをさばくべき キリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる」と語っています。 ここで言う「キリストの出現」とは、ただ単に神がご自分を現わして下さった、ということではありませ ん。過去の出来事ではないのです。御言葉と聖霊により、生ける神ご自身が、救い主イエス・キリストが、 いまここに現臨していて下さるのです。この神の現臨(real presence)こそが大事です。この「キリストの 出現」に対する怖れと服従のないところに、本当の信仰生活は成り立ちません。それこそまさにカルヴァ ンの言う「神の御前にある生活」です。  言い換えるなら、私たちの信仰の生命は、キリストにのみあります。さらに申すなら、私たちの信仰生 活の中心は教会です。聖書のどこを見ても、信仰生活の中心はキリストであり教会であって、私たちの個 人的な経験や熱心さではありません。つまり、私たちの救いの確かさは、私たちのために人となり、十字 架にかかりたまいし神の御子イエス・キリストの救いの恵みの確かさです。十字架の主の贖いの恵みの確 かさこそ、私たちの救いの確かさなのです。そして教会は聖霊によって、御言葉を通して、そのキリスト の御臨在の恵み、まさに今朝の1節に言う「キリストの出現」が、いまここにおいて私たちを救って下さ る主の御業が‐real presence として‐私たち一人びとりに現われているのです。  ですから、キリスト者として生きることは、私たちが完全な人間になることではありません。私たち自 身を顧みるなら、数え切れぬほどの欠点、弱さ、破れがあるのです。まさにそのような私たちが、あるが ままにキリストを信じ、キリストに従うのです。ここに、この私の全てを罪から贖って下さった救い主が 臨在したもうことを告白し、喜びと感謝をもって礼拝の群れを形造るなら、初めて礼拝に出席した人たち も、素晴らしい印象を受けるでしょう。「ここには、世の中の何物も与ええない、本物の救いがある」とい う感想を抱くことでしょう。そのとき、私たちのこの礼拝そのものが、キリストの出現を物語るものとさ れているのです。その意味でこそ「神の御前に」生きる私たちとされているのです。  今朝の御言葉の6節以下で、パウロは、殉教の時が近づいていることを予感しつつ、しかしそこに、キ リストの僕として「神のみまえに」生きる僕として下さった神の恵みの確かさを讃美しています。「わたし は、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦 いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりで ある。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主 の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。  パウロは、否、私たちは、いまここでこそ、この確信と喜びに満たされているのではないでしょうか。 この「義の冠」とは、贖い主キリストの救いの恵みそのものです。それが、この罪人のかしらなる私のた めに備えられている。それならば、神はその「義の冠」を、主の出現(キリストによる救い)を心から待ち 望んでいる全ての人にも授けて下さるであろう。この喜びに満ちた確信と共に、パウロは自分の過ぎ来た りし旅路を顧みて、それは全て、自分の罪を贖い、使徒となして、御業のために用いて下さった、主キリ ストの恵みの「現われ」であったことを思い、ただ主のみを讃美し、感謝を献げつつ、主の御手に自分の 全てを委ねているのです。  思えばテモテよ、あの険しい山々、あの深い谷、迫害の中を行くときにも、焼けつく砂漠も、荒れ狂う 海も、その全てを主は祝福への旅路として導いて下さった。この私たちの人生は、地上の旅路は、私たち を待つ永遠の御国、朽ちぬ生命へと、私たちを導く「神の御前に」ある旅路です。このことを思いつつ、 たとえ今日、あなたのみもとに召されましょうとも、私は限りなき讃美と感謝を御前に献げつつ参ります、 そのようにパウロは、否、私たちは歌いつつ、主を讃美しつつ、「神の御前に」生きる者とされている。そ の祝福と平安から、私たちを引き離すものは何もない。そのことを、私たちは今朝の御言葉を通して、確 かに知らしめられているのです。祈りましょう。